89.子猫伯爵と絡まる思惑
夏の第三月も半ば――。
少しずつ暑くなってきた日差しに抱かれながら、オレは馬車に揺られていた。
騒がしい学院での生活が嘘みたいに、一人きりの馬車は静かなものだ。
ハンスとカイトの魔具チェックに始まり、ジュリアナと無駄に疲れる会話をして、勉強して、トラスティーナ教授と進展があったのか上機嫌なユージーンをあしらって、また勉強しての忙しい毎日を過ごしているわけだが、そんな喧騒もはるか遠く。
オレはのんびりとした気分で天を仰ぐ。
事件が起きて欲しいわけではないが、変に気を張り続ける日々はなかなかに疲れるものだ。
ここではゆっくり息が吐けると、目を細めながら窓の向こうに目をやるのだった。
夏が近いとはいえ、雲が多く陽の光はそこまで眩しくはない。
それでも、じんわりと熱気を帯び始めた空気に、何となしにぱたぱたと顔を仰いだ。
前世でなら扇を出すところだが、この世界では顔の前で煩く物を振ろうものなら、はしたないと怒られるだろう。
そもそも扇は自身をお上品に見せるグッズの一つだ。
男が持ち歩くようなものでもなく、オレが取り出すには違和感しかないだろう。
(うちにも冷房欲しいなぁ)
うだるような暑さがなくとも、暑いものは暑い。
しかしこの世界ではまだ、エアコンという画期的な道具に準ずるものは普及していないのである。
学院は王立だけあって温度調整の魔具が用意されているが、屋敷にはそんな上等なものは置いていない。
結局のところ不可思議な力があれば何でも出来る――というわけにはいかないのだ。
意外と不便で現実的な問題がそこにはあるのである。
魔具も大元となる加護と魔石が揃って初めて成立するものだ。
加護は一旦置いても、相性の良い魔石の入手が案外と問題点になりやすいのだという。
これは始まったばかりの魔道研究の授業でも教えられた。
例えば図鑑で見たアンダラネダやフィブラン。
これらのヨナは数が多く、比較的狩りやすいため魔石も安定して市場に出回っている。
一方でトペトペやヘイドランナといった、確認数が少ない上に危険度が高いヨナは、諸侯であっても簡単に魔石を拝む事は出来ないそうだ。
その中でも別格と言えるのがエイスフィートだろう。
噂のように語られるそのヨナは、正式な討伐例がなく、魔石の欠片も極一部が所有しているだけなのだそうだ。
挿絵を見る限りでもタコかイカのような姿のまま、八本足の名を付けられたエイスフィートを討伐出来た者には、英雄の誉が与えられるとさえ言われている。
(ハンスなら出来ちゃいそうだけどな)
主人公補正もあって、未来のハンスになら倒せてしまいそうだ。
『ラブデス』を最後まで完走出来ていないのが悔やまれるが、エイスフィートはきっとラスボスのような立ち位置に違いない。
アイリスと共にクラーケンのような怪物に挑むハンスを想像し、オレはついつい鼻息を荒くする。
頭の中から魔具や魔石の話題は完全に吹き飛び、アクション映画さながらに怪物に挑むハンスの姿がを思い描くのだった。
「わっ!?」
ハンスが大剣を叩き込む――という所で馬車が大きく揺れる。
分かれ道を前に馬車が急停車したようだった。
どうどうと馬を宥める声が聞こえ、様子が気になったオレは窓から身を乗り出した。
「あー、すみません。この先で事故がありまして……」
頭を出したオレに、道を塞いでいた男がぺこぺこと頭を下げてくる。
丁度十字路に差し掛かったそこで、道の一つが通行止めになっているようだった。
「事故ですか?」
「はい。幸い怪我人はいないんですが、道の方がちょっと……」
この辺りに住んでいる人だろうか。
漫画や映画で見る、いかにも農民といった感じの出で立ちだ。
それにしては身綺麗な気もするが、王都からそう遠くないと思えばこんなものなのだろう。
言うてオレはこの辺りの事はよく知らない。
