36.子猫伯爵と薄氷
「み゛ゃー!!!!」
「うっ……!」
バリィッ――っとスミレの爪がハンスに炸裂する。
咄嗟に顔をかばった腕には、見事なまでの赤い三本線が引かれていた。
「みゃうん!」
スタンと地面に着地したスミレは勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
引っ掻かれたハンスはその場にしゃがみ込みこんだ。
今日も駄目だったと項垂れるこの光景も、もはやいつもの事だ。
スミレと出会ってからというもの、ほぼ毎日のようにこうしてハンスとスミレの仁義なき戦いが繰り広げられているのである。
放課後、暇さえあれば庭園に通い詰めているわけだが、これで何戦目になった事やら。
なお勝敗は10:0でスミレの一人勝ちだ。
何としてでもスミレを撫でたいハンスは今日も今日とてスミレに挑み、今まさに敗北を喫したところだった。
「そのくらいにしておけよな」
「みあー」
「ンナナ~」
「んみゃんみゃ」
へこたれないハンスと容赦のないスミレ両方に呆れて声をかけると、子猫たちも輪唱するように鳴き声をあげた。
丸太に座るオレの膝には3匹の子猫たち。
出会った当初と比べ随分と大きくなった3匹を膝の上に乗せるのはそろそろ限界だろう。
転げ落ちそうになるモモを抱き寄せ、オレは丸太の上で胡坐をかいた。
「でかくなるのもあっという間だったな」
まだ子猫とはいえ、一カ月近くも経てばなかなかの大きさだ。
片手に収まる小ささはなくなり、3匹揃ってオレの手から溢れ出るようになっている。
最近では性格もしっかりと現れ始め、立派におやつの取り合いをする程だった。
一回り大きいままのクロは貫禄なのか何なのか大らかな性格だ。
ハンス相手にも物怖じしないだけあって、何事にもどんと構えているようである。
黒一色の体毛もあってハンスとは似た者同士といった感じだろう。
唯一ガッツリ触らせてくれる事もあり、ハンス一番のお気に入りもこのクロである。
サビはというと少し毛が長くなったようだ。
見る度に木の葉をくっつけているが、本人はズボラなのかあまり気にしていない。
クロとモモの枕にされても気にせずに寝続けるのんびり屋のようである。
そんなサビもおやつを前にすると目の色を変えて飛びついてくる。
ハンスの事はまだ怖いようだが、食いしん坊なサビが餌付けされるのも時間の問題だろう。
唯一のメスであるモモはかなりのお転婆だ。
よたよたとはいえ歩けるようになった途端、あっちへとことこ、こっちへてとてと、歩き回ってはスミレに捕まっていた。
母譲りなのか一番攻撃的なのもモモである。
爪の出し入れを習得したと思えば、何かにつけてハンスに爪を立てるようになっていた。
まだ非力なモモではろくに傷を与えられないようだが、そのうちスミレのように手痛い一撃をかませるようになるのだろう。
ハンスの腕が傷だらけにならない事を願うばかりだった。
「ん゛み゛ゃみ゛ゃー!!!!」
「ぐぅっ……!」
バリィッ――っと再びスミレの爪がハンスに炸裂する。
めげずに第二ラウンドを開始したハンスだったが、結果は変わらなかったようだ。
腕に赤線を増やしたハンスはよろよろとオレの方へとやって来た。
「ほい、クロ」
「……っ………ああ」
クロを手渡すとハンスはクロを抱きしめながら丸太に寄りかかった。
猫で負った悲しみを猫で癒す猫好きの鑑のような行動である。
こういう姿を可愛いと思ってしまう自分がいる事に内心愕然としつつ、気を紛らわすべくモモとサビを撫でまくった。
(……男に可愛いはないだろ)
可愛いと言われ続けて12年のオレでさえ、可愛いと言われるのにはキツイものがある。
それなのにかっこよく逞しいハンスに可愛いと思うのはお門違いが過ぎるのではないだろうか。
お節介焼きとして見守るポジションだからこその感情かもしれないが、それでもハンスに対して抱いて良い感情ではないと思いたい。
「あ、そうだ!腕出せよ、腕!」
「腕?」
上目遣いにハンスが繰り返す。
可愛い要素などどこにもないと心を無にして、半ば無理やりハンスの腕を掴み上げた。
「えーと………こう?だっけ?」
痛々しい赤線が走る腕に手をかざす。
指先に意識を集中し、心の中で治れと強く念じてみた。
そのまま粘り続けると少しずつハンスの腕に出来た傷が塞がっていく。
(この感じ……!)
