▽.地の剣と女神の糸
「カイト様!」
『海望の国スキラ』の第四王女ジュリアナが走り出す。
飛び付くように駆け寄ってきたジュリアナをカイトは何て事はなく受け止めた。
カイトの太い腕に抱き留められたジュリアナは、そのままカイトへと腕を絡ませる。
「これは――王女殿下。どうされました?」
第一王子レーデンベルグに呼ばれたカイトは、学院から直接王城を訪れていた。
護衛と話し相手を兼ね、今は扉の前でレーデンベルグが所要を終えるのを待っていた所である。
そこに貴賓として招かれているジュリアナも戻ってきたようだった。
ジュリアナは往来の恋人のように抱き付き、カイトに向け頬を膨らませた。
「どう――だなんてつれないのね。あんな酷い事をしておいて、謝罪の一つもないのかしら?」
「はは……、重ね重ね申し訳ありません。ですが謝罪の場は後日改めて設けさせて頂きたく存じます。手土産もなしに王女殿下への非礼を詫びるわけにはゆきませんので」
「そう?カイト様もお仕事で忙しいのに私のためにごめんなさいね」
腕に纏わりついたままジュリアナは膨らませた頬を元に戻した。
カイトは笑みを浮かべたまま、しかし内心では舌打ちを打つ。
(………学院で何かあったな)
ジュリアナと問題を起こした覚えはない。
それにも関わらず謝罪を要求するという事はメイナードが対処したのだろう。
他者の姿を真似る力を持ったメイナードには、シャルルを助けるためであれば自分の姿を使う事を許している。
早速その機会が訪れたようだが、利益がある内はしっかりと仕事をこなす男だけに心配はないはずだ。
とはいえ報告を聞くまでは気分が浮かない。
シャルルに何かあったのではないかと思うと、カイトは気が気ではなかった。
(ただでさえウィルフレッドが気掛かりだというのに……)
触発されるように手を出したのはたしかだ。
ある意味ではハンスがいなければ、シャルルへの感情の真意に気が付く事もなかっただろう。
だがそれとこれはまったくの別問題だ。
誰にもシャルルを奪われたくない一心で、カイトは色目を使うジュリアナを一瞥する。
傍目には王女に身を寄せられる羨ましい光景と言えるだろう。
しかしカイトにとっては何の得にもならない時間だ。
警戒する相手に抱き着かれたところで嬉しいものはなく、無駄なお喋りに付き合うのも疲労が溜まるだけの事だった。
(だが……)
腕に当たる柔らかな感触にカイトは得も言えぬ気持ちを覚えた。
香水を纏っているのか、ジュリアナからは胸を梳くような甘く爽やかな香りが漂ってくる。
その香りに包まれるだけでジュリアナに対する警戒心が失せていくのだから不思議なものだった。
小鳥のように囀る声も耳によく馴染む。
自分にすり寄る姿が可愛らしいとさえ思え、カイトは自身の感情の変化に違和を感じ取った。
(俺は何を考えているんだ…?)
女に言い寄られた事も、体を擦りつけられた事も一度や二度の話ではない。
そのどれにだって心が動く事はなかったというのに、今まさにジュリアナに揺れ動く自分がいた。
愛らしく微笑む唇に目が留まると、痺れにも似た衝動が湧き上がってくる。
「――カイト様」
妖艶に笑うジュリアナが視界に映り、カイトは頭を振る。
顔を背けたカイトを咎めるようにジュリアナは大きな瞳を潤ませるのだった。
「カイト様は私の事が嫌いなの…?」
「王女殿下……」
「王女殿下なんて嫌。ジュリアナって呼んで?」
ぴっとりと体をつけ、鼻先にかけるように吐息を漏らす。
湿度を含んだ赤い瞳はうるうるとカイトを見上げていた。
縋りつく腕の細さと、押し付けられる胸の温もり。
何よりも一層強くなった香りがカイトの胸が締め付ける。
視線を逸らしきる事が出来なかったカイトは、熱を帯びる赤色を食い入るように見下ろした。
(綺麗だ)
燃えるような赤色に魅入られる。
気が付いた時にはジュリアナの頬へと手を伸ばし、細い顎を持ち上げていた。
艶やかな唇に指を添え――ふと思う。
自分が焦がれる赤はもっと鮮やかで、こんな泥のような鈍い色ではなかったはずだ――と。
「カイト様?」
「………王女殿下。お戯れはおよしください」
頬を支えていた手を下ろし、カイトは揺れ動きそうになる心を意地だけで押さえつける。
一瞬でもジュリアナに見惚れた事が許し難く、それ以上に自分自身に失望した。
(俺の気持ちはこんなものだったのか…?)