通学路として使っているとはいえ、馬車で通り過ぎるだけの街道についてまで、そう知っている事はなかった。
物珍しさに辺りを見渡すオレの傍に、御者台を下りた使用人がやって来る。
「大事ありませんか?」
「ん、平気。それより通行止めだって」
今日の御者は新人のクレイスだ。
昨年のカレン夫人の一件もあり、今年の頭にミオン邸に仕える使用人が増員されたのである。
クレイスはその際にやって来た、まだ一年にも満たない期待のニューフェイスだった。
筋肉質で角刈りの、いかにも体育会系な彼は、ミオンが治めるメルゲル領の領民で、人員募集の報せを聞いて志願したのだそうだ。
爵位を持たない一般人だが、それを気にするミオン家ではない。
腕と体力に自慢のあるクレイスは見事使用人の座を勝ち取った――というわけである。
とはいえ新人は新人だ。
クリスティアンやナサニエルならもっと丁寧に停車出来ただろうが、そこのところはまだ初心者といったところだろう。
いささか焦った様子のクレイスが、オレと男の間に割って入るのだった。
「事故と聞きましたが何が?」
「馬車同士が鉢会って、あれこれ絡まっちまってるんですよ。なんで通り抜ける隙間もなくて……」
「どれくらい掛かりそうですか?」
「それがさっぱり。怪我人もいないし大事にはなってないんですけどね。いかんせんお貴族様の大きな馬車が顔合わせになっちまいまして、すぐに通れるような状態じゃあありませんよ」
チラチラとオレの顔色を伺って、男は気まずそうに事情を語る。
見るからに育ちの良さそうなオレを見て委縮してしまったのかもしれない。
オレは少しずつ馬車の中へと引っ込んでいく。
そんなオレを覗き込んで、クレイスが考えあぐねるように眉間に皺を寄せた。
「どうされますか?坊ちゃん」
「んー…帰るだけだし迂回で良いんじゃね?」
「かしこまりました!」
幸いにもここは十字路だ。
一番近いのが正面の大きな路面というだけで、右の細道からもメルゲル領に行く事は出来る。
数時間暇を持て余す事になるくらいなら、1時間2時間プラスしてでも家を目指す方が良いだろう。
歴の浅いクレイスも、仰いだオレの意見へと頷いた。
「お気をつけて~!」
交通整備をする男に見送られ、オレたちは行き先を変える。
オレが座席に座り直すのを見計らって、馬車はゆっくりと細道へと入っていった。
「揺れますのでお気を付けを!!」
無駄に大きいクレイスの声が馬車にまで響いてくる。
その声の通り、馬車はガタゴトと不規則に上下するのだった。
大通りに比べ、舗装されていない道は尻に悪い。
ダイレクトに尻と腰に伝わる衝撃に、オレは思わず中腰状態になってしまう。
クッションを敷こうにも、馬車に乗っているのはどれも丸くて肉厚な、座るよりも抱きしめるのに向いたものだ。
しかし今求めているのは座布団である。
致し方なく一番薄そうなクッションを踏み潰し、砂利道の衝撃に耐えるのだった。
(明日からは座布団も乗せとこ)
座りの悪いクッションの上で、気を紛らわすように外を見る。
雑木林に入ったのか、外には青々と茂った緑が広がっていた。
馬車が走る道までは太陽の日差しが届かないのだろう。
連日続いた雨のせいもあって、どことなくじっとりとした雰囲気だった。
(うわ…、何か出そう……)
薄暗い林の中は、ぱっと見るだけでも見通しが悪い。
肝試しに向いてそうな佇まいに、つい気分が盛り下がるのだった。
今はまだ日中だから耐えられるが、これが夕方や夜だったら叫んでいたかもしれない。
オレは目を逸らすようにクッションを抱きしめた。
それから少し経つ頃には、尻を悩ませる砂利道ともお別れだ。
馬車の揺れも収まり、オレは暇を潰すようにまだ角が綺麗な教本へと目を通した。
選択授業が始まった事もあり、覚えなければいけない事がまた一気に増えてしまったのである。
