82.子猫伯爵と秘め事
進級から一月――。
オレは遂にハンスたちを撒く術を身に付けた。
チート能力も何もないオレだが、前世のオレは都会の人込みを切り抜けて育ってきたのである。
どんな人込みでもぶつからずにするすると歩いていく技巧を用いれば、ハンスたちの包囲網を抜ける事もけして難しい事ではなかった。
そんなわけでオレは廊下を歩く生徒たちの中を糸も容易く突っ切り、見事ハンスを置いてけぼりにする事に成功したのである。
(ははは!日本人甘く見んなよ!)
自由を手に入れたオレはそのまま全速力で学院を走っていく。
廊下を抜け階段を上ったり下りたりし、無駄に駆け回ってから一息をついた。
(ふぅ……。遂にやってやったぜ!)
正直に言って目的という目的はない。
強いて言えばハンスたちを撒く事こそが目的で、自由な放課後の時間を手に入れたというだけでオレは大満足だった。
今頃ハンスはオレを探し学院中を走り回っている事だろう。
ちょっぴり可哀そうだが、今日までのオレの苦悩を思えば少しくらい走ってこいという感じである。
(これやんのはトイレ行く時くらいにしとこ)
とはいえオレも追いかけっこがしたいわけではない。
あまり困らせて機嫌を損ねるのも良くないだろうと、吹き抜け状になった校舎を見下ろしてみる。
じっと目を凝らすがハンスらしき姿はない。
恐らく東か西か違う棟に行ってしまったのだろう。
「んー…まあいっか」
一人で待つのも退屈ではあるが、わざわざ探しに行くのも億劫だ。
見晴らしの良いここでハンスを待つ事にする。
吹き抜けがあるのはオレが今いる中央棟だけで、オレはその最上階から一番下までを見つめてみた。
1階でも2階でも、ハンスが通りさえすれば簡単に発見出来るだろう。
手すりに体重を預け、廊下を行き交う人々の中にハンスの姿を探し続けた。
そんなオレに人影が迫る。
「――ミオン様、宜しいですかな」
振り返った先にいたのはグレイトフル・フォン・ケンネル教授。
1年生の頃から変わらず神学を教えてくれる壮齢の教師だ。
一度も切っていないのか、たっぷりと蓄えられた髭は昨年よりもずっと大きく見えた。
色の抜けた髭を撫でつけながら、ケンネル教授がゆっくりと近づいてくる。
「どうかしましたか?」
「授業の事で少々お話が。立ち話も難ですし、着いて来て頂けますか?」
貴族であるオレが相手だけあって、ケンネル教授は優しく微笑んだ。
権威主義の彼は、今年もきっと新入生を相手に庶民いびりをしていたのだろう。
何となく腑に落ちないものを感じながらも、オレは呼ばれるまま教授の後をついて行く。
年齢の割にはしっかりとした足取りの背中を追いかけ、あるサロンの前で立ち止まった。
(シークレットルームだっけ……?)
