43.子猫伯爵と運命
サマルの蹴りが直撃する瞬間、小さな影がサマルへと飛び掛かった。
「ん゛み゛ゃああああ!!!!」
「ぐっ…!!?何だ!!?」
「みゃあああうう!!んぎゅああああ!!」
サマルの顔を引っ掻き、その影はしゅたんと地面に着地する。
全身の毛をこれでもかというくらい逆立て、喉の奥から唸り声を上げて威嚇した。
「スミ…レ……」
フーッフーッと鼻を鳴らし、スミレがオレの前に立つ。
オレを守ろうと駆けつけてくれたスミレの後ろ姿に、オレはとうとう涙を溢れさせた。
「来ちゃ駄目だ……!スミレ……!」
決死の思いでスミレに語り掛ける。
スミレには悪いが、ただの猫が加護を持った人間に適うとは思えない。
まして『ラブデス』の中で殺されたのが本当にスミレなのだとすれば、サマルに勝機なんてないという事だ。
声を振り絞って叫ぶが、スミレは四本の脚を大きく開き、サマルを迎え撃とうとする。
「スミレ…!オレの事は良いから…!お前は行くんだ……っ!!」
四つん這いになってスミレへと手を伸ばす。
勝つ事は無理でも、スミレ一人なら逃げられるはずだ。
入り組んだ庭園はスミレの領分なのだし、サマルにだって追いつけるはずがない。
けれどスミレは引かなかった。
歎願するように叫んでも、精一杯腕を伸ばしても、スミレはその場を動かない。
「駄目なんだって……!お前がここにいちゃ駄目なんだよ……!」
涙で滲む視界の中でサマルが動き出す。
顔を押さえていた手を離し、わなわなと体を震わせた。
「ああぁ…!!汚らわしい……!!」
吐き捨ててサマルがスミレを睨む。
顔には長い線が引かれ、赤い液体が頬を伝っていた。
手に触れた赤を凝視したサマルはブルブルと肩を震わせ、かつてなく低い声で唸り声を上げる。
「あの平民の前で握り潰そうと思ったがやめだ…!!今ここで殺してやる…!!」
それはサマルの逆鱗だった。
ひゅ…と息を呑む間もなく、風が走り抜ける。
「み゛ゃっ!!?」
そう思った時には、目の前をスミレが飛んでいった。
鈍い音と共に地面にぶつかり、何度も跳ねて遠くへと転がっていく。
「スミ――」
名前を呼びたいのに声が出ない。
空気を震わせる低い唸りに押し潰され、体が動かなかった。
「は、あ………」
歯だけはガチガチと鳴るのに一歩として前に踏み出せない。
地面にへたり込むオレに暗い影が差し込み、影の発生源の男は舌なめずりをしたようだった。
「これが私の加護だ。凄いものだろう?」
長く伸びた手がオレの頭を掴む。
オレの頭よりも大きな手に鷲掴みにされ、オレは足をバタつかせた。
宙に浮いた足は虚空を蹴り、目の前のそれがいかに巨大かをオレの脳裏に叩きつけた。
「そん、な…バロッド、なのか……?」
「相変わらず頭の出来が悪い奴だね。私以外に誰がいると言うんだ?ん?言ってみろ?」
「あ、ぐ…うぅ……」
深淵にも似た黒い瞳がギョロリとオレの顔を覗く。
瞳から眼球まで全部が真っ黒の目だった。
「恐ろしすぎて言葉も出ないか。だがそれもしかたがないだろう」
言葉を失ったオレに、サマルだったものが長い舌を出してにたりと笑う。
「あ、ばけ、もの」
肥大化した事でむき出しになった頭皮。
長く伸びた腕には、蝙蝠にも似た羽根のような器官が形成されていた。
その手はオレの頭より遥かに大きく、見れば固い鱗のようなものに覆われている。
足もまた鱗を思わせる皮膚に覆われ、柔らかな地面へとその爪を食い込ませた。
これが加護の力だと言うのか。
ヨナよりも先にこんな化物に遭遇するなんて思いもしなかった。
「この力の前ではカイトだって赤子同然だ!ウィルフレッドも!他の奴らも皆同じだ!」
酔いしれるようにサマルが笑う。
揚々と高笑いするばかりで、自分が今どんな姿をしているのか気が付いていないのだろう。
鳥のごとき怪物が、歪に伸びた嘴をかち鳴らしオレを嘲笑っていた。
「……あ゛、がっ…あああっ!!」
サマルの腕がオレの顔を押さえつける。
ギリギリときつく頭を絞められ、オレは喉の奥から声を呻かせた。
音にならないその叫びをサマルはうっとりとした面持ちで聞いている。
「おっと、少し力を入れ過ぎてしまったか。この姿だと力加減が難しくてね、間違って縊り殺してしまったら謝るよ」
「ぐ、うぅ…クソが………」
怒りと恐怖と悔しさがぐちゃぐちゃに混ざり合って、何が本当の感情か分からなくなる。
叫びたいのか、それとも泣いてしまいたいのか、自分でも理解が追い付かなくて心がバラバラになってしまいそうだった。
ぶつけるべき言葉も選べぬまま、オレは虚空を蹴り続ける。
(ハンスは…こんな化物に一人で立ち向かったのかよ)
だんだん息が苦しくなり、唯一動かせる足も次第にその動きを緩めていった。
(……オレ、死ぬのかな)
だらりと手足が下がった頃には死が頭を過った。
