50.子猫伯爵とすれ違う心
「ミオン、話がある」
そう呼び止めたのはカイト・デルホークだった。
「……話、ですか?」
「警戒しなくて良い。バロッドの件で伝えたい事があるだけだ」
あの一件から数日。
帰り支度を整える一人きりのオレの前にカイトが立つ。
特にハンスがオレが一人になるのを嫌っていたが、それでもずっと一緒にいるわけにはいかない。
家の手伝いがあるというハンスを何とか送り出し、寮生としての義務があると掃除に駆り出されたユージーンたちと別れ、オレは久しぶりに静かな空気を満喫していた。
しかしながらオレだって鼻歌混じりにのんびりしていたわけではない。
一度広まった話が数日程度で下火になるわけもなく、オレを聖人と呼ぶ連中もまだまだ元気いっぱいなのだ。
当人たちは至って真面目なのが、かえって性質が悪いというべきか。
彼らには悪いがオレは出来るだけ関わり合いになりたくない。
少ない荷物をテキパキと集め、すぐさま帰ろうと立ち上がったところで、カイトに捕まったのである。
まさかとは思うが、あの一件以来オレが一人になるのを待っていたのではないだろうか。
狙ったように声をかけてくるカイトに体を固くする。
(警戒すんなって方が無理があんだろ……!!)
同じ貴族派の、しかも取り巻きの一人だったサマルに悪評が立ってしまったのだ。
仲が良いように見えた事はないが、オレに目を付けるには十二分の理由だ。
とうとう本格的にカイトに目をつけられたのだと、教室の隅で逃げ場のないオレは息を呑んだ。
「お前たちは下がれ」
視線をあちこちに泳がせるオレに気づいたのだろうか。
カイトは周りにいる取り巻きたちに目配せをする。
彼らは顔を見合わせると、少し離れた場所へと移動した。
「えー!やっとミオン様と遊べると思ったのに!」
「またお預けー?」
何をしなくても騒々しいキャメロン兄妹が暴れようとするのを、オズウェルが巨体で抑え込む。
太い腕にガッチリと抱かれた双子は唇を尖らせながらも口を閉じた。
手だし無用という事らしいが、オレはまだ踏ん切りがつかない。
二の足を踏むオレにルーカスが穏やかな表情で笑いかけた。
「どうかカイト様の話し相手になってくれませんか?」
カイトの取り巻きの中でも、とりわけ真面目そうで話が通じそうな男だ。
見るからに好青年なルーカスに促されると、行かないわけにもいかなくなってくる。
ここでいつまでも強情を張っていては、オレの方が悪者のように見えかねないだろう。
聖人のイメージ払拭のためには多少悪になるべきなのだろうが、カイトに喧嘩を売れるほどオレの心は強靭ではなかった。
「……オレで良ければ」
「それは良かった。場所を移そう」
ゆっくりと一歩を踏み出すと、カイトがふっと笑って先を行く。
オレはカイトの取り巻きを置いて、てとてとと広い背中を追いかけていった。
彼らもついて来るような無粋な真似はせず、オレたちを見送ってくれる。
辿り着いたのは学院内に用意されたサロンだ。
しかしながらトラスティーナ教授に連れてこられた一般貸し出しされるような部屋ではない。
王族や三公のために特別に用意された一間で、広さも装飾も何もかもが桁違いだった。
ここにある椅子一脚で他のサロン一室以上の価値があるのではないだろうか。
何にせよ、本来ならオレのような端役が足を踏み入れて良い場所ではない。
(……オレの家だってここまで豪華じゃねーよ)
ここに招かれるという事は、公爵家に招かれる事と同義だ。
のこのことカイトの本陣に足を踏み入れてしまったわけだが、オレは贅を尽くした造りに唖然とするばかりで危機感はどこへやらだった。
大理石の天板が眩しいテーブルにはお茶菓子が並び、オレたちが来たのを確認して背の高い少女がカップにお茶を注ぐ。
ふわりとハーブの香りが漂い、優しい色の液体が白いカップの中を満たした。
