▼.サマル・バロッド
私の人生が狂ったのはあの男のせいだ。
憎きハンス・ウィルフレッド。
あの男と出会ってから全てが狂い始めていった――。
最初にあの男を認識したのは神学院に入ってからの事だ。
恥も自らの力量も知らず学院に足を踏み入れたのが件のハンス・ウィルフレッドだった。
商会の息子か何か知らないが、貴族の相手も出来ないような弱小商家、何の話にもなりはしない。
ハンスを筆頭に場違いな場所にいる庶民共は皆一様に気に入らなかった。
同じ空気を吸っていると思うだけで具合が悪くなりそうだ。
あの男が目につくようになったのは、早い事で入学式の翌日だったか。
馬鹿な事にカイト・デルホークのお気に入りシャルル・ミオンに声をかけたのが原因だ。
下賤の者らしい一方的な熱量にミオンは困惑し、カイトは当然それを良く思わなかった。
以降、カイトは誰がウィルフレッドに手を出しても止める事はしなかった。
それは暗黙の了解というやつだ。
恰好の的を得た用足りず共も、オズウェル・ガーネットを中心にウィルフレッドに日々の鬱憤をぶつけ続けた。
私もまた作法の一つも知らないウィルフレッドにあの手この手で立場を分からせやろうとした。
だが、あの男は不思議な事に折れようとしなかった。
どれだけ痛めつけようと、どれだけ侮辱しようと、どれだけ孤独になろうと、けして折れなかった。
いつも澄ました顔が気に入らなくて私は姿を見る度に気分が悪くなっていった。
最初はただ気に入らないだけの平民だった。
手頃なストレス発散の相手だった。
それなのに、いつしかウィルフレッドは目障りな障害へと変わっていった。
落ちぶれないあの男は私の憎悪を駆り立てた。
加護の扱いが優れていると騎士爵のお墨付きをもらう事に始まり、同じ貴族の中でも奴の実力を認める者が現れ始めた。
まともにやり合えば勝てるわけがないと私を諭そうとする者まで出る始末だ。
熾烈化する私の行いが癇に障ったのか、カイトもまた私を見下した。
あれもこれも全てウィルフレッドのせいだ。
何もかもが気に入らない。
気丈に振る舞う態度も、いつも澄ました顔も、自らが正義だと疑わない姿勢も――すべてが全て。
恵まれた容姿。
恵まれた体格。
恵まれた才能。
それら全ては弱者である平民如きが持って良いものではない。
日増しにウィルフレッドへの憎悪が燃え、嫌悪が募り、腹の中が煮えたぎりそうだった。
こうなるともうウィルフレッドの心を折って、跪かせなければ気は済まない。
どうしたものかと頭を悩ませる私の目に、庭園で猫を追いかけるウィルフレッドが映り込む。
「――ああ、そこにあったのか」
抜け落ちていたピースがピタリと嵌る。
あの小汚い猫を使えばウィルフレッドの心を折るのも容易いだろう。
正義を振りかざすあの男が何も守れず無力に膝を折る姿を想像すると、笑いが隠せなかった。
計画通りに猫を捕まえた後は簡単だ。
ウィルフレッドを庭に呼びつけ、良い見世物があるとカイトたちを庭園へと招待する。
これでカイトも私を見直すに違いない。
憎きウィルフレッドのせいで地を這っていた評価も、これで元通りに、いやそれ以上になるはずだ。
カイトにとっても煩わしいあの男を私が代わりに消してやるのだ。
それだけの価値がある事だろう。
しかし生意気な猫だった。
引っ掻こうとするのを蹴り飛ばしてやった今、猫は檻の中でぐったりと横たわっている。
「バロッド、何を見せようと言うんだ?」
ミオンと共に現れたカイトが退屈そうに私を見る。
端から期待していないという態度に心底苛つくが、それもあと少しの辛抱だ。
カイトについて回るだけの金魚の糞は、今日もべったりとカイトにひっついている。
