▽.誰でもない獣
俺の名はその時々による。
ミオン伯爵家に仕える使用人で、誰かの恋人で、誰かの友人で、誰にとっても赤の他人だ。
正直言ってシャルル様の事は常識知らずのクソガキだと思っていた。
割の良い仕事だから仕えているだけの話だ。
何より人生にこにこと適当に相槌を打っておけば簡単である。
相手の望む言葉をそれとなくかけ、無害そうな顔を装っておけば何一つ困る事はありはしない。
「やあ、今日も綺麗だね」
「君ほど頼れる人はいないって彼女が褒めていたよ」
「邪魔なら私が処理しましょうか?」
「少し困った事になってさ。君の力を貸してくれないかな」
「僕に出来ることなら任せてくれ」
どれもこれもありきたりな言葉だ。
だがこの言葉だけで人の心は呆気なく操れてしまうものである。
加護も何も関係なく、ただ少し相手の心に踏み入るだけで後はもう楽な仕事だ。
シャルル様も非常に単純な子供だった。
些細な事でも褒めておけば、すぐに気を良くして俺の事を気に入ってくれた。
気に入らない奴がいれば、それとなく誘導すればあっさりと処理する口実を作ってくれた。
クソジジイもシャルル様を盾にすれば強くは出られない。
俺にとってこの上なく都合の良い操り人形だった。
そう思っていた――――のも、もう2年も前の事だ。
いつもの自業自得で頭をぶつけたシャルル様は生死の淵を彷徨った。
それで死んだならやはり自業自得でしかないだろう。
便利な盾がいなくなるのは困るようで困らないし、俺はシャルル様が死のうがどうでも良かった。
身の回りの世話をするという気楽な仕事をこなしながら、目を覚まさないシャルル様の顔を覗き見る。
長い睫毛が彩る横顔は何とまあ綺麗なものだ。
線の細い眉も、小高い鼻も、柔らかそうな唇も、観賞用としては悪くない。
口を開けばただの畜生だが――ああ、それも俺のせいだろうか。
俺が丸め込まなければ純粋なシャルル様は捻くれる事などなかったのかもしれない。
「うん?違うな?」
捻くれたのではなく、シャルル様は純然たる無垢で相手を傷つけるようになっただけだ。
純粋なまでの悪意とは恐ろしいものである。
そんな事はさておき、数日寝込んでシャルル様は遂に目を覚ました。
俺としては何て事のない話だったが、旦那様たちはまるで女神が降臨したかのように喜んでいた。
その中には呆れる事にクソジジイとクソオヤジも混ざっていた。
すっかり絆されてしまった二人は、世界で一番愛おしい子供にするようにシャルル様を抱きしめる。
生まれつき愛嬌の一片もなかった俺だ。
そうじゃなくても、全身ほくろばかりで目も当てられない、気味の悪かった赤ん坊だ。
二人の気持ちも分からないでもないが、人の子にあれだけ尽くすとは傑作である。
変わった事があるとすれば一つ。
ただ変わる事のなかった仕事をこなすだけの俺とは違い、シャルル様は変わられた。
瞳に宿る光は聡明さを帯び、子供特有というには度が過ぎる愚かさを捨て去ったようだった。
なるほど、死とは人を変えるものである。
だからといってシャルル様に忠誠を誓う気など欠片もないし、俺はのんびりと自分のペースでシャルル様の世話をし続けた。
「ナサニエルは疲れないの?」
ふとシャルル様が俺に尋ねてきた。
仕事だからと答えるも、納得できなかったらしい。
どうにもシャルル様には俺のおべっかが効かなくなってしまったようで残念だ。
「そうじゃなくてさ。オレ、ナサニエルが笑ってるの見た事ないんだけど」
「えー?いつも笑ってると思うんですけどぉ?」
「……本気で言ってる?」
そんなあからさまに怪訝な顔をしなくても――しかしシャルル様にはおべっかが効かないどころか、オレの心音を見破られてしまっていたらしい。
精々あのクソジジイにしかバレてないと思ったが意外や意外。
