47.子猫伯爵と嚙み合わない心
「――スミレ!!」
ガバリと起き上がり、オレは目をパチクリと瞬かせる。
オレの手が抱きしめているのは枕で、今しがた名前を呼んだ薄紫色の母猫ではない。
「おはようございます、シャルル様」
「あれ?クリスティアン?オレいつの間に帰ってきたの?」
「昨晩ウィルフレッド様がシャルル様を連れてきてくださいました。スミレ様方も今はお庭で休んでおられます」
「そっか、ハンスが……」
窓の外は明るく、爽やかさを伴う風が入り込んでくる。
時刻は昼を回っており、朧気な記憶を辿る限り半日以上眠っていたという事だ。
無茶をした自覚はあるがこんなに眠りこけたのも随分久々の事だった。
「ウィルフレッド様でしたら、まだ屋敷にいらっしゃいますよ」
クリスティアンがにこやかに微笑む。
その言葉を聞いたオレはベッドから飛び降りようとするが、皺の刻まれた手がオレを止めた。
「まずはお医者様に診て頂かなければなりません。旦那様を呼んで参りますので、けして起き上がらずそのままお待ちください」
「………はい」
「何かあればナサニエルに申しつけください」
圧を感じさせる笑顔にオレは素直に頷いた。
少女趣味も良いところのパジャマを脱ぎたかったが、勝手な事をすると後が怖そうだ。
甲斐甲斐しく世話をしてくれるナサニエルと昨日の話をしながら、クリスティアンを待つ事にする。
「シャルル…!目が覚めて良かった…!」
「もう心配したのよ!さ、可愛い顔を見せて頂戴」
「よく頑張ったね、シャル。もう心配はいらないよ」
バタバタと貴族の家らしからぬ騒がしい足音が響き、兄スコールと姉シルビアが勢いよくドアを開け放つ。
普段は厳格な父ラドフォードもそこに混じり、オレは早速もみくちゃにされた。
学生であるオレにとっては休日だが、父たちにはそうとも限らない。
だが今日は三人揃って休日になったらしく、オレは家族からの熱い洗礼を受ける。
オレが倒れたのも2年前――オレがオレとしての記憶を取り戻した時以来となれば、父たちも気が気ではなかったのだろう。
むぎゅむぎゅと大人しくたらい回しにされ、お詫びの印にそれぞれに抱擁を送る。
気恥ずかしさがまったくないと言えば噓になるが、この世界では抱擁や頬へのキスは割と普通の事だ。
医者からも問題ないと診断されたオレはようやくベッドを降りる事が出来た。
勝手に着せられたオレの趣味じゃないパジャマともおさらばだ。
「俺にはしてくれないんですかぁ?」
「……ん」
しゃがんで抱擁を待つナサニエルの頭をペチペチと軽く叩く。
肉親でもないのにいつまでも子供扱いする相手にはこれで十分だろう。
「ハンスに会いに行ってくる」
父たちとはこの後も話が出来るし今はハンスだ。
心配そうにしながらもオレに甘い父たちは一人で行く事を許可してくれる。
付け込むようで悪いとは思うが、好きにさせてくれる彼らが好きなのも事実。
オレはもう一度三人に抱擁を送り、まん丸に焼けたパンを齧りながらハンスが待つ庭園へと走っていった。
「――ハンス!」
「…っ…シャルル!もう大丈夫なのか?」
オレを見てほっとしたのかハンスが表情を緩ませる。
何があったのか、ハンスは一日で随分とボロボロになったようだ。
顔にも腕にも擦り傷と痣がたくさん出来ている。
治療用のテープと包帯をあちこちに付け、冒険帰りのような装いになっているではないか。
「治す?」
「大丈夫だ。病み上がりのお前に無理をさせるわけにはいかない」
苦笑を溢しつつハンスがオレの頭を撫でる。
言われてみれば、飛び出してきたものの気だるさは拭えていない。
自分から聞いておいて難だが、オレはハンスの言葉に甘える事にする。
ここに来てから出来た傷のようだし、スミレに引っ掻かれるか何かしただけだろう。
体調がマシになったら治す事にして、芝の上に座るハンスの横に腰かけた。
「にゃにゃー!」
「ンミャウッ!」
ハンスはここでスミレたちを見つめていたようだ。
元気に駆け回る毛玉が見え嬉しくなった。
急な引っ越しで不安になっているんじゃないかと思ったが、それも杞憂だったようだ。
オレの部屋にもスミレたちのベッドを置いて、それぞれの毛に合わせたクッションや餌入れを買ってと、スミレたちとの生活に夢を膨らませていく。
課題やサマルの暴挙のせいで忘ていたがオレが目指すのは悠々自適のスローライフだ。