オレはユージーンやアンナのように要領の良いタイプではない。
授業について行くために必死に内容を叩き込むのだった。
その時――
「ヒヒィーン!!!!」
馬のいななきが雑木林に響き渡った。
意識を向ける暇もなく車輪が横に滑り、オレは馬車の中を転がっていく。
「み゛ゃ゛っ!!??」
ごちんと頭をぶつけたオレに容赦なく振動が襲い掛かる。
それは砂利道の揺れとは比べ物にならない衝撃だ。
馬車全体が大きく揺れ、次の瞬間にはオレの体は馬車の壁面へと張り付けにされていた。
前世で何度か乗ったコーヒーカップでだって、ここまで振り回される事はなかっただろう。
冗談を言っている場合ではないが、さしずめ人間洗濯機だ。
激しい遠心力に抵抗出来るわけもなく、オレはぼすぼすとぶつかってきたクッションと共に重い空気圧に打ち震える。
時間の感覚もどこかへ飛んでいき、それが一瞬の事だったのかさえ分からない。
数分にも感じられる圧迫感が消え去ったのは、耳をつんざくような轟音が鳴ってからの事だった。
一際大きな衝撃がオレの体を壁から引き剥がし、馬車の床へと乱暴に放り出す。
ベシャリと顔から落ちたが、すぐに体勢を立て直す気力はなかった。
「は…、はぁ……」
転倒こそしなかったようだが、馬車がスリップしたという事だろう。
薄っすらと濡れる土が車輪を持って行き、大木にぶつかってようやく停まったようだった。
大きく罅の入った窓のすぐ外には木肌が見えている。
耳にはガリガリと地面を抉る音がまだなお張り付いて、心臓がはち切れてしまいそうだ。
本当に停まったのかどうかさえ分からず、オレはただ胸に落ちてきたクッションを抱きしめるのだった。
「……と…とまった………?」
はっ、はっと荒い息を吐いて辺りを見渡す。
馬車の中を見ても何もないのだが、混乱のあまりそこまで気が回らない。
外から聞こえるのも、呻くような馬の鳴き声だけだった。
「あっ…!そうだ…!」
クレイスの事を思い出し、急いで立ち上がる。
しかし腰が抜けたのかオレの体は上手く動いてくれなかった。
ガクリと膝から崩れ、ノブを掴む前にへたり込んでしまう。
「ああ、もう…!」
笑ってしまう膝に力を入れ、もう一度ノブへと手を伸ばす。
その間際、ガチャッと固い音が響いた。
オレがドアを開けるより先に、目の前で馬車が開いたのだった。
「クレ――」
名前を呼びきる前にオレは言葉を失った。
馬車へと乗り込んで来たのは、クレイスとはまったく違う見知らぬ二人組だった。
真っ白なフードを目深に被った、一見すると司祭にも見える二人がオレの前に立ち塞がる。
(司祭じゃ…ない……?)
一瞬、神殿に従事する司祭かとも思ったが、そんな都合良く司祭が現れるわけがない。
それに司祭なら真っ先に容態を心配するはずだ。
フードと口布で隠れてその顔を知る事は出来ないが、二人の目付きはひどく恐ろしいものに見えた。
「あ……」
獲物を見定めるような鋭い瞳に体が震えあがる。
少しでも距離を開けたくて、逃げ場ないと分かりながらも後退った。
「こいつが例の?」
「下手な真似するなよ。大事なお客さんなんだからな」
声や背格好からいっても二人は男のようだ。
背の高い方の男が牽制するように棘のある言葉を発した。
「や、やだ……」
「やだだって。抵抗されたらどうする?」
「まあ、少しおいたをするくらいなら許されるだろう」
「でもこいつ海の加護なんだろ?腕切るくらい良くない?」
「切り落とすっていうなら反対だ。後処理が面倒だからな」
オレの事など構わず、男たちはさも当たり前のように恐ろしい話を繰り広げている。
その間も、唯一見える冷たい目がオレを睨み続けていた。
一瞬たりともオレからはずれない視線が、恐怖心を駆り立てていく。
(逃げなきゃ……。でも、どうやって……?)