「私はこれで失礼致しますわ。ミオン様、どうぞごゆるりとお過ごしくださいませ」
伯爵令嬢ミルドレッド・ビルズがドレスの裾をつまんだ。
ミルクティーのような甘いベージュ色の髪をなびかせる姿は美しい気品を感じさせる。
一転、薔薇色に染まる頬は愛らしく、カイトを見つめる瞳はどこか恍惚とするものがあった。
彼女がサロンを出ていくと、カイトが深緑を宿した目でオレを見る。
そして事もあろうに椅子を引いてオレを手招いた。
「座らないのか?」
「え、あ、どうも…?」
公爵令息がする事ではないと思いつつ、薦められたからには座らないわけにもいかない。
それともオレが知らないだけで、この世界の男には誰が相手でもエスコートするのが流行っているのだろうか。
ハンスもいつも使用人めいた事をするし、良い男の条件にあるのかもしれない。
オレは困惑しながらも腰を下ろした。
居心地悪く座るオレの正面にカイトが座り、またしてもじっとオレを見る。
先日のトラスティーナ教授との既視感が拭いきれないが、カイトがそれを知る由もなし。
オレは黙って相手が切り出すのを待った。
数秒にも満たない沈黙の後、カイトが静かに口を開く。
「――バロッドの事はすまなかった」
オレは目を見開いた。
そうでなくとも大きい目をまん丸にし、思わずカイトを見つめてしまう。
(謝った?デルホークが?オレに?)
思い浮かんだ単語がぽんぽんと頭を横切っては抜け落ちていく。
それだけ衝撃だったというのもあるが、オレの口はぽかんと開いてしまっていた。
その間抜け面を気にも留めずカイトは続ける。
「今回の件は俺の不始末だ。バロッドには下手な真似をするなと言っていたのだがな。どうにもその意味が分かっていなかったようだ。ここまで大事になる前に手を打てず悪かった」
言って、短く嘆息する。
鵜呑みにして良いかは分からないが、この言葉が本当ならカイトはサマルを止めていた事になる。
(……思い違いじゃないのか?)
薄々――いや、そんなはずないと目を逸らしてきただけで、カイトが小説に書かれるような根っからの悪人ではない事を感じてはいた。
公爵令息として品位を崩す事はないし、サマルのようにどこかしこで悪口を言うわけでもない。
オレに対してはいつだって優しかったと――そう思う。
「公爵家の人間が、そう簡単に謝るものじゃないと……思います」
「フッ…これはただのカイトからの謝罪だ。そんな大それたものじゃない」
「は、はぁ……」
どう接して良いかが分からなくなり、当たり障りのない言葉しか出てこない。
カイトを信じて良いのか、それとも引き続き警戒し続けるべきなのかもオレには分からなかった。
(ただのカイトって何だよ)
そんな冗談も言えるのかというのもあるが、ただのカイトなんて言われても、オレにはその誠意に報いるものがない。
心の中に生まれた気まずさを追い払うように、オレはまだ熱い紅茶を口に含む。
火傷しないように入念にお茶を冷ますオレとは違い、カイトは何の躊躇いもなしにカップを傾けていた。
「バロッドはよほどウィルフレッドが嫌いらしいな。釘は刺しておいたが、もしバロッドが恥の上塗りをするようならすぐに言え」
「バロッド…様に会いに行かれたんですか?」
「一応はな。だがウィルフレッドにやられたのが相当堪えたようだ。もっと騒ぎ立てるかと思ったが、存外大人しいものだった」
「そうですか」
カイトなら許してくれそうな気もするが、オレとて礼儀くらいは身に着けている。
不服とは思いつつ、ちゃんとサマルに敬称を付けておいた。
単にサマルの私生活に興味がないだけではあるが、冷静なオレの反応が意外だったのかもしれない。
「……お前はそれで良いのか?」
目を細めたカイトが持っていたカップをソーサーに戻す。
いつもの余裕ぶった笑みはなく、苛立ちにも似た色が声に乗っていた。