オレなりに頑張ったのだから少しくらい我儘を言っても良いだろう。
それにこれはオレのために体を張ってくれたスミレへの御褒美でもある。
スミレたちにも美味しいものと玩具に囲まれた快適な生活を提供する予定だ。
オレも大概猫が好きというだけだが、うんうんと一人頷いてハンスを見つめる。
ハンスにもお礼をしなければと顔を向けると、いつもとは違う部分に目がいった。
「ナサニエルのシャツ?」
「……よく分かったな」
ハンスが不機嫌に答える。
ナサニエルはハンスに比べると細身だが、来ているシャツはいつもワンサイズ大きめだ。
黒いシャツを着るのはナサニエルくらいしかいないというだけだが、背格好からいっても、彼の服を借りるのが一番無難だったのだろう。
〝えぇー、何で俺が貸さないといけないんですかぁ〟と口を尖らせるナサニエルが容易に想像できるが、黒いシャツのハンスも悪くない。
色が違うだけなのにずっと大人っぽく見えた。
実直でありながら涼しげな目元も、凛々しい眉毛も、真っ直ぐに通った鼻も、こうして見ると映画俳優のようだ。
作中の表記からいっても絶世の美男子というわけではないようだが、オレから見ると流石は主人公らしいイケメンぶりである。
前世で流行っていたのはエルデルバルトやナサニエルのような優男だが、オレは断然ハンスのように男らしい方がかっこよくて好きだった。
脳内に〝ハンスはゴリラ一歩手前でしょ〟と囁く妹の声がこだまするが気のせいに違いない。
(数歩いってもゴリラじゃねーし)
ゴリラを馬鹿にするわけではないが、ハンス程度でゴリラ認定されては困る。
将来的にはカイトの方がゴリラになりそうな予感もして、オレは脳内から煩く喋る妹を追い出した。
脱線する思考を戻し、風で膨らむ黒い裾を掴まえる。
「ありがとな、ハンス」
その裾を掴まえて呟く。
「その…ちょっと怖かったけど、ハンスが来てくれて嬉しかった」
「お礼を言われるような事はしていない」
「何言ってんだよ!勢いあまってオレまで殴るんじゃないかなーって思ったりもしたけ……や、ごめん!んなわけないのにさ!」
ハンスが息を詰まらせたのが分かった。
冗談だとうそぶいて笑い飛ばすが、ハンスにとって触れられたくない事だったのかもしれない。
再三傷つけないと言われているのに蒸し返すオレもオレだ。
「ハンスが来なかったらオレもスミレもやばかったし、ほんとに感謝してんだって!バロッドも懲りただろうし、丸く収まって良かったよな!うん!」
ハンスに殴られる云々を気にしているのはオレの都合でしかない。
ただ純粋にオレと仲良くなろうとして、オレを守ろうとしてくれるハンスに悪い事をしてしまったと、慌てて軌道修正をする。
その言葉を遮るように、ハンスが姿勢を直し、オレの前に膝をついた。
「ずっと口約束だった俺も悪い。今ここで誓わせてくれ」
「え?あの、ハンス?」
やってしまったと狼狽えるオレはさらに困惑を深める。
オレの手をとる姿は絵に描いた騎士のようだった。
「――俺はもっと強くなる。シャルルが傷つかずに済むように、悲しまなくて済むように必ず。絶対にお前を殴りもしないし、お前が望む限り人の命を奪う事だってしないと誓う。だから…一人で無茶をしないでくれ。俺を……少しで良い。俺を信じて欲しい」
氷のように澄んだ青がオレを射抜く。
それは聞き覚えのある言葉だった。
(このセリフって……)
深く考えずとも、それが『ラブデス』の中でアイリスに向けて誓った言葉である事は分かった。
(たしか――)
事の発端は、旅歩く二人がある街に立ち寄った事だ。
加護を扱える人間を売り払う極悪商人に目を付けられた少女を庇い、アイリスが代わりに連れて行かれてしまうのである。
渦中の少女に頼まれ、ハンスがアイリスを助けに行く王道とも言えるシーンだった。
人のためとはいえ身勝手なアイリスに怒るハンスが、例の如く極悪商人たちを壊滅させるわけだが、この時に人としての危うさをアイリスに諭されるのだ。
サマルへの仕打ちを見ても分かるように、ハンスは悪とみなしたものに容赦がない。
心優しいアイリスにはそれが恐ろしく思え、必要以上に力を振るうハンスを嗜めたのだった。
最初こそ腑に落ちないハンスだったが、アイリスとの旅を続ける中でその心境に変化を兆していく。
そして自分を犠牲にしてでも人を助けようとするアイリスに今の言葉を伝えるのだ。
(……何でそのセリフがここで出てくるんだ?)