オレは小さく身を震わせる。
サロンが立ち並ぶのは学院生活の基盤となる中央棟から見て北西の位置だ。
小から中規模の部屋が1階、大規模な部屋が2階、侯爵家などの上流貴族向けのワンランク質の高い部屋が3階と区分けされており、それとは別に円形の小ホールがいくつか用意されている。
大廊下を通ったさらに奥にあるのが年度末のパーティーで使われた会場で、入学式などの大掛かりな行事は主だって大ホールで行われるのだった。
そのサロンの中にも用途や曰くというものがあり、使われる部屋は限られてくる。
一般に貸し出しされているサロンは表に面した位置にあるのだが、その裏側にもいくつかの部屋が用意されているのだった。
シークレットルームの俗語で呼ばれるそこは、学生のオレが口に出すには憚られる目的で使われている。
(…………教授に限ってそんなわけ……)
オレとてシークレットルームが何か分からないほど子供ではない。
要するに――逢瀬の場所だ。
勉学に励む学院で盛るなとは思うが、最初から用意されている方が安心という事もあるのだろう。
どうしても前世の感覚でそういった物事を遠いものに感じてしまうだけで、この世界で生きる彼らにとっては10歳を越えれば身近なものになってしまうのだ。
だからといって今の状況に納得が出来るわけではない。
教師と二人きり、こんな場所に連れてこられて冷静になれという方が無理な話である。
オレはいつでもスタートダッシュを決められるよう、一歩離れてケンネル教授の様子を伺った。
「サロンに用事が…?」
「ちょっとした個別面談のようなものです。さあ、お入りください」
思えばケンネル教授に授業外で話しかけられるのは初めてだ。
教師直々にサロンに通されるのも、トラスティーナ教授に昼食をご馳走になった時以来のものだった。
教師と言うよりハンスの師匠に厄介になったという印象だが、あの時とはまるで違う状況に気が張っていく。
(グループワークの事…だよな。そうであってくれ……)
ケンネル教授に呼ばれるとすれば神学の授業で行われるグループワーク絡みだろう。
仮にもオレが代表である以上、何かあった時に呼ばれるのはオレに違いなかった。
頼むから変な気だけは起こさないでくれと、開け放たれた扉の中を覗き込む。
「ようこそ、ミオン様」
待っていたのはジュリアナだった。
オレが危惧した事よりはマシだが、どのみちロクな目に遭うとは思えない。
オレは考えるより早く回れ右をした。
「んぶっ!?」
しかしケンネル教授にぶつかるに終わり、呆気なくサロンの中へと引きずり込まれてしまう。
オレの両脇を掴んだ彼らはジュリアナの親衛隊なのだろう。
ハンスには劣るが皆、体格も良く整った顔立ちの面々である。
そんな小説で知るジュリアナ好みの屈強な美男子たちが、オレをソファの上へと放り投げたのだった。
「み゛ゃっ!!」
三人掛けのソファの中央に座らされ、逃がさないと言わんばかりに両隣を固められる。
左隣は覚えのない顔だが、右隣に座るのは級友のディラン・フェリックスだ。
グループワークでサマルと同じ班になった貴族派の伯爵令息で、度々男爵令息のディラン・ロウに嫌味を放ついけ好かない男である。
彼もまたジュリアナの虜になってしまったのか、オレたちの正面に腰かけるジュリアナをうっとりとした表情で見つめていた。
(………は、嵌められた)
事態を理解すると同時、あまりの居心地の悪さにげんなりする。
逃げられないと悟ったオレはしおしおと身を縮こまらせた。
「王女様を前に挨拶もなしとは…、相変わらず礼儀がなってないようだな、ミオン?」
黙りこくったオレを見て、ジュリアナの横に立っていたサマルがねっとりと口角を持ち上げる。
家柄から見る序列は一番なのだろうが、見目麗しいハンサムたちに囲まれるサマルの姿は場違いにしか見えなかった。
当の本人はそこに気が付いているのかいないのか。
よほどこの状況が楽しいらしく、にたにたと勝ち誇ったようにオレを見下すだけだった。
「良いのよサマル。いきなり呼んだのはこちらだもの。そのくらい許してあげなければ可哀そうだわ」
「王女様はお優しいですね。ミオン、お前も感謝すると良い」
サマルを制し、クスクスと笑ったジュリアナがオレを見つめる。
相変わらずムカつくサマルもだが、オレの中でのジュリアナの評価は下がる一方だ。
(オレに構わず仲良くやってろよ…!つーか教授もグルか!!手が早いんだよ!!)
