88.子猫伯爵と紡がれる糸
その日は雨が降っていた。
ぬかるんだ土が馬の足を妨げ、自ずと走る速度が遅くなる。
そんな生憎の空模様を横目にジュリアナはグラスを傾ける。
彼女を象徴するような真っ赤なワインが揺れ、その一口が小さくすぼめられた口内へと飲み込まれるのだった。
「息が詰まってしまいそうだわ」
嘆くようにジュリアナが息を吐いた。
手放したグラスはディラン・フェリックスの手に渡され、ほんのりと火照った頬はアルベル・ロックウェルが扇で仰いでくれる。
窓の外に王城を仰ぐ事の出来る屋敷は、ガーネット侯爵家が所有するオズウェルのものだ。
パーティーを楽しむとはまた違った様子の広間には他にも様々な顔ぶれの男が揃っていた。
ジュリアナの隣に立つのは宰相気取りのサマル・バロッドだ。
浮かない様子のジュリアナへと、王都で人気を博している桃のケーキを推し勧める。
月初めに王妃と公女がお茶を共にした際に出されたもので、貴族たちもこぞって買い求めている売り切れ必至の一切れだ。
果実の部分だけを口へと運び、ジュリアナはケーキを下げさせた。
その姿はまさしく女王。
『海望の国スキラ』における序列七番などという輝かしくも哀れな王女ではなく、全てを意のままに操る君主の姿がそこにはあった。
しかし、満たされない。
ジュリアナが求めるものは、こんな小さな頂ではなかった。
ただ男に囲まれるだけで満足出来るのならこんな所には来ていない。
「まったく…。婚約者というだけで目障りなのよ」
真横に置かれたラウンドテーブルにはチェス盤が置かれている。
盤の上に整然と並ぶ駒はなく、真っ赤に塗り替えられたクイーンだけが中央に構えていた。
手元に置かれた駒の束から黒のクイーンを掴み――ジュリアナは忌々しげにを床へと放り投げた。
そうしてから黒のキングを真っ赤なクイーンの隣へと据える。
「王子はもう私の虜。あの女さえ消えれば私が王妃も同然ね」
硝子で造られた駒は固いようでいて非常に脆い。
砕けた散った黒のクイーンを満足気に見下ろし、ジュリアナは黒のルークをキングの傍へと置こうとする。
「うーん…ルークというよりナイトかしら?」
その手を途中で止め、黒のナイトをキングの隣へと並べた。
「地の剣は生かすのですね?」
「当然じゃない。それにどうせすぐ落ちるわ」
口を挟むサマルに微笑み、ジュリアナはポーンの駒を並べていく。
「これがあなたたち。そしてこれが――」
白のビショップを盤の端へと乗せる。
ビショップを囲むように黒のポーンを増やし、ジュリアナは口の端を吊り上げた。
「ふふ、どうしてあげようかしら?」
黒に塗り替えてしまうのも良いだろう。
床に叩きつけられたクイーンと同じ目に遭わせるのも良いだろう。
人差し指を頬に当て、遊戯でも楽しむようにジュリアナは思案する。
「王女様、私めに良い考えがございます」
「そう?聞かせてちょうだい」
ジュリアナへと頭を垂れ、サマルが白のビショップへと手を伸ばす。
そして、持ち上げた駒をジュリアナがしたように床へと投げ捨てた。
虚しく響き渡る音に耳を向ける事なく、サマルは新たに黒のビショップと白のビショップを盤に置くのだった。
「邪魔者には退場して頂きましょう。そして王女様に忠誠を誓う者を新たに立てるのです」
二つの――否、三つのビショップが指し示すものを理解し、ジュリアナは微笑んだ。
「悪くないじゃない」
「お褒めに預かり光栄です。これを機に邪魔立てする者は一掃してしまうのが宜しいかと思います」
「でも一つ問題が――」
足を組み直し、ジュリアナはわざとらしく外を見た。
軽く握った拳を頬に当て、止む気配を見せない大雨を憂うように、ほぅ…と艶を帯びた息を溢す。
「私、そんなに魅力がないかしら?」
「そんな事ございません!!」
「あいつが王女様の素晴らしさが分からない子供なんですよ!!」
「でも…カイト様もハンス様もだーれも私に見向きしてくれないじゃない」
どれだけ持て囃されようと、蔑ろにされた事実は変わらない。
慌ててジュリアナを立てる男たちを見下し、ジュリアナはひっそりと唇を噛み締める。
(私の加護が効かない唯一の男…!!あの男のせいで下手に加護を使えないし、目当ての男たちも手に入らず仕舞い…!!本当に…本当に厄介な人ね!!)