すぐ目の前に黒い影が迫る終の情景が、オレの頭を支配する。
真っ暗闇に包まれると、あとはもう何も見えなかった。
「ん゛み゛ゃ!!み゛ゃあ゛ああっ!!!!」
その暗闇を切り裂いて、飛んでいったはずのスミレが猛スピードで地面を駆ける。
バッと大地から跳躍するとサマルの頭へと嚙みついた。
「っ…スミレ!!?」
「こいつ…!!何度私に歯向かえば気が済むんだ…!!」
サマルが暴れようとスミレは離れない。
両手両足の爪を立て、肌がむき出しになったサマルの頭にしがみ付く。
ピンク色の肌に鋭く尖った爪が食い込むと、サマルはスミレを引きはがそうと腕を振り回した。
放り出されたオレは痛みに呻く。
けれど地団太を踏むサマルには近づく事が出来なかった。
「スミレ!!やめろ!!やめてくれ!!」
殴られ、無理やり掴まれようとスミレは諦めない。
怪物と化したサマルに、小さな体で果敢に立ち向かっていく。
恐怖と傷みで動けない自分が情けなくてボロボロと涙が溢れ出した。
「お願いだから…、やめてくれ………」
それはスミレへの切望か、あるいはサマルへの懇願か。
ただ地面に額をこすり付け、やめてくれと請い続ける事しかオレには残されていなかった。
しかし無情にもオレの前にスミレが叩きつけられる。
「あ……」
スミレはビクンビクンと体を激しく跳ね――動かなくなった。
「スミ、レ」
名前を呼んでも返事はない。
ぐったりと地面の上に横たわるだけで、髭の一本すら揺れはしなかった。
「スミレ」
その体を抱き寄せる。
大きくて逞しいと思っていたスミレの体はずっとずっと小さくて、温かかった。
とめどなく涙が溢れてきて視界が霞む。
「私に楯突いたその猫が悪い。もっとも躾一つ出来ないお前の責任だがなぁ?」
大粒の涙を溢し続けるオレにサマルがゆっくりと近づいてくる。
サマルの原型を留めない不格好な怪物がドスン、ドスンと鈍い足音を響かせた。
「……怪物」
血走った眼でオレを見下ろすサマルに呟く。
「クク、怪物とは……そんなに私が恐ろしいか?」
その言葉にサマルは見当違いに笑った。
怪物と恐れられるほど自らの力が強いと自惚れているようだ。
だがこれは怪物みたいなんて可愛い言葉で済ませられるようなものではない。
目の前に立つそれは姿も中身も悍ましいただの化物だった。
「お前は正真正銘、醜い化物だ」
スミレを抱きしめ言ってやる。
「私が醜いだと?」
「鏡を見てみろよ、この化物」
「貴様言わせておけば…!!まだ私を見くびるつもりか!!」
青筋を浮かべたサマルがオレを殴り飛ばす。
いとも容易くオレは吹き飛び、オレの手を抜け落ちたスミレが転がっていった。
「スミ…レ……」
ズリズリと体を引きずってスミレに手を伸ばす。
「そ、だ…オレが治して……」
何のための海の加護だ。
今スミレを助けないでどうするんだ。
オレは震えて思うように動かない腕を懸命に伸ばした。
「何を勝手に小細工をしようとしてるんだ?」
「ち、が――うぐっ!!?」
あと少しでスミレに届くというところでサマルがオレの腹を蹴り上げる。
何度も蹴られた腹はじくじくと痛み、血反吐を吐いていないのが不思議なくらいだった。
こういう時、漫画やゲームなら内臓がやられたなんて言ったりするものだが、自分の体の事なのにオレにはちっとも状態が分からない。
ただ這ってでも動けているあたり、まだ大丈夫なのだろう。
それに――オレはもっと痛くて悲しい事を知っている。
(あれ、それって何だっけ――)
大丈夫と思った傍から意識が朦朧としてきたらしい。
涙のせいなのか、激痛のせいなのか、視界が滲んでスミレさえ見失ってしまいそうだった。
(今…行くからな……)
早くスミレの元に行かなければと、芋虫のように体をよじらせる。
「そんなんじゃ日が暮れてしまうぞ?」
地べたを這うオレを見下ろし、サマルがにたにたと笑った。
ギョロリと動く目が気味悪くて、反吐が出そうになる。
「はは!手伝ってやろうか?そんなにあの汚らわしい猫が好きなら、あそこまで蹴り飛ばしてやっても良いぞ?」
「………勝手に、言ってろ」
「ふん、まだ生意気な口が聞けるか。お前もウィルフレッドも本当に忌々しい……。よくもまあ、無意味な自尊心を折らずにいられるものだよ!!」
「……っ!!」
笑みを消したサマルが足を振り上げる。
ぎゅっと目を閉じて衝撃を待つが、いつまで経ってもサマルの足は飛んでこなかった。
代わりに冷気が一帯を包み込んだ。
冷たい、どこまでも冷たい空気が庭園へと降り注ぐと、振りかぶったサマルの足がパキパキと音を立てて凍りついていく。
「今度は何だ!!?誰が私の邪魔を――」
動きを止めたサマルが目にしたのは、鬼神のごとき男だった。
「サマル・バロッド――!!!!」
凍てつく庭園をハンスが駆ける。
鬼の形相のハンスが固く握りしめた拳を突き出した。