学士として名を馳せるケンネル教授があっさりとジュリアナの軍門に落ちた事に驚きを隠せない。
呆気なく嵌められたオレもオレだが、教師が簡単に個人に肩入れするなと叫んでやりたかった。
一月かそこらで、これだけの人間を配下にするのだから末恐ろしいものである。
実は良い人でした――なんて『ラブデス』にはない展開を期待したりもしたが、その期待は目の前で壊されてしまったのだった。
(そうだよなぁ…。良い人なわけないよなぁ……)
ここまでのものを見せつけられて、まだジュリアナは良い人かもしれないと信じる事はオレには無理だ。
授業で顔を合わせる分には王女らしい少し我儘な女の子という可能性も捨てきれなかったが、もう無理である。
オレは『ラブデス』そのままのジュリアナとの対面に、身を固くするのだった。
(周りから落とそうってつもりか?)
『ラブデス』でのハンスとジュリアナの関係は、絶望するハンスにジュリアナが救いの手を差し伸べるところから始まる。
しかし今のハンスは落ちぶれるどころか、ジュリアナの事など眼中にすらない。
まずはハンスと仲の良いオレから懐柔しようという作戦なのだろう。
(オレの方が弱そうに見えるもんなぁ……)
心身共に鍛えているハンスに比べればオレはもやしも同然だ。
オレがジュリアナの立場だったとしても、シャルルを先に狙うだろう。
嫌な納得をしながら、ごくりと唾を呑む。
いくらかの覚悟を決めてから、ひどく緊張した面持ちでジュリアナを見つめ返した。
「………オレに何の用が?」
「ぜひ一度お話してみたかったの。無礼な招き方をしてしまってごめんなさいね」
「いえ、お構いなく」
無害を装っているが、男たちを手懐ける様を見せつけられて警戒を解く事は出来ない。
手持無沙汰なのもあるが、少しでも気を紛らわせようと視線だけでサロンの中をぐるりと見回してみた。
逢瀬のために使われるなんて曰くこそあれど、ジュリアナに合わせた高級品を取り揃えている以外には他のサロンと代わり映えする点はない。
だがジュリアナにはカイトと同じ王族御用達の部屋が与えられているはずである。
公女であるレディ・ゴールドが3階、カイトが2階のサロンを使用してはいるが、空いていた1階の部屋は王女へと貸し出されたのではなかっただろうか。
(……そういう目的で使ってるって事だよなぁ………)
それをあえて曰くのあるシークレットルームに呼んだという事はつまり――。
オレは嫌な考えを振り払うように、絶えず焚かれる香に目を留めた。
室内を満たすべっとりと甘い香りが鼻につき、ジュリアナの加護が原作通りだろうと確信する。
(…………やっぱコレか)
ジュリアナの加護は一言で言えばフェロモンだ。
表向きにはリラックス効果のある香りを放てるとしているが、それは真っ赤な嘘である。
本当の効能は、異性を魅了する香りで相手を虜にするというものだった。
本人の言葉巧みな手腕もあるだろうが、作中のハンスもこのフェロモンによって一種の洗脳状態にあったそうだ。
今ここにいる彼らも、既にジュリアナの餌食となったのだろう。
加えてこの甘ったるい香りは、フェロモンを隠すための目くらましなのだそうだ。
骨抜きにするまでに時間が掛かるのもそうだが、勘の良い人間はフェロモンに気が付いてしまうらしい。
かくいうオレも前知識のおかげか、香から発せられる匂いに混じって柑橘を思わせる香りが漂ってきた事を感じ取った。
(ん…!少しでも息止めないと…!)
『ラブデス』を通しジュリアナの手口は知っているが、耐えられるかどうかはまったくの別問題だ。
心を強く持てばある程度は凌げると言われても、オレの精神力が高いとは思えない。
甘く漂う香りに呼吸を薄くしようとし――くしゃみが出た。
「へっくし!!!!」
艶やかな空気に水を差すように盛大にくしゃみをぶちまける。
「くちゅん!!くし!!んぅ……へくちっ!!」
漂ってきたフェロモンのせいなのだろうか。
どれだけくしゃみをしても止まらない。
アレルギー反応のようにくしゃみが出続け、脇腹が痛くなりそうだった。
それでも鼻のむずむずは治まらず、オレは体を跳ねさせながらくしゃみを連発した。
「ミ、ミオン様は強い匂いは苦手なのかしら…?」
「ずびばせ……くちっ!」
尋常ではないオレの様子にジュリアナも唖然としたようだった。
親衛隊も困惑するばかりでオレを非難しようという者はいない。
サマルでさえ言葉を失くし、信じられないという顔でオレを見下ろしていた。
しかし止まらないものはしかたがない。
オレは袖で顔を押さえながらも、鼻を鳴らし続けた。
(スギ花粉でも出してんのかよ)
これではフェロモンでの魅了ではなく花粉攻撃だ。
前世で散々悩まされた花粉症の症状にそっくりだと思いながら、胸ポケットに忍ばせていたハンカチで鼻をすする。
(あ!でもフェロモンは効いてなさそう!)
