44.子猫伯爵と氷の鉄槌
「は、はは!はははは!待っていたぞ、ウィルフレッド…!!」
纏わりつく氷を振り払い、サマルは狂喜する。
怒りで周りが見えないのか、ハンスは真正面からサマルへと突き進んで行った。
「ク!ハハ!やってみろウィルフレッド!今の私に敵など――いぐぁ!!??」
サマルの顔が一層醜悪に歪む。
話し終えるより先に、突き出されたハンスの拳がサマルの顔面を叩きつけた。
ゴキンと骨が折れる音が響き、数秒の間をおいてサマルの巨体が横向きに倒れ伏す。
地響きが上がり、土埃がハンスの足元を燻ぶった。
「……相変わらず醜い姿だ」
「ぐっ…ううっ!!私が醜いだと…!?貴様まで私を愚弄する気か…!!」
凍てつく瞳が泥にまみれたサマルを見下ろした。
サマルはへこんだ鼻穴から飛び出る血を拭いもせず、立ち上がってハンスを睨む。
はち切れそうなくらい太くなった血管を全身に浮かべ、その両腕を振り回した。
長く大きな腕は空気抵抗も何のその、目にも留まらぬ速さでハンスの首に振り下ろされる。
「ハンス!!!!」
「……失せろ」
その腕より僅かに早くハンスの拳がサマルの胸を抉る。
喧嘩に縁のないオレにも肋骨が数本いったのが分かる耳障りな音が響き渡った。
そのバキボキと固いものがひしゃげ曲がる音が聞こえたと思えば、ただならぬこの場に不釣り合いな、空気の抜ける間の抜けた音がサマルの口からこぼれ出る。
「ごぷっ…あ、何故………」
折れ曲がった嘴から泡立った血反吐が流れていく。
胸部に深くまでめり込んだ拳が離れると、サマルは再び地面へとその巨体を打ち付けた。
尻から地面にくず折れ、ひゅーひゅーとか細い息を漏らす。
あまりに圧倒的な力差に、サマルは目を点にして〝ありえない〟と繰り返すばかりだ。
二人の戦い――否、一方的な試合を見ているオレも同じく愕然とその様子を眺めていた。
「ま、まぐれだ…!!そうだ、まぐれ以外にあるわけがない!!この程度で良い気になるなよ…!!」
「お前はもう喋らない方が良い」
「黙れ!!!!平民如きが私に指図するなぁ!!!!」
ゆらりと立ち上がり、サマルが言葉通りに飛び掛かる。
ハンスはそれを避ける事もせず、ただ真正面から迎え撃った。
見開かれた氷の瞳がサマルを捉え――
「があっ!!??」
しゃがれた声をあげてサマルが態勢を崩す。
「フンッ!!!!」
「うが!!がっ!!何故!!?何故、だ!!?」
ぐらつくサマルの顔に、腹に、腕にハンスの拳が容赦なく叩き込まれていく。
骨が折れようと、肉が潰れようと、ハンスはその手を緩める事はなかった。
突き出した拳は真っ赤に染まり、その体にもべったりと返り血が滴っている。
赤色に染まった顔の中で煌々と光るのは氷を宿した青色だ。
サマル以上の怒りと憎しみに満ちた青が、無慈悲にサマルを見下ろしていた。
「あ……う………」
鬼気迫る光景にオレは足が竦んで動けなかった。
いかに最低なバカ野郎で悍ましい姿をしていようと相手はサマルだ。
けして本物の化物などではない。
人一人を何の容赦もなく殺してしまいそうなハンスが恐ろしくて、全身が震えあがった。
息が白くなる程の冷気だけのせいならどれほど良かった事か。
ハンスに殴られる事がいかに恐ろしく辛い事かを目の当たりにし、オレはまた動けなくなってしまった。
「まだだ、まだ私は……っ!!」
オレが居た事など忘れたように、サマルがふらふらと立ち上がる。
加護で変異した肉体のせいか、あれだけの拳を食らってもなおハンスへと猛然と立ち向かおうとする。
「ハンス・ウィルフレッドぉ!!!!貴様だけは!!!!」
「何度やろうと結果は同じだ」
しかし、サマルの力がハンスに届く事はなかった。
折れ曲がった腕は明後日を向き、潰れた目では正確に距離を掴む事も出来はしない。
ただ暴れ回るだけの巨体にハンスの拳がめり込んだ。
「んぶあぁっ!!??」
「フン!!」
「ぐっ、うああぁぁ!!!!貴様なんぞに、やられてたまるかああぁぁ!!!!」
その拳にひるまず、サマルが腕を振り下ろす。
執念だけで放たれた一撃がハンスに迫り、オレは気付けば叫んでいた。
「ハンスっ!!危ないっ!!」
「チッ」
ハンスを中心に空気がさらに冷え込んでいく。
オレの足元まで霜が広がり、透き通った塊がハンスの腕に纏わりついた。
「死ねぇ!!!!ウィルフレッドぉ!!!!」
勝機を感じたのかサマルが狂い笑う。
その眼前に氷の盾が形成され、サマルの腕が分厚い氷へと叩きつけられた。
メキメキと氷を砕きながら、決死の攻撃がハンスを目指す。
「ハン、ス……」
