▼.ハンス・ウィルフレッド
ある日のこと笑顔の父に尋ねられた。
「ハンスは何が好きなんだ?」
机に向かっていた俺は手を止めて考える。
考えて、まだ幼い俺は好きなものを片っ端からあげていった。
「父さんと、母さんと、じいちゃんとばあちゃんも好きだし、串焼きも好き!みんなと遊ぶのも好きだし、泳ぐのも好きだよ。じゃがいもも、馬に乗るのも、勉強も、あとは……」
指を折っては開いてを繰り返し、思い浮かぶ限りのものを口に出した。
父はそんな俺を満足気に見つめ、もう一度だけ口を開く。
「じゃあ1番好きなものは?もうすぐお前の7つの誕生日だ。1番好きなものを買ってあげよう」
7歳を目前にした俺はぱああっと顔を綻ばせた。
父が俺に欲しいものを聞いてくれたのは、これが初めての事だったからだ。
「本当に?本当に良いの!?」
これまでの贈り物はいつも家族が選んでくれた。
4つの時には勉強机を。
5つの時にはたくさんの図鑑を。
6つの時には万年筆を。
将来のために必要なものだと言って、家族はいつも学に関わるものを与えてくれたのだ。
けしてそれが嫌だったわけではない。
本を読むのも、祖父に文字を習うのも、商会の話を聞くのも全て俺にとっては楽しいものだった。
友達と遊ぶ事を禁止されていたわけでもないし、良い家族だったと思う。
それでも少しだけ、ほんの少しだけ他の子たちが羨ましかった。
木彫りの馬を貰ったんだと自慢してくれた友人が。
お人形を貰ったんだと嬉しそうに笑う友人が――少しだけ羨ましかった。
だから父が欲しいものを買ってくれると言った時、俺は心の底から喜んだ。
これから先のプレゼントがなくなっても良いとさえ思ったほどだ。
「ねこ!ねこが欲しい!ちゃんと世話するから!」
俺はここぞとばかりに猫をねだった。
今までずっと猫は飼えないと言われていたが、誕生日にならば許してくれるのではないだろうか。
捲し立てるように〝ねこ!〟と繰り返す俺の頭を、父は優しく撫でてくれた。
思えばその瞬間に気が付くべきだったのだ。
――困ったように笑った父のその笑顔の意味に。
誕生日を迎えた俺に贈られたのは、たくさんの本と猫の牙から作られたというお守りだった。
俺の期待を裏切って、猫そのものが贈られる事はなかったのだ。
当然俺は父に泣きついた。
だが父は首を横に振るばかりで、俺の気持ちに寄り添ってはくれなかった。
「ごめんよ。でも猫は飼えないんだ」
これまでと同じ事を言って、父は寂しげな瞳で母を見つめた。
「いいかいハンス。母さんはね、犬や猫と一緒に暮らすと病気に掛かってしまうんだ。言っている事は分かるね?」
諭すように父が言う。
猫を飼おうものなら、母は呼吸困難に陥ってしまうかもしれないらしい。
動物を避けるのは苦手だからなのだとばかり思っていたが、実際にはもっと過酷な現実がそこにはあった。
「ごめんなさい、ハンス」
母が俺を抱きしめる。
優しい母が苦しむ姿は見たくない――そう思うと、それ以上猫を飼いたいなどとは言えなかった。
そうして猫を飼ってもらえなかったどころか、一生猫を飼えないと分かった俺は、半ば悲しみに暮れたまま7つの誕生日を終えた。
以来、誕生日だからと何かをねだる事もしなくなった。
1番欲しいものが手に入る事はないと分かっていたからだ。
やがて俺は他の誰よりも早く大きくなった。
背が伸び、筋肉が付き、そこいらの大人でも太刀打ちできない屈強な男へと成長した。
しかしそれは喜ばしい事などではなく、俺は皆から避けられるようになった。
ハンスがいたら遊びにならないと仲間外れにされ、普通に育てなかった俺は大人たちからも気味悪がられるようになった。
いつの間にか、俺の傍には家族以外誰もいなくなっていた。
――とかく俺は猫が好きだ。
猫というものがとてつもなく好きだ。
いつでも気まぐれで自由な猫が愛らしくてたまらなかった。
最初はただまん丸の毛玉が動いているのが面白かっただけだったのに、いつしか猫が1番になっていた。
図鑑で見たしなやかで美しい猫も、街の中に住み着いたまん丸の猫も、そこいらで喧嘩に明け暮れる若い猫も、みな一様に可愛いものだった。
それは俺が街の人から避けられるようになった後も一緒だった。
猫だけは俺を見ても態度を変えなかった
昔と同じにそっぽを向いて、こちらを睨みつけてくれるのだ。
大きな瞳に自分の姿が映ると、どうしてかほっとした。
距離感がそのままの存在がいてくれる事に酷く安堵してしまった。
犬はというと俺に爪を向けようとすらしなくなった。
吠えようともせず、俺が近づいただけで姿勢を低くしてか細い声で鼻を鳴らす始末だ。
耳は垂れ、目を合わせようともしてくれない。
あからさまに怯える姿を前に俺も近づくのをやめるしかなかった。
馬でさえ俺の事は嫌いらしい。
言う事を聞いてはくれるものの、懐いているが故ではなさそうだった。
俺の何が怖いのか――思わず聞いてみたが所詮相手は馬だ。
望む答えを教えてくれる事はなかった。
――とかく俺は猫が好きだ。
猫だけが心の拠り所だった。
いつでも気まぐれで、警戒心が強く近寄って来てはくれないけれど、それでも俺は満足だった。
他の連中はやめろと言う。
それでも俺はやめられない。
猫が俺を見てくれる内は何度でも彼らに手を伸ばすだろう。
そんな俺にとってシャルル・ミオンとの出会いは衝撃以外の何物でもなかった。
一目見た瞬間、猫のような人だと思った。
柔らかに揺れる髪の毛も、金色に光る猫目も、波打つように湾曲した唇も全部が全部猫のように見えてならなかった。
(シャルル・ミオン)
心の中でその名前を口にする。
名前まで猫のようではないかと、彼の全てに心が逸るのを感じた。
猫が人の姿になって現れたのではないかと、そう錯覚してしまうほどだ。
(友達になれるだろうか…?)
どうあっても胸が高鳴ってしまう。
煩い心臓を無理やりに押さえつけ、俺はシャルル・ミオンの元へと向かった。
この出会いが運命でありますようにと、希望を寄せながら――