要領が掴めた気がして力を込めると白い光がハンスの周りに飛び散った。
温かな熱を発するまん丸の光が溢れ、ハンスを包み込んでいく。
「んみ~!」
「みゃうー!」
スミレたちは宙を舞う光に大興奮で、4匹揃って捕まえようと躍起になっている。
それも束の間、光の玉はハンスに飲み込まれるように消えていった。
「ど、どうよ…?」
「凄い…な。全身の傷が治ったみたいだ」
「へへ、それは良かった」
ひーひーと肩で息をしながらハンスの腕を見る。
ハンスの腕にあった傷は綺麗サッパリ消え去り、しぶとく残っていたカサブタもいなくなったようだ。
雑念を払う意味も込みで試してみたが、案外と何とかなるものである。
初めての実践ながら上手くいったのではないだろうか。
一瞬トラスティーナ教授の冷ややかな目が頭を過ったが、言いつけを破ったわけではないからセーフと信じたい。
生徒だろうと加護を扱える相手と一緒なのだから問題はないはずだ。
「……シャルルには助けられてばかりだな」
クロを抱きしめたままハンスがオレの隣に腰かける。
へーっと疲労の色が滲んだ息を吐き出すオレを支えるように、すぐ隣にハンスの温もりが触れた。
その温もりとは逆に耳に届くのはどこか憔悴した声だ。
だが表立って助けている事なんてあっただろうか。
カイトたち貴族主義からの風除けになっているかと問われると微妙なところだし、特別ハンスに力を貸した覚えもない。
結局ハンスのためにしているあれこれは自分自身のためでしかなく、こうして改まれられてしまうと罪悪感が強くなってしまう。
むしろオレの方がハンスを盾にしまくっているのでは――これまでの事を振り返ると、情けない記憶の数々が胸に突き刺さった。
「な、何言ってんだよ!そんな言われるような事した覚えないっての!」
「お前にはなくても俺にはある」
「だとしてもオレは気にしてないから!思い悩むような顔されるとこっちまで気になるからやめろよ!」
「………悪い」
思わず取り乱すとハンスは言葉少なに項垂れる。
下を向くハンスの顔には濃い影が差していた。
その横顔を見て、以前にもこういう風に人目も憚らずに落ち込む事があった事を思い出す。
「どうしたんだよ?」
ハンスの方は見ずにサビとモモをそっと地面に降ろす。
まだ甘えたい盛りなのだろう。
クロもハンスの手を離れ、スミレにくっついた3匹は思い思いにくつろぎ始めた。
「オレで良ければ話くらい聞くぞ」
身繕いに励むスミレを見つめたまま再度ハンスに問いかける。
子猫たちは揃ってスミレの真似をするように互いの体を舐め合っていた。
長さの足りない舌をチロチロと伸ばし、たまに甘噛みをしながらじゃれ合っているようだ。
ぼんやりとその様子を眺めるオレにハンスはようやく口を開いた。
「――夢を、見るんだ」
いくらか躊躇って、やがてハンスは重い口ぶりで話し出す。
「毎夜のようにお前がいなくなる夢を見るんだ。俺のせいでお前がいなくなってしまう夢を」
「でも夢なんだろ?」
「…………そうだ。だがいつか現実になってしまうんじゃないかと不安になって、朝目が覚める度に自分の居場所を確かめるんだ。それでも恐ろしくて、シャルルの顔を見るまで生きた心地がしない」
――まるでオレだ。
『ラブ・デスティニー』という物語に囚われて、いつも心のどこかで不安に思っているオレと同じだ。
どんなに流れが変わっても、何かの拍子に戻ってしまうんじゃないかと、結局避けられない道筋があるのではないかと、夜一人になる度に不安に押しつぶされそうになるオレと同じだった。
だからこそ、オレはハンスの手を握りしめた。
「大丈夫。オレはどこにも行かないよ」
自分自身にも言い聞かせるようにハンスへと笑いかける。
オレに出来るのは、この言葉が嘘にならない事を願う事だけだ。
「……この先もずっと、お前の傍にいる事を許してくれ」
「そんなの許可いらないだろ」
縋るように手を握り返すハンスを、へっと鼻で笑い飛ばしてやる。
ハンスは泣きそうな顔で微笑み、その後には何も言わなかった。
互いに口を閉じ、こちらの事など気にも留めずに追いかけ合う自由な猫たちを目で追い続ける。
(傍にいる、か)
もしかしたら傍にいたいと願っているのはオレの方なのかもしれない。
その弱さを知るのが自分だけだったら良いのにと。
その優しさを向けられるのが自分だけだったら良いのにと。
その温もりを分かち合えるのが自分だけだったら良いのにと。
我儘で欲深いオレはそんな事を思ってしまうのだ。
この先もずっと、ハンスの物語をすぐ横で見届けたいと思ってしまった。
(……何考えてんだろ)
こんなのは過ぎた憧憬だ。
いつか手放さなければいけないものを大事に抱え込んだって何も生むものはない。
それでも今はこの鼓動を独り占めしたくて、オレはただ何も言わずハンスの隣に座っていた。