「バロッドがした事は俺から見ても目に余る。本当にこの程度で済ましてやるつもりなのか?」
底の見えない深緑がオレを捉えて離さない。
一度でも迷い込んだら抜け出せない、深く暗い森のような緑がオレを誘っていた。
誘い込むようなカイトの言葉に――首を振る。
「オレはバロッド…様が嫌いです。出来るなら関わらないで欲しいと思ってます。でもだからといって、いなくなって欲しいとか、人生転落して欲しいとまでは思いません」
箪笥の角に小指をぶつけろとか、渡る信号全て赤になれくらいは思うが、本当にそれだけだ。
この世界では何の意味もない事なのはさておき、ちょっとした不幸に見舞われろくらいにしか思わない。
(……それに小説のままいくとバロッドは牢獄行きだ)
救いようのない馬鹿だと思うし、わざわざ救ってやる気だってない。
けれど、原作通りの最低を望むほど落ちぶれるつもりもない。
サマルのせいで酷い目に遭ったが、それはハンスに殴られたサマルも一緒だ。
オレとサマルの件はそれで両成敗である。
スミレに手を出した事だけはどうあっても許せないが、だからと言ってサマルの一生が奪われる必要があるかと問われればオレは首を振る。
結果論とはいえスミレは助かったのだから猶更だ。
「オレは……反省してくれれば、それで良いです」
「そうか。ならこれ以上言う事もない」
オレの言葉にカイトはあっさりと身を引いた。
もしオレが憎いと言えばカイトはサマルを潰しにかかったのだろうか。
読めないカイトの言動に、オレは疑問をぶつけてみた。
「あの…、デルホーク様はどうしてオレに良くしてくれるんですか?」
おずおずと尋ねるとカイトは視線をカップの中へと向ける。
それも束の間、どこか寂しげに微笑んだ。
「その答えはお前も知っているはずだが?」
「オレがですか?」
知っていると言われてもオレの中にあるカイトの記憶は『ラブデス』のものがほとんどだ。
唯一あるのも招待状を送られた出来事だけである。
その招待にだって顔を出さなかったのに、いつどこで接点があったというのだろう。
しかも、しかもだ。
前世の記憶を取り戻したのもあって、オレはデルホーク家以外のパーティーへ行く事さえ避け続けた。
やはりいくら考えても学院以前にカイトとの接点が見当たらない。
それ以外となると貴族派への取り込みだけだ。
「オレを取り込んだとしても父は動かないと思います」
「それはそうだろうな」
事もなげに相槌を打つカイトにオレは疑念を深める。
貴族派への取り込みが目的じゃないとすれば後はもうお手上げだ。
年相応を越えて自分勝手で我儘だったオレが慈善活動に取り組んでいた覚えもない。
回り回ってカイトに恩恵がある何かに関わっていたとしていたら、それこそ奇跡のような話だ。
カップを両手で包んだまま思案するオレに、カイトはふっと笑みを溢す。
そしてはぐらかすように紅茶を口に含んだ。
「聖人と呼ばれる気分はどうだ?」
「え、いや、嬉しくないですけど」
「はは、正直だな。だがたしかに聖人などと呼ばれて良い事はあまりないかもしれないな。直に噂も消えるだろうし、今しばらくは聖人気分を味わうと良い」
カイトの顔に笑みが戻る。
「トラスティーナ卿は気を利かせたようだがな。だが人払いもろくに出来ないバロッドの落ち度だ。お前の望む結果ではなかったかもしれないが、気に病む事はない」
言いながら、カイトがお菓子に手を伸ばした。
色も形も様々なクッキーの前で手を彷徨わせ、眉を寄せる。
「甘くないのはどれだ」
「え…、それならこの辺が……」
「そうか。ミオンも好きに食べてくれ」
反射的に答えると、オレが薦めたものを口に運ぶ。
だが用意されたお茶菓子はどれもクリームがたっぷり乗った甘くて可愛らしいものばかりだ。
(……オレのために用意したのか?)