幸か不幸か、くしゃみは酷いもののジュリアナに対する感情に変化はない。
ジュリアナが可愛く見えてくる―顔だけは可愛いと思うが―なんて事もなく、花粉攻撃を仕掛けてくる天敵という評価すら下せそうだ。
「――これが悪さをしているのかしら。今止めますね」
困った様子のジュリアナがサマルに香を焚くのを辞めるよう指示を出す。
香が消えるのと同時、フェロモンを出すのを止めたのだろう。
オレを不憫に思ったのか、意味がないと諦めたのかはさておき、次第にオレの周りを覆っていた匂いが薄まり、少しだけ鼻が楽になってきた。
「少しは具合が良くなったようでほっとしたわ。すぐに気が付かなくてごめんなさいね」
「い゛え゛、だい゛じょうぶです……」
気の利く人間を演じているのだろうが、オレの中ではもう花粉王女というレッテルを貼り付け済みだ。
それでなくても『ラブデス』のおかげで腐った性根を知っているのだ。
少しばかり配慮が出来たところで心が揺り動かされる事はない。
(つーか、今なら帰してくれんじゃねーか?)
気を抜けば垂れてしまいそうな鼻を抑え、チラチラとジュリアナの顔色を伺ってみる。
ジュリアナだってフェロモンが効かない相手に用はないはずだ。
まずは打診してみようと、底の見えない赤色に目をやった。
「あの――」
口を開こうという矢先、外から揉め合うような声が聞こえてくる。
「――そこをどけ」
「しかしながら今は王女殿下が――」
何かと思った時には、ケンネル教授を押しのけてカイトがサロンの中へと入ってきたのだった。
「カイト!?」
「お楽しみ中のところ申し訳ありません。シャルルは連れて行きます」
形だけの挨拶と共にカイトが押し入ってくる。
いくら王女という後ろ盾を背負っていても、カイトが相手では強く出られないのだろう。
誰にでも食ってかかるサマルでさえ、口より先に狼狽えを見せていた。
カイトはというとサロンの中を見回し、全員の顔を確認しているようだ。
最後にオレとジュリアナを見つめ、オレを捕らえるように座るディランを睨みつけた。
「退け」
「は、はい…!すぐに…!」
洗脳が浅いのか、それだけカイトが恐ろしいのか。
カイトにねめつけられたディランは、ジュリアナの意思を聞く事なく脇へと移動した。
「いくらカイト様でも無礼ではなくて?」
「急ぎの用がありますので失礼を承知で参りました。謝罪はまた後程――行くぞ」
「う、うん」
口を挟むジュリアナを一瞥し、カイトはオレの腕を掴んで立ち上がらせる。
深緑の瞳は冷たく、オレを掴む手もひどく乱暴だった。
オレを見るカイトの目はこんなだったかと疑問を感じながらもサロンを後にする。
最後に見えたのはジュリアナの顔だ。
ジュリアナもサマルもぐっと言葉を堪えているようだったが、その顔に浮かぶのは屈辱だった。
(……似た者同士仲良くやれっての)
こっちまで巻き込まないで欲しいと切に思う。
人としての真価を疑うケンネル教授を置き去りに、オレたちは足早にジュリアナに別れを告げるのだった。