シャルルへの背信にも思え、カイトは突き放すようにジュリアナを引き剥がした。
それでもなお絡みつこうとするジュリアナだったが、後ろから降ってきた声によって動きを止める。
「ジュリー?」
カイトが守る扉から大司祭エルデルバルトを伴ったレーデンベルグが現れる。
ジュリアナはカイトの事など忘れたように、二人の元へと駆け寄った。
「レーデンベルグ様!それにエルデルバルト様も!お会いできるなんて光栄だわ」
「スキラの若き月にご挨拶申し上げます。アズロに来られていたのですね」
「ええ。後学のためですもの。お父様に無理を言ってお願いしたの」
取り残されたカイトは頭を下げながらも拳を握りしめた。
ジュリアナへの憤りがどこから来るものなのかが分からず、歯痒さが募っていく。
礼儀知らずな態度への軽蔑ならば良い。
もしこれが妬みからくるものだとしたら――そこまで考えてカイトは顔を曇らせる。
(俺はどうしてしまったんだ……)
今すぐにでもシャルルの声が聞きたい。
風の抜ける野原のような、広大でいて優しい香りに包まれたい。
あの温もりを掴まなければ何かが壊れてしまいそうで、カイトは思わず俯いた。
その肩を叩いたのはレーデンベルグだ。
「忙しい中ご苦労だった、カイト」
「……それが俺の役目ですので。俺もレイアも国のためならばどんな事でもしましょう」
「心強い限りだ。ジュリーは私が部屋まで送り届けるとして……カイトには大司祭殿の見送りをお願いしよう。今日はそのまま上がってくれて構わない」
「仰せのままに」
エルデルバルトと話し込もうとするジュリアナの手をとり、レーデンベルグは居城の方へと歩いていく。
仲睦まじそうな二人の背中をカイトはやはり複雑な気持ちで見送った。
(いつの間に愛称で呼ぶようになったんだ?)
カイトが知る限りレーデンベルグは真面目な人物だ。
政略結婚とはいえ、未来の妻となるレイアとの関係も何の問題もない良好なものだっただろう。
だからこそ出会って一ヵ月かそこらの相手を愛称で呼んでいるという事は奇妙なものだった。
ジュリアナが王族だとは言っても、レーデンベルグ自身も王族である以上、呼び名を強要するような事は出来ない。
すなわちレーデンベルグが自分の意思でジュリーと呼んでいるという事だ。
婚約者であるレイアを差し置いて、ジュリアナに触れる事を許しているというのもおかしな話である。
(シャルルも危惧していたが、本当に王妃の座を奪うつもりか?)
国益や交易を考えるとレイアとの婚姻を破談にしてでも、ジュリアナを迎え入れる可能性はあるだろう。
しかしながらそれは、実の姉のように慕ってきたレイアを思うと避けたい結末だ。
カイトは容易に手出しを出来ない相手に頭を悩ませる。
(殿下は完全に王女に気を許している。かくいう俺もこのままでは……。加護にせよ何にせよ、王女がどうやって人心を集めているかさえ分かれば――)
確実に裏があるのに掴めない。
警戒しているはずなのに気持ちが揺らぐ。
もどかしさのあまり、カイトはエルデルバルトの御前にも関わらず歯を食いしばった。
「何かお悩みが?」
「……っ……!?いえ、何も。ご案内致します」
「そうですか。ではお願い致します、デルホーク様」
柔らかく微笑むエルデルバルトに、カイトは少し気後れした気分になる。
(民衆が神殿に縋り付きたくなるのもよく分かる)
大司祭という肩書きがそうさせるのだろう。
海を宿した瞳に見つめられると、全てを吐露したい衝動に駆られかけた。
けれどそんなみっともない真似は出来ない。
まして王族を疑っているなどと告げるわけにもいかず、カイトは思考を振り切るように歩き出した。
無言のまま通路を歩き、城の外へとエルデルバルトを案内する。
しかし城門の近くに馬車はない。
神殿を象徴する純白の馬車と馬は見当たらず、司祭の姿さえどこにも見つけられなかった。
「馬車はどちらに?」
「このまま王都の教会に向かう予定ですので、先に戻ってもらいました」
返ってきた答えにカイトは耳を疑う。
「まさか…、お一人で王都に向かうつもりですか?」
「そのつもりですが、どうかしましたか?」
にこにこと笑うエルデルバルトにカイトは頭が痛くなった。
王都の教会までは徒歩十数分の距離とはいえ、大司祭ともあろう人が護衛の一人も付けずに出歩いて良い理由にはならない。
あまりの危機感のなさに表情が曇りそうになる。
「……お供致します」
「おや、デルホーク様はお優しいのですね」
馬車を呼ぼうとするカイトを制してエルデルバルトは舗装された道を歩いていく。