身分を弁えないその態度も、それを許すカイトも腹立たしい。
こんな男が公爵家の人間なのだから、こちらにまでしわ寄せが来るのだ。
だが今はお立ち台に文句を言っている場合ではない。
久方ぶりに気分の高揚した私は布のかかった檻を二人の前に持ち出した。
「まずはこれをご覧ください」
バッと布をまくり、閉じ込めた猫をカイトに見せつける。
カイトは僅かに顔を顰め、ミオンは唖然とした表情で檻の中を見ていた。
ミオンのような甘ったれには刺激が強過ぎたかと思えば――鼻をつく嫌な臭い。
(あの程度で死ぬとは――)
少し計画が狂ったが、ウィルフレッドの心を折るのには十二分だ。
笑みを絶やさずに、檻に布を被せた。
少しは匂いがマシになったのを確認して、カイトに話しかける。
「ウィルフレッドが可愛がっていた猫です。これを見せつければウィルフレッドの奴も少しは自分の立場を覚える事でしょう」
カイトはぴくりとも笑わなかったがまあ良い。
私は隠し切れない興奮を顔に浮かべ、ウィルフレッドの登場を心待ちにする。
結果は――失敗だった。
ウィルフレッドは逆上し、手あたり次第にその場にいた全員を殴り飛ばした。
加護を使って迎え撃とうとするも、ウィルフレッドには寸でのところで届かない。
そんな事はありえないのに、あってはいけないのに、私はウィルフレッドの拳の前に撃沈した。
「――お目覚めになられましたか」
目が覚めた時、私は自分のベッドに横たわっていた。
体中が痛み、気分が悪い。
「司祭はどうした!!医者の一人も呼んでないのか!!」
その場にいた使用人に当たり散らす。
だが使用人は薄気味悪い笑みを浮かべるばかりで、意にも介さず言い放った。
「全て旦那様のご命令です。お目覚め次第、旦那様の元へ向かうよう言伝を頂いております」
怒りに震える体を押さえ込む。
「どいつもこいつも役立たずめ…!!」
叫び、痛む体を引きずって父が待つ書斎を目指す。
片腕は折れ、思うように動かない。
足は折れていないようだったが、しっかりと足をあげて歩くのは難しそうだった。
顔はもう見るに堪えないくらいボロボロだ。
目は腫れ、鼻はひしゃげ、歯も数本抜け落ちているではないか。
ズキズキと穴の開いた歯茎が痛み、まともに思考をするのもやっとの事だ。
(許さない…!絶対に許さないぞウィルフレッド…!すぐに父上に言って、奴の家を潰してやる…!!)
怒りだけを原動力に書斎に入る。
椅子に座ったままの父の顔に浮かんでいたのは心配などではなく軽蔑の色だった。
「サマル、お前には失望した」
羽ペンのインク詰まりを確認するようにペン先を見つめ、父はそう言った。
冷たくも小さな声が腹の底にズンと響く。
「何を仰って……」
「言葉のままだ。お前は何度私を失望させれば気が済むんだ?」
「お言葉ですが、父上を失望させた事など一度も――」
父がギロリと私を睨む。
その目は子供を見るような目つきではなく、有無を言わさぬ力があった。
「お前が学院でしてきた事が私の耳に入っていないとでも思ったのか?」
「ですが父上、私はただ…」
「全てお前の自業自得だ!!」
父が机を叩く。
かつてない迫力にびくりと体が震え、私はその場に立ち尽くすしかなかった。
「お前は鞭の振り方一つ忘れたか!!家畜の飼い方一つ覚えられないのか!!」
怒声が傷に響く。
体を縮こまらせる私を冷ややかに見つめ、父は冷たく言い放った。
「私がどんな思いでデルホーク閣下に頭を下げたと思っている。今回はお前一人の責任という形で収めて貰えたが、お前はもう少しでこの家を潰すところだったのだぞ!ミオンにまで頭を下げる羽目になるとは……、本当にお前は人を怒らせるのが得意なようだな」
「私一人の責任……?」