茫然と見つめるオレの前で、ついにサマルの腕は動きを止めた。
砕け散った氷が邪魔をしハンスの様子は分からない。
「そんな、はず――」
白い息を吐き、サマルが目を瞬かせる。
真っ黒な瞳には困惑が宿り、サマルはぺたぺたと傷だらけの顔に手を宛てがった。
「そんなわけ、そんなわけが、ない」
サマルの目はハンスではなく氷の塊へと注がれていた。
そこに映っているのは醜い化物と成り果てたサマルの姿だ。
「馬鹿な……!これが私だと……?」
血に塗れた異形の怪物にサマルは狼狽し叫び声を上げた。
サマルもようやく気が付いたようだ。
自分がいかに悍ましく歪な怪物となってしまったかに。
「そんな、そんなはずはない!!私は…!私がこんな醜い姿のわけ…!!ハンス・ウィルフレッド!!貴様だな!!?」
ドスドスと砂埃をまき散らし、サマルは絶叫する。
「貴様がやったんだろう!!?私に何をした…!!?なんだこれは…っ、幻でも見せたのか!!??」
「それがお前の本性というだけだ――!!」
身を低くしたハンスの拳がサマルの顔面に叩き込まれる。
作り出された氷ごと全てを砕き、サマルは叫ぶ事もなくその巨体を地面に打ち付けた。
ドズンと一度だけ地面が揺れ、その後に静寂が訪れる。
「……」
立ち上がる事も喚き散らす事もなくなったサマルを一瞥し、ハンスは血に濡れた拳を拭う。
ついぞサマルの腕が届く事はなく、ハンスは無傷のままだった。
「――シャルル!!」
ピクピクと体を痙攣させるサマルを目視し、ハンスがこちらへと顔を向けた。
赤く染まった顔も、血を吸い込んだシャツも、何もかもが恐ろしくて思わず身構えてしまう。
「あ……ハン、ス」
「………っ…」
ずり…と半歩後ずさるオレに、ハンスは足を止める。
返り血に濡れた自らの体を見下ろすと、その場に膝をついた。
「シャルル、もう大丈夫だ」
憎悪の消えさった目がオレを見つめていた。
「遅くなってすまなかった」
「あ、ハンス…オレ、オレ………!!」
怖かった。
こんな時にまでハンスに殴られるのではないかと怯える自分がいた。
小説の展開を何一つ変えられないのではないかと不安でしかたがなかった。
恐怖も情けなさも安堵も全部がない混ぜになって、またボロボロと涙が溢れてくる。
「シャルル、よく頑張ったな」
「うぅ…ハンスぅ……」
ハンスは血に染まったシャツを脱ぎ、そのシャツで雑に顔を拭う。
そうして多少の身なりを整えてから、オレの傍へと歩み寄った。
シャツの下から現れた、体にフィットした黒いインナーは『ラブデス』本編のハンスを彷彿とさせる。
「そ、だ…!!スミレ、スミレが…!!」
縋るようにハンスにしがみつく。
オレの言葉にハンスは忙しなく目を動かし、すぐにスミレを見つけたようだった。
ふらつくオレを抱き上げ、そこまで連れて行ってくれた。
「スミレ……!スミレ……!」
「……っ…シャルル」
力なく横たわるスミレの体を抱きしめる。
ハンスはその姿を苦しげに見つめ、静かに首を振った。
「シャルル、もうスミレは……」
「まだ…!まだ温かいんだ!オレは…オレは、まだ!」
ハンスの手を振り払って、スミレへと神力を注ぐ。
オレの加護は取り込んだ神力を相手に譲渡する事で癒しの効果が発生するらしい。
ぎゅっと抱きしめた小さな体にオレの神力を分け与えていく。
「オレはまだ…スミレに謝れてない。スミレにお礼を言えてない…!」
微かに温もりが残るスミレの周りに光の球が零れ出る。
しかしその光は往く宛てもなく消えていった。
「死ぬな、死ぬなよぉ………」
本当は自分でも分かっている。
こんな事をしても意味がないだろう事は。
それでも諦めきれなくて、オレはスミレにありったけの力を注ぎ続けた。
ハンスは何も言わずにその様子を見守ってくれる。
その時、ごっそりと力が抜け落ちる感覚に襲われた。
魂を抜かれたような、そんな感覚だ。
一瞬意識がなくなったらしい。
ハンスに支えられている事に気が付き、オレは目をパチクリとさせる。
不安に揺れるハンスの顔を仰ぎ見て、オレは目を疑った。
「あ、スミレ」
光がオレとスミレを包み込み、オレから伸びた光の筋がスミレの中へと消えていく。
抱きしめたスミレの体は熱を増したのか、先程よりもずっと温かかった。
そして――
「にゅあん!!」
ビクリと体が震えたかと思うと、スミレがその場で飛び上がった。
「にゃ……ふしゃあっ!!!!」
垂直に飛び上がって、ハンスを見つけるや否や、その顔に爪をお見舞いする。
バリバリっと軽快な音をたて、ハンスの顔には赤いバッテンが出来上がった。
