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子猫伯爵の気のままに  作者: yura.
1部-2章.シャルル・ミオンの学院生活②
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▼.ハンス・ウィルフレッド

泥沼に沈んでしまいそうな気持ちとは裏腹に空は澄み切ったままだ。

冷たい空気が星を一層引き立て、篝火(かがりび)に照らされる二人を静かに見下ろしている。

パチパチと火の粉を散らし続ける炎がなければ、暗い影を差すハンスと、それを物憂げに見つめるアイリスの姿はとうに闇に呑まれていた事だろう。

「――――あいつを殴った事は今も後悔していない」

求められるままに過去を語り、一区切りを着いたハンスはそっと息を吐く。

バロッド侯爵家の次男サマル・バロッド。

思い出すだけでも憎らしい顔に、常だって下劣極(げれつきわ)まりない言動。

そんなサマルの心無い悪行(あくぎょう)に我慢の限界を迎えたあの日、ハンスはその場にいた全員を手あたり次第に叩きのめしていった。

あの時の事は今でもハッキリと覚えている。

ハンスにとって彼らは口先ばかりで何の張り合いもない連中でしかない。

殴られる覚悟すらない(くせ)に、一丁前に命を(おびや)かすろくでなし共に反吐(へど)が出そうだった。

ただ一つ、最後の記憶だけは忘れてしまいたかった。

(………何故、俺をそんな目で見るんだ)

ミオン伯爵家の末息子シャルル・ミオン。

多くを望んだわけではない。

ただ仲良くなりたかっただけだった。

けれどその思いは呆気なく壊され、シャルルは最後の最後までハンスを見る事はなかった。

ようやく目が合ったのがあの日の事だ。

月のように光る金の瞳が軽蔑と恐怖で歪んだ(さま)が、今なおハンスの頭にこびり付いている。

シャルルの瞳の中に映った自分の姿は酷く(いびつ)で、思い返す度に息が詰まりそうになった。

唯一の後悔なのだろうか。

シャルルに拳を振るった感覚が生々しく蘇り、ハンスは思わず拳を握りしめた。

「……俺が怖いんだろう?」

「そんなこと…!ハンスさんじゃなくたって、怒って当然です」

「そうは言っても怖い事に変わりはないはずだ。勝手に期待しているようだが、俺は良い人間じゃない」

顔を曇らせるアイリスに嘲笑(ちょうしょう)を溢す。

ぎゅっと膝を抱える手を見れば、怯えているだろう事はすぐに分かった。

それでも真摯(しんし)な態度を崩さないアイリスに、ハンスは自分の身に起きた事を話していく。

サマルとの一件も酷かったが、その後の事はもっと悲惨だった――


「ハンス、お前には失望した」

扉の前に立った父親カーターがハンスを突き飛ばす。

神殿での留置を終え、数日ぶりに家に戻ったハンスに叩きつけられたのは冷え切った言葉だった。

おろおろと見守る母親エリンを無視し、カーターは古びた鍵を投げつける。

勝手に部屋に入ったのだろう。

鍵と一緒に地面に投げ捨てられたのは最低限のハンスの私物だった。

服や勉強道具が地面に散らばり、ハンスの目の前で土埃が巻き上がる。

「学院を出るまではここに置いてやるが家に入る事は許さん。離れの倉庫で生活しろ」

「待ってください…!俺は……!」

「言い訳など聞きたくない!!お前はあと少しの所で商会を潰すところだったんだぞ!!運良く見逃してもらえただけだというのが分からないのか!!」

カーターが体面も何もなく叫び散らす。

初めて大声を上げた父の姿にハンスはびくりと肩を震わせるしかなかった。

言いかけていた口を(つぐ)み、揺れる瞳をカーターへと向ける。

怒りと憎しみに濡れた目がかち合い、ハンスはひゅっと息を呑んだ。

「商会が潰れるだけならまだ良い。お前は……家族を殺そうとしたんだ。それも分からぬ奴を家に入れるわけにはいかない」

カーターの言葉が重く圧し掛かる。

ここまで叩きつけられてようやく、ハンスは自分の行いがいかに愚かだったかに気が付いた。

有数の貴族である彼らにとって小さな商会を潰す事は本当に造作もない事だろう。

そして、命を軽んじる彼らは人を殺す事にだって躊躇(ためら)いを持つわけがない。

(俺は…何て事をしてしまったんだ……)

