1.子猫伯爵と恋愛小説
恋愛小説『ラブ・デスティニー』。
それがこの世界の舞台。
そしてオレが〝ハンス・ウィルフレッド〟と〝シャルル・ミオン〟を知る理由でもある。
全てはシャルルになるより以前、オレがまだオレだった頃の話だ。
今となっては顔も名前も思い出せない妹が〝読まなきゃ損〟の一点張りで押し付けてきた1冊が『ラブ・デスティニー』だった。
男のオレが恋愛小説を読むのには少し――いや、かなり抵抗があったわけだが、妹に勝てる兄はそうそういない。
最初こそ忙しいだの趣味じゃないだの適当にあしらったが、妹の熱意に根負けしたオレは、渋々ながらその小説を受け取った。
結論、オレは『ラブ・デスティニー』にハマった。
正直言って恋愛小説をバカにしていた。
何ならタイトルださすぎるだろと思っていた。
だがありきたりなタイトルからは想像できない程、小説の内容は深く、寝る間も惜しんでのめり込むほどのものだった。
一字一句覚えるような熱狂さこそなかったが、オレは小説のファンになっていた。
男は黙ってスポーツ漫画とバトル漫画、なんて古臭い考えに縛られていた過去の自分が随分と遠くに見えるレベルだ。
オレの安っぽさはさておき、ここが『ラブ・デスティニー』の世界である事に思い至ったのは今から2年前――シャルルとして生を受けて10年目の事だった。
きっかけは何て事はない。
シャルルが勝手にすっ転んで頭を強打したのが原因だった。
曖昧ながらも前世と言うべき記憶を思い出したオレは、この世界が『ラブ・デスティニー』の世界そのものである事に気が付いた。
そして隣にいる〝ハンス・ウィルフレッド〟こそが物語の主人公なのである。
『ラブ・デスティニー』。
通称『ラブデス』を一言で説明するならファンタジーものの恋愛小説だ。
無骨で不器用な主人公〝ハンス・ウィルフレッド〟と、悲運のヒロイン〝アイリス・ティタ〟が、傷を埋め合いながらそれぞれの名誉を取り戻していく冒険譚が綴られている。
物語の舞台は『聖なる大地クーラ・アース』。
偉大な女神の1柱が、自らの肉から広大な大地を生み出したと伝えられている。
同時にもう1柱の女神が息吹から空を生み出したそうだ。
2柱の女神にまつわる伝承はこの世界の人間にとって常識のようなものだろう。
小説で見た知識も含め、オレの頭にもしっかり刻まれている。
そして神がいれば神に楯突くものもいるわけで、この大地にも『ヨナ』と呼ばれる悍ましい魔物が存在する。
オレはまだ見た事がないが、ヨナは海の底からやってくるらしい。
王都にいる限り安全ならそれに越した事はないが、いつかオレも本物のヨナを見る事になるのだろうか。
(……頼まれても戦いたくはないけどな)
『ラブデス』に出てきたヨナを思い出す。
その見た目は悍ましいというよりも、ひたすらに気持ちが悪かった。
深海魚を思わせるグロテスクな姿に、何故ヨナの挿絵があるんだと絶句したものだ。
物語の冒頭も、アイリスがヨナに襲われるところから始まった。
家を追われ、一人彷徨っていたアイリスに容赦なく牙を剥く巨大な魔物。
『私…ここで死ぬのね……』
死を受け入れたアイリスが、ヨナの肩ごしに青空を見つめるのが印象的な始まりだった。
アイリスの儚さと清らかさが如実に表現されていると、ファンの中でももっぱら人気のシーンである。
そんなアイリスを助けるのが主人公のハンスだ。
冒険者として各地を渡り歩くハンスが、偶然とはいえアイリスを助けた事で物語が動き出していく。
継母に虐げられ、極度の人間不審に陥ったアイリス。
過去の出来事のせいで女性恐怖症に陥ったハンス。
互いに踏み出していけないじれったさと、それとは逆に距離感がつかめず一気に駆け出してしまう焦燥感。
心に傷を抱えた二人が旅の中で少しずつ打ち解けていく姿は、見ているこっちまでドキドキするものだった。
美麗なイラストで彩られた表紙もそれらをかき立てるのに一役買っていただろう。
実直そうな氷使いのハンスと、頭の先から靴の先まで銀色のアイリスが並ぶ姿は、一言でお似合いだった。
――ただし、一ファンとして楽しむ分にはの話だが。
(何だってよりにもよってシャルルなんだよ…!)