だからといってシャルル様と俺の間にあるものは変わらない。
変わらないはずだった。
「馬鹿なんですか?」
床に突っ伏した俺は心臓がバクバクと跳ね上がるのを感じていた。
こんなにも驚いたのはこれが初めてだ。
「だって、ナサニエルが死んじゃうと、思って…!」
「死ぬって大袈裟な……」
自分よりもずっと小さいシャルル様を胸の上に乗せたまま天井を仰ぎ見る。
俺は自分でも分かるクソ野郎だが仕事だけはキッチリこなす男だ。
その俺が何故、守るべき相手であるこんな小さなクソガキに守られているのだろうか。
ほとほと理解が出来なくて、俺は優しい声でシャルル様に語り掛けた。
「あのねシャルル様。ちょっと物が落ちてきたくらいで俺は死にませんよ」
「けど、けどぉ…!」
普通ならこれで終わるはずだったのに、シャルル様はぼろぼろと大粒の涙を溢して泣きじゃくった。
床に寝ころぶ俺の周りには砕け散った花瓶の破片。
たしかにこれが頭に直撃していたら、流石の俺も全治1週間くらいにはなっていたかもしれない。
(まあ、シャルル様が突っ込んでこなきゃキャッチできたんですけどね)
シャルル様には言わないが、これは嘘じゃない。
生まれつき才能に恵まれた俺にとって、落ちてくる花瓶を避ける事も、キャッチする事も朝飯前の初歩的な任務だ。
今回はシャルル様を優先したせいで落としてしまったが、そもそも花瓶に頭をぶつけて死ぬなんてアホは絶対にしでかさない。
けれど、まるで自分が頭をぶつけたように泣きじゃくるクソガキを見ていると、絶対なんてないのかもしれないと思えてくる。
(俺なんかのために、何でこんなに泣くかなぁ)
思えばこんな風に守られるのは初めてだった。
浅く広く上辺だけの関係しか築かない俺を、本気で心配してくれる人なんて果たしているだろうか。
(……もっと酷いか)
俺はその時その場で都合の良い誰かでしかない。
誰にとっても便利で、すぐに忘れ去る事が出来る、その場きりの顔のない男。
あと腐れもなければ面倒にも程遠い楽な人生。
ずっとそういう風に生きてきた。
ナニサエル・エインワーズを正しく認識し、心配してくれる人はきっとどこにもいないだろう。
クソジジイでさえ自業自得と言うに決まっている。
あるいはクソジジイでさえ俺の顔をハッキリと覚えていないかもしれない。
だとすればこれは何だ。
有象無象のつもりが、シャルル様にとって俺はずっとナサニエルだったという事か。
『お前はもっと人の心を知れ』
クソジジイもいつもそう言っていた。
才能に溢れた俺はどうにも心というものが欠如しているらしい。
だからと言って今まで困った事はなかったが、たしかに今どうすれば良いのか分からずにいる。
そういえば何故こんなにも心臓が早いのか。
驚いただけでここまで早鐘を打つものか。
わけが分からなくて、えぐえぐと大粒の涙を溢す元凶を抱きしめる。
小さくて、柔らかくて、甘い匂いがして――――美味しそうだった。
(おっとぉ…?)
これはまずいなと思うが、一度気づいてしまえば気づく前には戻れない。
どうやら俺もとっくにシャルル様に絆されてしまっていたようだ。
世界で一番愛されるこの子猫に与えられる愛情が、空っぽの心を雁字搦めにして離そうとしない。
狭い狭い檻の中で、俺もまたシャルル様のために生きたいと思ってしまった。
「大丈夫ですよシャルル様。俺はずっとあなたの傍にいます」
「ほんと…?置いてかない…?」
「ええ、約束します。シャルル様こそ勝手に居なくなったりしたら承知しませんからね」
俺の内側に踏み込んできた子猫の頭を撫でる。
誰でもない俺に役目をくれるなら。
誰でもない俺に顔をくれるなら。
誰でもない俺に意味をくれるなら。
誰でもない俺に心をくれるなら。
誰にでもなれる俺はあなたのための従者になりましょう。