「スミレ…!!!!」
「んにゃあ~ご」
オレの膝の上に降り立ったスミレは、すりすりとオレに頭をすりつけた。
その紫色の体を抱きしめ、ポロポロと涙を溢す。
涙が溢れて止まらなかった。
「スミレ!スミレぇ…!!良かった、スミレ……!!」
「信じられない……」
赤いバッテンをつけたままハンスは驚愕する。
それも束の間、泣きそうな顔で微笑んだ。
「シャルル…!ありがとうシャルル…!」
オレを抱きしめ、ハンスは感極まった声でそう言った。
その膝にスミレがぽんと前足を置く。
目を丸くするハンスにフンと鼻を鳴らし、スミレはすぐにオレの足元へと身を翻した。
どうやら少しはハンスを認める気になったようだ。
(死にかけてたくせに)
いつもと変わらないスミレにふっと笑みを漏らし、ハンスの肩を叩く。
「一つ頼んでも良い?」
「ああ。任せてくれ」
「クロたちを連れてきて。スミレと一緒なら大丈夫だろ」
「だが……」
ハンスがボロボロのオレの体を見つめ、その後にチラリとサマルに目を向けた。
「大丈夫だから頼む。スミレもお願いな」
オレがお願いするとスミレは渋々といった様子で走っていった。
ハンスもその背中を追って庭園の奥へと入って行く。
「…………よし、やるか」
気を抜いたら倒れてしまいそうだが、まだ倒れるわけにはいかない。
オレは地面に五体を投げ打つサマルへと近づいた。
力尽きたようで、その姿は見知ったサマルのものへと戻っている。
人体に影響するのが地の加護ではあるが、ああして変身する事が出来るとまでは思わなかった。
悍ましい姿を思い出し足が震えそうになるが、それを堪えサマルに手をかざす。
「………バロッド」
「ミ、オン……」
まだ意識があるらしい。
しぶとい奴とも思うし、つくづくムカつく奴とも思うが、命を取るつもりはない。
弱々しい光が舞い落ちると、サマルの傷が引いていった。
「何故……」
「お前らと同じになりたくないからだよ。これに懲りたら二度とこんな馬鹿げた真似すんな」
「く、はは…間抜けな奴だ………」
かろうじて意識を保っていたのだろう。
傷が治った事にほっしたのか、口元に笑みを浮かべ、そのまま白目を剥いて倒れ伏した。
「シャルル!!」
「んにゃー!!」
そこに子猫を抱えたハンスが戻ってくる。
ハンスがクロとサビをそれぞれの手に持ち、スミレがモモを銜える形で収まったらしい。
珍しく大人しいモモだったが、大きくなったその尻は地面に引きずられ茶色く染まっている。
「あんがと、ハンス」
「………バロッドの傷を治してやったのか」
「ま、それくらいはな。証拠隠滅ってやつだよ」
へへっとあくどい顔で笑ってみる。
これでサマルが何と言おうとハンスに殴られた跡はない。
性格の悪いサマルなら証拠の一つや二つでっち上げるだろうが、今はこれで良い。
一番の目的はサマルに恩を売る事だ。
これで少しは大人しくなってくれれば御の字である。
ハンスも納得してくれたのか、それ以上の事は言わなかった。
「バロッドはともかく、スミレたちをどうするんだ」
「ん。うちに連れてこうと思って。ここも安全とは言えなくなっちまったし……」
「……そう、だな。その方が良い」
スミレはオレの家に連れていくつもりだ。
本当なら最初からそうすべきだったのだろうが、スミレたちに負担をかけないように、そしてハンスが会いやすいようにと思ってそのままにしていたのだ。
今回それが祟ってしまったので、今更ではあるがオレの家に引っ越してもらう事にする。
「スミレたちも良いか?」
一応と思って確認するとスミレは意気揚々とオレにくっついて来た。
子猫たちは何が何だか分かってない様子だが、母親に逆らう気はないのだろう。
大人しく引っ張り回されている。
「――ちょっと止まって」
そうだと思ってハンスの頬に触れる。
いくつかの光が舞うと、顔の中心に出来たバッテン印が跡形もなく消え去った。
サマル相手には無傷なくせに、スミレには好き放題させるハンスが可笑しくて思わず笑ってしまう。
ついでに自分の傷も治し、オレたちはサマルを無視して馬車置き場へと足を向けた。
その最中、視界がぐるりと反転する。
「あ、れ――」
気が緩んだのか、はたまた疲労のせいか、ガクリと足から崩れ落ちた。
ふらりと体が揺らめき、オレはハンスの腕の中へと倒れ込む。
「シャルル!!?」
「ミャー!!」
スミレたちがニャーニャーと騒ぎ出すが、その声も次第に遠ざかっていく。
最後に見えたのは血相を変えたハンスの顔で、オレはそのまま意識を失った。