ギリリと下唇を噛む。
尖った八重歯は牙のようで、一歩力加減を間違えれば唇に傷がついてしまいそうだ。
それだけではない。
燃えるような赤いクセ毛と吊り上がった金色の瞳。
何度鏡と睨めっこしてみても、鏡に映し出されるのは、いかにも気が強そうで、好戦的で、性格の悪そうな顔だった。
整っているからこそ余計にだろうか。
意地の悪さが隠しきれないその顔は、悪役令息と称されてもおかしくない程だ。
(悪役令息なんだからしかたないか)
ヤケ気味に自分自身を嘲笑する。
家族は声を揃えて愛らしいと褒めてくれるが、どう見たってこの顔は愛らしいには程遠いだろう。
(どうせモブなら、ただのモブが良かったのに)
どれだけ不貞腐れても自分がシャルルである事は変えようがない。
まるっきり喜べないが、シャルル・ミオンもまたハンスたちと同じ『ラブデス』の登場人物なのである。
しかも作中で名前が表記される、いわゆるネームドキャラだ。
しかしながらシャルルはこの意地悪い顔の通りの悪役令息で、登場するのもハンスの過去編のほんの少しの間、それ以降は音沙汰不明となるモブである。
誤解がないように言えばスポットライトが当たらないわけではない。
悪役令息の宿命に漏れず、ハンスの手によって強制的に退場させられるのだ。
(ほんとマジどっか行ってくれ……)
こうして『ラブデス』の内容を思い返しながらも、オレはこれっぽっちも気が気ではない。
何と言っても今この瞬間がハンスの過去編にあたるからである。
それでもって悠々自適のハッピーライフのためには、学院に通う3年間、ハンスと関わらずに生活しなければならないのだ。
(そうだ、オレはハンスと絶対に関わらない)
たった3年、12歳から15歳までの3年間を耐えれば良いのだ。
たかだか数年の辛抱だと言い聞かせ決意を固め直す。
『ラブデス』ファンとしてハンスと仲良くなりたい気持ちもあったが、そんなものはとっくの昔に心の奥の奥の奥に封じ込めた。
(ハンスだけじゃない。オレはデルホークとも関わらない)
目を閉じたせいか、他の誰よりも大きな笑い声が耳につく。
ハンスがいるため振り向く事は叶わないが、教室の丁度ド真ん中に座る集団に意識を向ける。
「あいつら、どんな不正を働いたんでしょうね」
「体を売るんだろ?あんな汚い体、高い金払ってまで買いたい奴がいるとは思えないけどな」
「理由なんてどうでも良い事だ。不相応な奴はそれ相応の扱いを受けるだけなんだからな」
少し聞くだけの下品だと分かる会話。
この中心にいるだろう男が、ハンスに次ぐ関わりたくないTOP2のデルホークだ。
過去編でハンスのライバルとして登場する公爵令息カイト・デルホーク。
権力にも体格にも恵まれたカイトは貴族主義そのもので、彼にとって弱い者が虐げられるのは自然の摂理でしかなかった。
ハンスもまた平民というだけでカイトたちの標的になった。
そこには剣術や武術で天賦の才を見せるハンスへの妬みもあったのだろう。
言われのない侮蔑を受ける日々だったそうだ。
作中ではハンスの語りでさらりと流されているが、殴る蹴るの暴行も日常だったらしい。
床を舐めさせられた事もあったと言うのだからとんでもない話だ。
どんな苦境にも負けない主人公の物語を楽しんでいた時には良かったが、あの蛮行がこの先現実になるかもしれないと思うと胸が痛む。
何より〝シャルル〟が加担したかもしれないという可能性に体がすくみそうだった。
(……クソッタレ)
もし昔を思い出す事がなかったら、オレはあそこでカイトたちと笑っていたに違いない。
何せ小説の中のシャルルは、カイトの取り巻きの一人としてハンスを虐げていたのだ。
元々我儘放題だったシャルルのことだ。
嬉々としてカイトの傘下に入ったのだろう。
家柄や権力という暴力を振りかざすカイトたちを、誰も止める事はできなかったのだ。
そして彼らはハンスの逆鱗に触れた。
事もあろうにカイトたちはハンスの目の前で抵抗する動物を殺し、その死骸を食べろと命じたのだ。
細かい描写は濁されていたが、その光景がハンスにとって許し難いものであった事は想像に易い。
ハンスの怒気は凄まじく、カイトたちは立っていられない程だったと描写されていた。
逃げ出す事も出来ず、文字通りの鬼の形相で迫るハンスの拳を甘んじて受けるしかなかった。
他の人が駆け付けた時には、その場にいた全員が全治数か月の大怪我を負った後だった。
恐怖のあまり退学する者もいた――小説に記されたその一文に全てが詰まっているとオレは思っている。
小心者だったのか、シャルルもまた自主退学した内の一人だった。
そうしてシャルルは『ラブデス』の舞台から姿を消した。
モブに過ぎない人物のその後が描かれるわけもなく、シャルルがどうなったのかは誰にも分からない。
ただ一つ、ロクな人生を送らなかっただろう事は予想できる。
一生怯えて暮らし続けたか、別の標的を見つけたか、どのみち真っ当に生きはしなかっただろう。
何故そんな事が言えるのか。
そう問われれば、オレがシャルルだからとしか答えようがない。
思い出したくもないシャルルの過去を鑑みる限り〝シャルル・ミオン〟はそういう奴だったのだ。
だからこそオレは絶対に〝シャルル・ミオン〟のようにはならない。
不当に誰かを虐げる気もないし、ハンスにもデルホークにも関わるつもりはない。
無名のモブになろうとも、のんびり自由気ままに暮らすと決めたのだ。