カイトは感情を噛み殺し、呑気な後ろ姿を追いかけていった。
茜色に染まる空には濃紺が見え、間もなく夜といったところだろうか。
刻々と暗くなっていく道を一人で行こうとしていたエルデルバルトには呆れるばかりだった。
(王城で煙たがられる理由がこれか)
民衆からの支持とは一転、エルデルバルトの評判はその実あまり良くはない。
特に王族や有数の貴族からは軽んじて見られており、カイトはその原因の一端を実感する。
余計な仕事が増えたと嘆息するカイトに、エルデルバルトはゆるりと微笑んだ。
「時にデルホーク様。こうしてお会いするのは1年ぶりでしょうか」
「そうなりますね。シャルル――ミオン伯爵家の判決の際にも御尊顔は拝見しておりますが、直にお話しするのは『知啓の祝福』以来となります」
「ああ、あの時の。いらしていたんですね。ミオン様とは仲が宜しいのですか?」
「………悪くない、とは思います」
エルデルバルトに尋ねられカイトは言葉を詰まらせる。
大司祭を相手に堂々と好意を寄せていると告げる事は当然、シャルルは自分の物だと見栄を張るなんて事は出来はしない。
自分が一方的に慕っているだけという現実を突きつけられた気がして、曖昧に濁すしかなかった。
気落ちするカイトを知ってか知らずか、エルデルバルトは噛み砕くように頷くばかりだ。
「では…デルホーク様から見て、ジュリアナ王女はどのような方なのでしょう?」
「王女殿下に興味がおありですか?」
落ち込んだ気分もあり、突如として降ってきたジュリアナの話題に皮肉めいた返事をしてしまう。
大司祭でさえジュリアナに気があるのかと思ったら、棘のある言い方になっていた。
その棘を物ともせず、エルデルバルトは穏やかに口を開く。
「立場は違えど私も人の上に立つ身――国を背負う方々の人となりを知る事もまた大切な事でしょう。それは継承権や性別によって区別される事ではありません」
「……失礼な事をお尋ねして申し訳ありませんでした」
「謝られる事はありません。私とてデルホーク様が憂慮せんとする事は理解しているつもりです。それも含め、ジュリアナ王女の事をお聞きしたいと思ったのです」
大司祭らしい聖人君子な回答に、カイトは感情的になってしまった事を恥じる。
心が乱されてばかりだと、ひっそりと息を吐き出した。
(これではレイアに馬鹿にされてしまうな)
所詮は自分を律したつもりになっているだけだ。
些細な事に一喜一憂する程度には未熟である事を再確認し、レンガの並べられた足元に視線をやった。
雑草の一本すら生えていない綺麗に整備された道である。
その片隅――誰も目に止めないような場所に緑色の芽が伸びている事に気が付いた。
花もつけないただの青草だ。
何となしにその青を見つめていると、エルデルバルトが雑草の前にしゃがみ込む。
路傍の草さえ慈しむのかと思いきや、見守るカイトの前で情け容赦なく草をむしり取った。
「ただの草といえ、いずれは人々の苦労を蝕みこの道を壊してしまいます。慈しむ事と野放しにする事はまた別の話。悪しき芽は早くに摘むべきでしょう」
淡々と告げられた言葉――そして摘まれた雑草にジュリアナが重なった。
「過ちを正すのが私の務めです。公平な目を持ち、時に王族でさえ罪に問い裁く事が神殿のあるべき姿と言えるでしょう。愚かしきは偽り騙る事であり、黙秘する事ではありません。如何な事であれ、尊き女神の御心のままに耳を傾けましょう」
見開かれた深緑に映るのは真剣な面持ちだ。
穏やかながらも真摯な眼差しに、カイトは思わず息を呑んだ。
そして悟る。
(俺が見限るようなら、大司祭もまた俺を見限ったという事か)
かつてなら大司祭とはいえ、ここまで気に掛ける事はなかった。
シャルルが海の加護を持ち、聖人とまで囁かれるようになったからこそ、大司祭や神殿に前以上の興味を抱くようになったのである。
それがなければ試されているとも知らず、城門で放り投げていた事だろう。
(俺はまたシャルルに助けられたのかもしれないな)
面白いくらいに費やしたものが返ってくるものだと、カイトは人知れず笑みを溢す。
そしてエルデルバルトに向き合った。
「最初からこのつもりだったのですね?」
「さて、何の事でしょう。私はただあぜ道を行くのが好きなだけです。拾うべきものは案外とそういった場所に落ちているものですから。ですが、そうですね」
むしり取った草を握りしめ――
「デルホーク様を信頼してお願いがございます」
エルデルバルトが微笑んだ。
何を語るべきかを悩み続けたカイトも、ようやく一つの答えに辿り着いたのだった。




