29.子猫伯爵と女神の悪戯
安心したせいなのか、気が緩んだせいなのか、きゅうきゅうと腹部をしめつける感覚に見舞われた。
(うっ…!こんな時に…!)
一度意識をしてしまうと、その感覚はなかなか消えようとはしてくれない。
気分が高揚しているおかげで眠気はなかったが、それでもこの場で腹の虫が騒ぐ失態は避けたかった。
(静まれオレの腹……!!!!)
この年齢特有の麻疹が発症した如く、服の上から腹を押さえつける。
エルデルバルトはというと、オレの奮闘には気づかずに石板を元の位置に戻していた。
こちらからは見えないが、台座の裏側が空洞になっているのだろう。
杯も布巾も液体が入っていたボトルも全部、その中へと姿を消していく。
「――時にミオン様」
その手を止め、エルデルバルトがオレを見た。
オレとしては早々に帰りたいところだが、エルデルバルトを無視して広間に戻るわけにはいかないだろう。
大神殿で腹が鳴るなんて大恥はかきたくないが、大司祭に無礼を働く方がマズイ事は考えずとも分かる事だ。
二つを天秤にかけ、オレはさもすれば呑気なエルデルバルトへと顔を向けた。
「まだ何か…?」
「もしやとは思いますが、空腹や眠気を感じる事が多いのでは?」
「えっ?何でそれを?」
「やはりそうでしたか。大きな力を持つ場合、そのような事例が起きる事があるのです」
今まさに空腹と戦っている最中、エルデルバルトは空腹の正体を口にする。
「でも医者には体質だって――」
「体質――とも言えるでしょう。先にお教えした通り、取り込む神力が多いほど肉体には負荷が掛かります。微弱とはいえ人は無意識の内にも神力を取り込むもの。ミオン様はその無意識でさえ常人のそれを上回ってますので、自ずと人並み以上の寝食が必要となります」
これもケンネル教授が言っていた。
前世では神力に関係なくエネルギーは消費されるものだったが、この世界ではエネルギー、つまり生命力の消耗に神力が密接に関わるとされている。
言葉の通り、加護の有無に関係なく神力は取り込まれ、肉体を巡った後、体外へ放出されるそうだ。
1番最初にこの話を聞いたのは、学院に入る前、家庭教師に教わった時だろうか。
その時には嘘くさいと思っていたが、エルデルバルトに言われると一気に信憑性が湧いてくる。
しかもオレを悩ませてきた空腹と睡魔の原因もそこにあるのだと言う。
こんな所で長年の疑問が解けるとは思わず、オレは馬鹿みたいに口を開けた。
(あっ!また!)
ぽかんと開いてしまった唇をきゅっと結び、見た目には何の変化もない自分の手に視線を落とした。
(でもそっか。オレがおかしいわけじゃなかったんだ)
気にしない事と、理由が分かって受け入れる事はまた別物だ。
理由もなく変なわけでもなければ、ハッキリ病気でもないと判明し、また一つ気持ちが軽くなった気がした。
表情の緩んだオレにエルデルバルトはふわりと笑いかけてくれる。
「神力を多く取り込めるという事は女神様の祝福が厚い事の表れ――この先、神力と加護について学び、その扱い方を心得れば、過度な空腹や眠気に苛まれず普通に生活を行えるようになるはずです」
そして、私もそうでした――と小さな声で付け加えた。
「エルデルバルト…様もですか?」
「ふふ、昔の話ですけどね。私もミオン様と同じように空腹に悩み、秘薬に苦しんだものです」
思わず聞き返すと茶目っ気のある笑顔を返される。
道理で終始落ち着いているわけだ。
次々に解けていく疑問に、オレの口はまた開いてしまいそうだった。
「あの……」
その中で一つ気になった事を聞いてみる。
「空腹や眠気を感じる理由は分かったんですけど、今ここでお話してくださったって事は秘密にしてるって事ですよね?どうして秘密にしてるんですか?意味も分からず不安に思うより良いと思うんですけど……」
医者でさえ知らない事となれば、意図的に秘匿しているという事だ。
オレは家にも家族にも恵まれ、好きなだけ食べ好きなだけ寝る事を許されたが、それがどんなに恵まれた事だったかは考えなくても理解できているつもりだ。
だが人によってはそう簡単に受け入れる事のできない話だろう。
凄い力を持っている――で済む事ではないはずだ。
オレのように流せずに悩み続ける人だっているだろうし、穀潰しと見放される可能性だってある。
皆が皆オレと同じではないのだし、この事実が世間一般に広まれば、意味もなく苦しむ人も減るのではないだろうか。
しかし、エルデルバルトは首を振った。
「ミオン様の気持ちも痛いほど分かります。ですがこの事実を公表すれば、残念ですがそれを悪用しようとする者が出るでしょう。力ある者を無理に奪おうとする者も出れば、その一点だけに価値を見いだし身内や隣人を捨てる者も現れかねません。未来多き者が危険な目に遭わないためにも、公にするわけにはいかないのです」
瞼を伏せ、物憂げに語るエルデルバルト。
悲しげに項垂れる姿にオレは頭を殴られたような気分になった。
エルデルバルト――神殿側の言い分はもっともだろう。
もしこの話が広まっていたら、カイトたち以外にもオレに近づいてくる奴は出ただろうし、拉致や誘拐という恐ろしい事件に巻き込まれていた可能性だってある。