「あーらら、泣いちまったよこいつ」
男の一人がオレの腕を掴む。
びくりと体が跳ね、オレは遠慮なしに掴まれる痛みに呻き声をあげた。
泣いちゃ駄目だと言い聞かせても、あまりの怖さに瞳からは大粒の雫が零れてしまう。
「や、だ…たすけ……」
「悪いけど助けはこないんだわ。童話なら王子様がかっこよく登場するんだろうけどさ。現実ってそういうもんだからね」
「無駄口は止せ。さっさと撤収するぞ」
軽い口調の男が笑いながらオレの腕を引く。
ずるずると無理やり馬車の外へと引きずり出された――かと思いきや、途中で地面へと放り投げられた。
「んぐ!?」
「よいしょっと」
衝撃に呻く暇もなく、転がったオレの上に男が座り込んだ。
逃げられないように腕を中心に抑え込み、けらけらとこの状況を楽しんでいる。
冷静な男の方は馬車の中を漁っているようだ。
すでに荒れたそこをさらにかき乱し、外へとクッションを放り投げている。
無情にも、お気に入りのクッションが次々と泥にまみれていった。
「……な、何なんだよ、お前ら」
「何って人攫い?盗賊かもしれないし、ただの殺人鬼かもな?ああ、実はヨナだったりして?」
にやにやと笑っているだろう男をキッと睨む。
こんな時こそ落ち着かなければと、何度となく浅い呼吸を繰り返した。
(さっき、例のって……)
恐怖に呑まれそうになりながらも、頑張って頭を回転させる。
口ぶりからいくと、この二人は最初からオレを狙っていたのだろう。
(すぐに殺す気はなさそう……だよな?)
二人の様子からいっても、オレを連れ去るのが目的に見える。
命の危機が薄い事に一先ず安堵し、ほんの少しとはいえ余裕が生まれたオレは状況を理解する事に務めた。
(まずは……)
敵と思しき相手はこの二人の他には見当たらない。
馬車もなく、ここで待ち伏せしていたように見受けられる。
あの通行止めも最初から仕組まれた事だったのだろう。
案内人は素人臭いが、堂々とした態度と手慣れた様子からいっても、この二人はその手のプロに違いなかった。
『ラブデス』本編でもアイリスを悩ませるのだが、人身売買や闇取引、暗殺など、闇となる側面はどこにでも転がっているのだ。
普通なら出会う事のないその闇に、オレは体を縮こまらせる。
真上から降ってくる殺気一つでどうにかなってしまいそうだった。
(何で、こんな目に……)
ハンスが時折見せていた圧なんて可愛いものだ。
人を殺す事に躊躇いのない人間が発する気迫に、オレはそれだけで体が震え、涙が出てきてしまった。
ぐすぐすと鼻を鳴らし、ぼやけそうになる視界を懸命に凝らす。
(クレイスは……)
土道に引かれた車輪の痕が物語るまま、馬車は大木へと派手に突っ込んでいる。
木は折れずに済んだようだが、馬車は半壊していた。
車輪も飛び、あと少し打ちどころが悪ければ中にいたオレも危なかっただろう。
馬車を引いていた馬はまだ息があるようだ。
倒れた後も暴れたのか、手綱が足に絡まってはいるものの、目立った怪我はしていない。
しかし、その近くには血だまりが広がっていた。
嫌な予感にオレは息を呑む。
(そんな、わけ……)
馬に怪我がないという事は、真っ赤に広がる血は御者を務めていたクレイスのものという事である。
見当たらないクレイスの姿に胃の中のものが込み上がりそうになる。
人が死ぬ瞬間なんて見たくはない。