今の反応からいくと、カイトが自分で食べるために用意したものではないのだろう。
オレにも食べろと言うし、至れり尽くせりの事態に頭の中が余計にこんがらがっていく。
(むぅ…お菓子に罪はないしな……)
毎日ねだるには高級なお菓子の誘惑に勝てず、オレは遠慮がちに手を伸ばした。
一応カイトに気を遣って甘さが控えめのものは避けておく。
サマルの話を終えたのもあって、弾まない会話を肴にオレとカイトは奇妙なお茶の時間を過ごした。
「――この花の名前を知っているか?」
ふいにカイトがテーブルに飾られた花を見る。
その視線を追うように見つめた花瓶には、紫色の花が生けられていた。
小さな花が輪を作るように連なって咲いている。
「花には詳しくなくて……」
オレが知っている花なんて桜とバラとチューリップとツツジとラベンダーとその他諸々本当に有名な一握りだけだ。
綺麗な花だとは思うがそれ以上の事は分からない。
素直に謝るとカイトは僅かに目を伏せた。
「ヴェルヴェーヌ――俺が一番気に入っている花だ」
「……綺麗な花ですね」
顔に似合わずカイトにも花を愛でる心はあるらしい。
思い浮かんだままの感想を声に出すとカイトは満足したようだった。
笑みを深め、やはりどこか寂しげな目でオレを見る。
「俺が怖いか?」
否定は出来ない。
肯定も出来ず黙していると、カイトはその顔から笑みを消した。
「優しい事はお前の美徳だ。だが心は有限だ。食い荒らされるような真似は控えろ」
「オレはそんな風に思った事は……」
「そうだとしても、抱えられるものには限界がある。まさか奴ら全員の将来を保障してやるわけでもないだろう?なら夢を見させるものじゃない」
和やかだった空気を切り裂いてカイトが冷たく言い放つ。
機嫌を損ねたのかと思ったが、これが遠回しな心配である事にはたと気が付いた。
(……お前にとってオレは何なんだよ)
知っていると言いながらその答えは明かさず、遠回しにオレを気に掛けるカイトにオレは得も言えぬ気持を抱く。
そこにはオレのせいで欠けてしまった何かがある気がしてならなかった。
(――仲、良かったんだろうな)
『ラブデス』の中でカイトの右腕として登場するのがシャルルとサマルだ。
サマルはだいぶ自称な気もするが、侯爵令息であるオズウェルやルーカスを押さえてシャルルがその場所に立っていたのも、今だからこそ分かる事とはいえ不思議な話だ。
正直、シャルルとしてだけ生きた過去を考えても、シャルルが特別優れているとは思い難い。
それにも関わらずシャルルは数少ない名前ある取り巻きだったのだ。
きっとカイトにとってシャルルは、取り巻きなんて言葉で収められる存在ではなかったのだろう。
それを知る術はないが、何となしにそう思った。
(けどオレは――)
カイトとは道を違えたのだ。
オレは『ラブデス』のシャルルではないし、ハンスと進む道を選んだ。
今はまだ、もしなんてものを考える時ではない。
「……デルホーク様」
空になったカップを置き、カイトを見つめる。
「今日はありがとうございました。バロッド様の件はどうぞお気になさらず」
頭を下げ、席を立つ。
その間もカイトは表情を変えずにオレを見つめ返していた。
一度たりともオレを叱責する事はなく、ただ静かに見送ろうとしてくれる。
「最初に俺が言った事を覚えているか?」
ドアの前に立った時、カイトが声をあげる。
最初の事は印象的でありながら、いっぱいいっぱいだった事もあって細かいところまで記憶にない。
答えられずにいるとカイトが優しく微笑んだ。
「どんな理由でも構わない。お前が居場所を必要とするなら、いつでも歓迎しよう」
「……ありがとうございます」
もう一度頭を下げ、オレは飛び出すようにサロンを後にした。
(なんで……)
あまりにも穏やかに微笑むカイトの顔が頭から離れない。
罪悪感なのか、それともシャルルとしての感情なのか、泣きそうになってしまった。
それでも――
オレがカイトの手をとる事はこの先もずっとないのだろう。