オレでさえそうなのだから、生まれによってはもっと大変な目に遭う事だろう。
考えの至らない愚鈍さに嫌気が差し、視線を落とす。
口をつぐんでしまったオレに、エルデルバルトはなお優しく微笑んでくれる。
「もちろん我々神殿もそういった人を見つけた際には、本人が望む場合に限り保護を行っております。とはいえそのような事案は大変稀な事。私が大司祭になってから今日この日まで確認されていません」
暗に気に病むなという、宥めるような声色にさらに唇を噛み締める。
(……情けないことばっかだな)
知った気になってオレはこの世界の事なんか何も知らないし、唯一知っている知識ばかり当てにする浅はかな子供でしかないのだと思い知らされた気がした。
初めから赤の他人のために行動できるような誠実さなどは持っていない。
ただただ自分が情けなくて、恥ずかしいだけだ。
大司祭として寛容で余裕のあるエルデルバルトと比較したってしかたがないが、自尊心だけは一丁前な自分に腹が立って、悔しくなって、ぎゅっと手を握りしめた。
「ミオン様はお優しいのですね」
小さく肩を震わせるオレにエルデルバルトは優しく声をかけてくれる。
だが優しいを体現したような人に言われても何一つ嬉しくはない。
気の利いた言葉どころか何も言えないオレにエルデルバルトはやはり温かく語りかけてくれた。
「私見ではありますが、力ある者が必ずしも力を求めているとは限りません。中には平穏を望む者もいるでしょう。私はそのような人たちも守るべきであると考えています」
「平穏、ですか?」
「力には責任が伴います。ですが責務の果たし方もけして一つではないはずです。力を振るう事のみが正解なのではなく、誰かを守るために秘匿する事もまた立派な務めであると言えるでしょう。平穏を望む心は愚かな事でも、罰せられるような事でもないと、私はそう思っています」
一瞬、悠々自適な生活を夢見ている事が気取られたのかと思ったが、そういうわけではなさそうだ。
海の加護を持つ者から選ばれる以上、大司祭であるエルデルバルトに人の心を読むような加護はない。
オレが言うのも変だが超能力者なんて突飛な事はないだろう。
(それにしても……)
エルデルバルトの話はあまり頭に入ってこない。
オレを励まそうとしてくれている事も、彼なりに人を守ろうとしている事も分かるが、神殿流のこの口上はオレには向いてないらしい。
柔らかく穏やかな声色のせいもあって段々と睡魔が顔を出しつつあった。
「きっと女神様もこのように考え、人に――加護に枷を課したのでしょう。より多くの者を守れるよう、より多くの者が平穏に暮らせるようにと。大司祭である私が言う事でもないでしょうが、人は加護などなくても生きていく事が出来ますから」
言い終えて、エルデルバルトが気落ちしたままのオレのすぐ横へとやって来た。
腰を落としオレの顔をより近い位置で覗き込む。
柔らかな袖が触れたと思えば、細い腕がオレの肩を強く、それでいて優しく抑えた。
「ミオン様、一つ約束をしてください」
そして意思の籠った声が告げる。
「ここで私と話した事はけして口外なさらぬよう――私と二人で話をしたという事も、人より遥かに強大な力を持っている事も他言してはいけません。あなた自身を守るためにも絶対に。良いですね?」
力強い瞳に見つめられ、息を呑む。
空腹も睡魔もかき消す灰色から目を逸らさずに、一度だけしっかりと頷いた。
「分かりました」
優しくも寂しげな眼差しに、オレは肯定以外には言葉が出なかった。
その答えに満足したのか、オレの背中を押してエルデルバルトはにこりと笑う。
どこか茶目っ気のある悪戯な顔だ。
「そろそろお別れといきましょう。あまり長くなっては怒られてしまいますからね」
この怒られるは言った本人の事だろうが、司祭たちの様子を考えれば当然の事だろう。
「あの……」
ふと気になって扉に手をかけたエルデルバルトを見上げる。
「何ですか?私に答えられる事ならお教えしましょう」
「さっき注いでたのってやっぱり……」
思い切って尋ねてみるとエルデルバルトは何も言わずに微笑んだ。
そのどこか切なげな笑顔が答えを物語っているような気がして、オレもそれ以上は聞かない事にする。
こうしてエルデルバルトとの邂逅が終わり、オレは外へと解放された。
司祭たちは怪しむようにオレを見ていたが根掘り葉掘り聞くような事はしない。
ただ黙ってオレとエルデルバルトを見比べ、それぞれの持ち場へと戻っていった。
「それではご案内します」
最初と同じくチビデカコンビがオレを挟む。
拝殿を後にするその背中を、エルデルバルトが扉から顔を出して見送ってくれていた。
「ミオン様。ご卒業の際にはぜひ神殿へいらしてください。きっとですよ!きっとですからね~!」
最後の最後はもはやただの勧誘だ。
司祭たちは終始困惑した様子だったが、オレは苦笑と共にエルデルバルトに頭を下げた。
海の加護を持つ者が少ないだけあって人手が足りてないという事かもしれない。
切実さすら感じさせるエルデルバルトを振り切って、オレの『知啓の祝福』は終わりを迎えたのだった。