自分の行いが家族を巻き込む事になるとは思いも寄らず、ハンスは打ちひしがれる。

愕然(がくぜん)と膝をつくハンスに、カーターはなおも厳しく言い放った。

「お前はもう私の息子じゃない。二度とウィルフレッドを名乗るな」

「あなた…!何もそこまで……!」

「黙れ!!もう決めた事だ!!お前もあれに構うんじゃない!!」

泣きつくエリンを引きずってカーターは家の中へと入っていく。

バタンと乱暴に扉が閉じられ、ハンスは一人その場に座り尽くした。

「俺だけが……悪いのか?」

ずっと我慢してきた。

殴られようと、蹴られようと耐えてきた。

どれだけの侮辱を浴びせられようとも一人で必死に(こら)えてきた。

じっと耐えていれば数年などすぐに過ぎ去ると思っていた。

サマルたちにやり返したのは、彼らが命を軽んじたからだ。

許してはいけない一線を越えたからに他ならない。

それなのに――待っていたのはこの仕打ちだ。

頭では自らの軽率さを理解していても、自分一人だけが責められる現実に納得がいかないのもまた事実。

ハンスは怒りと悔しさのあまり今の今まで吞み込んできた涙を(こぼ)す。

相反する感情がぐちゃぐちゃになって、怒りの矛先をどこに向ければ良いのかさえ分からない。

ボロボロと零れ落ちていく涙をそのままに、ハンスは覚束(おぼつか)ない手つきで荷物をかき集めた。

声を押し殺し、長らく使われていない倉庫へと身を寄せる。

泥と埃にまみれたゴミ溜めのような場所だった。

(父さんにとって俺はゴミという事か)

勘当(かんどう)されたという事は捨てられてしまったという事だ。

頼るものも、帰る場所も失ったハンスは、これまでずっと(こら)えていた嗚咽を漏らす。

暗く狭い物置の中で、涙が尽きるまで泣き続けた。

(…………学院、行かないと……いけないよな)

隙間から差し込む光にガサガサに乾いた目を細める。

からっぽになりかけた心を何とか奮い立たせ、ハンスは立ち上がった。

こんな時にまで義務感だけは捨てきれず、まだ暗い内からよろよろと学院へと向かっていく。

これまでは行商に出る馬車に一緒に乗せてもらえていたが、もう家に頼る事は出来ない。

()き込み、()き交う人に道を尋ねながらも、数時間を掛けて学院へと走っていった。

学院に着いた時にはもう授業が始まっていていたが、ハンスの事を気に掛ける者は一人もいない。

(そうだ、寮があるじゃないか)