いっそオレを捨てて逃げてくれている方がマシなくらいだった。
だというのに、クレイスはオレの前に現れた。
「ぼ…坊ちゃん……」
茂みの方に投げ飛ばされたクレイスが、血に濡れた体を文字通り引きずって近づいて来る。
一歩一歩と足を踏みしめる姿に、オレの上に座った男は口笛を吹いた。
「ヒュウ、ピンピンしてんじゃん♪」
けたけたと笑って面白がる男の気が知れない。
掠れた声を振り絞るクレイスの足には、痛々しくも木片が突き刺さっていた。
顔面には殴られたような痕があり、鼻の骨も曲がっている。
ただでさえ満身創痍のクレイスに、オレもまた声を振り絞る。
「駄目……!来ちゃ…こっち来ちゃ駄目だ!!」
「坊ちゃん、今助けを……」
「良いから!!早く逃げ――ん゛ん゛っ!!!」
叫ぶオレの喉を男が締め上げる。
はくはくと口を上下させるが、入ってくる空気は限りなく0に近かった。
頭がぼんやりとし、痛みで破裂してしまいそうだ。
「こんな時にも他人の心配なんて涙ぐましいねぇ。さすがは聖人様――って言ってやれば良いのかな?」
嘲笑う男の下で自由の利く足をばたつかせる。
跳ね除ける事は出来そうにないが、酸素を求め、もぞもぞと体を波打たせた。
「暴れたって無駄無駄」
「んんーっ!!」
「あんま暴れると本当に足捥ぐぞ?」
男の言葉にビクリと動きを止める。
睨まれただけで体が動かなくなり、ふるふると首を振った。
サマルに殴られた時とはまるで違う。
命を掌握される恐怖に、オレは流したくもない涙で地面を濡らしていく。
「坊ちゃんから手を離せ…!!」
「ク、レ……ィ……」
か細く息をするオレを助けようと、クレイスが突進する。
まだ新米の彼が命を懸ける必要も義理もないはずだ。
それにも関わらず、クレイスは大きく腕を振りかぶって、白装束の男へと立ち向かっていった。
(駄目…こいつら本気で、あぶ…な……)
掠れ往く意識の中、クレイスが殴られる姿が見えた。
オレに座る男よりも背の高い男の拳が、深々とクレイスの腹を抉っている。
「がっ…!!?あ……」
骨がひしゃげる嫌な音が響き、血を吐いて地面に倒れ伏す。
ドッと顔から倒れたクレイスを見下ろし、フードの男は追い打ちをかけるように筋肉に覆われた体を蹴り飛ばした。
「そいつどうする?」
「勿体ないが川に捨てる。馬が暴れて転倒。主人もろとも投げ出され川にどぼん――で十分だろう。水に落ちた人間が見つかる数は実際より下回る。死体が一つ足りなくても何の不思議もない」
「ま、ま…て……」
耳に届いた言葉に手を伸ばす。
それだけはさせないと思っても、クレイスまでの距離は遠く、触れる事さえ叶わない。
無駄な足掻きを見せるオレを嘲笑するように男はクレイスを蹴り上げた。
意識のないクレイスを何度も蹴飛ばし――すぐ脇にある川目掛けて蹴り捨てる。
ボチャンと水しぶきが上がり、轟々と流れる水が瞬く間にクレイスの姿を掻き消していった。
雨の後で河川の水が嵩んでいるのもあるだろう。
水に浮かんだ赤色もあっけなく薄れ、そこには何も無かったかのように激流だけが流れている。
「あ…あぁ……」
必至に伸ばした手が宙を掴む。
その手すら踏み潰され、オレはまたボロボロと涙を溢した。
「それじゃ一名様ご案内~♪」
踵でオレの手を踏み躙りながら男が笑う。
その後の事はよく覚えていない。
クレイスとの別れを最後に、オレの意識は完全に途絶えたのだった。