神妙な面持ちのハンスには申し訳ないが、オレの頭には〝?〟がひしめき合っている。
タイミングも合わなければ相手も見当違いではなかろうか。
(考えろオレ…!アイリスは何て答えた…!?)
必至に頭を回転させ、小説の内容を思い出す。
たしかアイリスは――
『ならハンスさんも私を信じてください。無茶をする時は二人一緒にですよ』
そう言って無邪気に笑ったはずだ。
ただ信じるのではなく、一緒だと言ってくれたアイリスにハンスは心を開いていくのだ。
抑圧される事はあっても、導かれる事も心配される事もなかったハンスは、こうして正しい力の使い方を覚えていくのである。
(んー…?だから何でここで…?)
オレが介入した事でハンスは捻くれてもないし落ちぶれてもいない。
怖かったというのはオレの主観なだけで、サマルを殴りこそすれど理性を失っていたわけでもない。
ついでに言えばその事でオレが諭したような覚えもない。
(駄目だ、さっぱり意味が分からん)
イベントを前倒しするにしたって時期尚早なのではないだろうか。
何よりオレはアイリスの立場になりたいわけでも、ハンスの恋路を邪魔したいわけでもない。
オレの返事を待つ相手を見つめ、気の利いた言葉一つかけられないオレはハンスの胸を小突いた。
「これ以上強くなってどうすんだよ」
ヨナがどれくらい強いかなんて知らないが、ハンスは今だって十二分に強いはずだ。
頭だって悪くないのだし、加護の扱いは言わずもがな。
アイリスのように寄り添うのが無理というのもあるが、すでにオレの何歩も先を一人で行っているじゃないかと眉を下げる。
「そういう誓いとかいらないし、あんまり人のこと置いてくなよ?」
「…………ああ、気を付ける」
ふっと微笑むオレにハンスはこくんと頷いた。
何に対しても真面目すぎる姿が少し滑稽で、思わず吹き出してしまう。
「ぷっ、はは!考えすぎなんだって!もうちょっと気楽に考えろよな?」
「む…、何も笑わなくても………」
腹を抱えて笑うオレにハンスは頬を赤らめる。
ハンスにとっては真剣な誓いだったのかもしれないが、正直オレには荷が重い。
それにオレだってハンスの負担になりたいわけじゃない。
(……これで良いんだよな?)
ハンスの覚悟を無下にしてしまったせいか、胸がチリチリと痛む。
その痛みを誤魔化すようにオレはスミレたちの元へと駆け出した。
「ほら!ハンスも来いよ!」
ハンスが立ち上がってこちらへ走ってくる。
その姿にスミレがスタートダッシュを切り、子猫たちもバッと散っていく。
つられるようにオレも走り、合図もなしに追いかけっこが始まった。
追いかけっこをして、お菓子を食べて――あんなにも凄惨な事件があったのが嘘のように長閑な時間が過ぎていった。
「ほんとにありがとな。気つけて帰れよ」
「俺の方こそ感謝している。シャルルこそ無理をしないようにな」
送っていくという申し出をいつも通り断って、ハンスは馬に跨った。
楽しい時間はあっという間で、無断外泊を続けるわけにもいかないとハンスは帰る事になったのだ。
見慣れない相手に乗られて戸惑っているのか、貸し出した馬は居心地が悪そうである。
その馬を抑え込み、ハンスは颯爽と駆け出して行った。
「また学院でな~!」
瞬く間に遠くなるハンスの背中に声を張り上げる。
しかし乗馬まで習得しているとは驚きだ。
ハンスに出来ない事はないのではないかと主人公の底力に驚かされるばかりだった。
「さあ、シャル。今日はもう休もう」
「ん、分かってるよ」
父に手を引かれ屋敷へと戻る。
(――バロッドの奴、何もしてこなきゃ良いけどな)
オレもハンスもスミレたちも全員が無事にこの事件を乗り越える事が出来た。
これで原作の内容を変えられたといっても過言ではないだろう。
山場を一つ越えたオレは顔を綻ばせ、いつも以上に寛大な気持ちで父たちにこねくり回されたのだった。