「何を驚いている?これだけの事をやっておいて言い逃れが出来るなどと思うな!やるならば一人で勝手にやれ!バロッドの名を汚すような真似をするな!!」
父の怒声が通り抜けていく。
どうやら私はカイトに切り捨てられたらしい。
心の中で嘲笑いが漏れる。
「……ふん。今ならば何故司祭を呼ばなかったか分かるな?」
愕然とする私をよそに、父は心底つまらなそうに窓の外を見る。
「お前にはその必要もないという事だ。傷が治るまで謹慎しろ」
「分かり、ました」
力の入らない腕を握りしめ、絞り出すように答える。
父はもう私に見向きもしなかった。
「少しはミハエルを見習え」
それを最後に部屋を追い出される。
しばらくドアの前で茫然としていると、満身創痍の私にただ一人声をかけてくる相手がいた。
「サマル……」
情けない顔のミハエル・バロッド。
ほんの少し私より見てくれが良いだけの能無しだ。
頭も悪ければ病気がちで人並み以下の体力しかない役立たずである。
その男が何故、私よりも期待されていると言うのか、まるで解せなかった。
「体調が優れないのでしょう?どうぞいつまでも部屋でお休みください」
「サマル、私の話を……」
「兄上と話す事などありません。私に説教をする気なら、せめて私より勉学に励まれてからにしてくださらなければ。まあ、兄上には無理な話でしょうが」
言い返す事も出来ずに黙ったミハエルを置いて部屋に戻る。
口すら回らないミハエルを見ていると気分が悪くなり、乱暴にドアを閉めた。
今頃カイトはのうのうと息をしているのだろう。
甘やかされたミオンは司祭の手で傷を治してもらったのだろう。
どうして私だけ――そう思うと余計に苛立ちが募っていく。
「許すものか…!許してなるものか…!!」
何よりもハンス・ウィルフレッド。
あの男だけは絶対に地獄に落としてやる。
それだけを思い、学院に戻った後もウィルフレッドを陥れる機会を伺い続けた。
――そして、私は全てを失った。
今の私にあるのは深い憎悪だけで、他のものは全て奪われてしまった。
質素な一枚切れの服とも言えない服を着せられ、今日も今日とて神殿の床を磨く。
水がいっぱいまで入ったバケツは重く、手を入れた水は指が痛むほどに冷たかった。
汚れに満ちた冷水で手は黒く染まり、指先はささくれだらけだ。
固く乾いたパンはお世辞にも食べられたものではない。
腹が満たされるほどの食べ物が出される事もなく、毎日腹を空かして従事に励む退屈な日々。
ここには煌びやかな服も、指を飾る宝石も、余る程の豪勢な食事も、時間を潰すための本も何もない、ただただ退屈なだけの無益な一日の繰り返し。
あの日を境に私の人生は壊れてしまった。
身分も名も加護も何もかもを奪われ、辺境の神殿へと追いやられるなんて誰が想像出来ただろうか。
カイトもミオンもウィルフレッドもジュリアナも父も兄も全てが憎い。
誰も彼もが憎くてしかたがない。
私は優秀なのに。
私こそが家を継ぐべきなのに。
何故誰も私を認めない。
あまつさえ私を陥れ、こんな牢獄へと突き落とそうと言うのか。
そうだ、私の人生が狂ったのはあの男のせいだ。
憎きハンス・ウィルフレッド。
今なお消えぬ憎悪が私を生き長らえさせ、あの男への復讐心を燃やし続けている。
(奴の全てを奪うまで死んでたまるものか)
何としてでもここを出てウィルフレッドに借りを返さなければ。
そのためならば私は悪魔にだって魂を売ろう。
(――それにしても腹が減ったな)
目の前に肉が転がっている。
火も通っていなければ、血抜きもされていない生肉だ。
だが腹が減ってしかたがない。
さして悩む事もなく、私は真っ赤な血を滴らせるその肉に手を伸ばした。