何度思い返しても腹立たしい。
強行突破も考えたが、異常なくしゃみを繰り返されれば、何者かの干渉が疑われるだろう。
そうなった時に虜のとの時にも届かないシャルルが味方をしてくれるとは限らない。
あの部屋での出来事を口にされようものなら、ただでさえ窮屈な護衛を増やされ、警戒の目も強くなってしまうだろう。
結局その懸念のせいで、カイトはおろかハンスやユージーンにさえ手を出す事は出来なかった。
(おかげでこの有様よ…!!ディランはまだ悪くないけど、見るに堪えない不細工ばかり!!不細工の知り合いは不細工ってどうなってるのよ…!!)
チラリと足元に集う男たちを見る。
ジュリアナに陶酔する彼らはお世辞にもハンサムとは言い難いだろう。
そばかすだらけの鼻も、贅肉ばかりの太った体も、皮肉が張り付いた顔もジュリアナの好みには程遠い。
好みだけで言えば、手元に置きたいのは、カイトやハンスのような見るからに見目麗しい屈強な殿方だった。
ルーカスも悪くなく、他に候補を上げるならシャルルを始めにホープ・トルーマンやシャレド・サフィール、アーリック・ドイル、ケント・ランドルフ、ノックス・ハワード、ランスロット・ディガロ、次点にユージーンやジョンといったところだろうか。
しかしそのいずれもが、カイトあるいはシャルルを逃したせいで遠ざかっていってしまったのである。
元より中立や新興派の面々は、興味以上にジュリアナに近づく事はしなかった。
サマルという貴族派中の貴族派が手足になったせいもあり、ジュリアナの周りに集まったのは、ごろごろと転がるじゃがいもたちばかりになってしまったのである。
そのじゃがいもたちを見つめ、ジュリアナはもう一度嘆きを込めて息を吐く。
長い長い息を吐き出し、そうしてから白のビショップへと目をやった。
「蘇芳は使えるかしら?」
「はい、すぐにでも」
「なら蘇芳を用意して。いつまでもこんな窮屈な思いしてられないもの。盛大にオウムとインコを飛ばしましょう」
「かしこまりました。全ては王女様のために……」
預けていたグラスを受け取り、ジュリアナは中身を一気に煽る。
倣うように、サマルたちも喉を潤した。
(愚かな人。あなたみたいな醜怪、手元に置くつもりなんてないというのにね)
事が済めば、不要な連中は顔を見ずに済む下働き行きだ。
権威ある地位に着けると思っているのだろうが、付け焼刃の忠臣など、いくら集まったところで蟻と変わらない。
数える意義もない、より強大な存在にあっけなく踏み潰されるだけの雑兵だ。
束の間の重鎮ごっこを楽しめば良いと、ジュリアナはほくそ笑む。
その脳裏に映るのは幼い頃より思い描いてきた華やかな世界だ。
(ああ、待ち遠しいわ…!!)
隣にはレーデンベルグ。
周りにはカイトやルーカス、シャルルやハンスといった色男に囲まれ、玉座へと腰かける自分の姿を想像する。
『大地の国アズロ』の王妃となった時、全てのものが自分に従いひれ伏すのだ。
その瞬間に思いを馳せ、ジュリアナはうっとりと微笑んだ。
(そうよ。多少例外はあったけど、私の加護を前に跪かない男はいないわ!)
証拠も、罪も、意思も、全てが思いのまま。
まずは邪魔になる者を消してしまおうと、ジュリアナは来たるその日を心待ちにするのだった。