授業が終わり、ハンスは天文学を教える主任へと声をかける。

ひどく偏屈で人嫌いな主任スターチス・フォン・トールポッドを探すのにはそれなりの時間を要したが、背に腹は代えられない。

名前の通り紫色の髪をした主任は女性には珍しいお洒落にも化粧にも無縁な顔をハンスへと向けた。

「寮は難しいんじゃないですかね」

「生徒なら誰にでも利用できるのではないのですか?」

「君は所謂(いわゆる)問題児(ブラック・リスト)ですから。この時期での申請ってだけでも大変でしょうし、他の生徒が嫌がると思うので期待は持てませんよ」

まだ若いにも関わらず幸薄そうな顔のスターチスが嘲笑するように言い捨てる。

ただでさえ生徒と関わりたがらない人だ。

主任とはいえ当てになりそうにないスターチスに、ハンスは早々に(きびす)を返すのだった。

「………申請だけはしてみます」

しかし結果は主任の言う通りだった。

家族の承認を得る事が出来ないハンスには、申請するどころの話ではなかったのである。

勘当(かんどう)されたとはいえハンスの立場はウィルフレッド家の息子。

家族の承認は絶対で、代理となるような大人もいない以上、寮での生活は諦めざるを得なかった。

それからの数か月は毎日のように遅刻し疲労に呑まれる日々だった。

授業にもついて行けず、試験の結果も目に見えて下がるばかり。

カイトたちからのやっかみも消えず、加護術(かごじゅつ)の授業では無様に転がされ続けた。

「体だけ鍛えて神力(しんりょく)加護(アーク)もからきしのようだな。才能があってもそれじゃ何の意味もない」

「…………っ…」

「吠える気力もなくしたか。それとも少しは立場を覚えたか?まあ、そんなの今更だがな」

拳を振るうだけが十八番(おはこ)のハンスだ。

神力に反応する魔具(まぐ)を使っての実践ではカイトに手も足も出なかったのである。

肉体、体術、剣技、加護(アーク)――そのどれをとっても優秀なカイトの力は目に見えて高く、真っ当な試合において一本取る事は至難の(わざ)に等しかった。

心身共に擦り切れているハンスにとって、カイトの相手をする事は消耗するだけの嫌な出来事だ。

だが来る日も来る日もカイトは魔の手を緩めようとはしなかった。

考えずともあの一件が原因だろう。

あれ以来、傍観(ぼうかん)を決め込んでいたカイトが明確な敵意を見せるようになったのである。

その隣に猫を思わせる少年はいない。

自主退学を決めたようで、ハンスが学院に戻った時にはもうシャルルの姿はなかった。

他にもアルベル・ロックウェル、ジェラルド・オストリッチ、ソフィア・スカーレットら貴族派の数名が退学していったらしい。

いっそ済々(せいせい)すると、ハンスは人数の減った教室で一人寂しく課題へと取り組んでいく。

遅刻の数に比例して追加の試験や居残りが増え、遅くまで学院で過ごすのも日常茶飯事だ。

そうして誰とも分かり合えぬまま、ハンスは学院での1年を終えたのだった。

皆が進級のパーティーを楽しんでいる間も、早々に会場を抜け出し書庫の本を読みふけった。

誰もいない書庫は静かで心地が良い。

授業の遅れを少しでも取り戻すためにも、ハンスは心を無にして小難しい文字を追っていく。

そんなハンスに転機が訪れたのは進級してすぐの事だった。

ひたすら肉体作りに励んだ一ヵ月の休暇の末、ハンスの前には可憐な乙女が現れた。

彼女は『海望の国スキラ』の第四王女ジュリアナ・ラ・スキラ。

甘い香りが鼻をくすぐるだけで、気分がぼんやりとしてくる不思議な人だった。

「あなた一人なの?」

「………それが何か」

「こんなに素敵なのに勿体ない!誰もいらないなら私があなたを拾ってあげるわ!」

目を細めて笑う少女の意図(いと)がまるで理解できなかった。

けれど自分を肯定してくれる言葉に、凍りついたハンスの心が溶かされていく。

唯一自分を認め許してくれるジュリアナに、ハンスはすぐさま心を許したのだった。

「帰る場所がないの?だったら私と一緒に帰りましょう」

ジュリアナは何でも与えてくれた。

温かな住まいも、綺麗な服も、勉学や鍛錬に必要なものも、望む言葉も全てが手に入った。

ジュリアナに従えば何もかもが上手くいった。

一日として止む事のなかった侮蔑(ぶべつ)がぱたりと止み、カイトでさえ遠巻きに見てくるだけになった。

(この人に報いよう。この人のためになら何でもしよう)

ハンスは心の底からジュリアナに感謝した。

ジュリアナのためなら何でも出来ると、彼女の言葉を鵜呑(うの)みにしていった。

待ち望んでいた平穏にずぶずぶと沈んでいく。

ただ一つ、従えなかったのは夜の誘いだ。

「まだダメなの?」

「申し訳ありません。ですが俺のような者が姫様に触れるなど恐れ多くて……」

「ふーん?まあ良いわ。もう少しだけ待ってあげる」

全て捧げると思ってなお、ハンスは敬愛のあまりジュリアナに触れる事は出来なかった。

それでもジュリアナから与えられる愛撫は受け入れ、体の至るところに所有の印をつけていく。

時間が経てば消えてしまうとはいえ、赤く咲いた痕すら愛おしい。

ジュリアナに出会ってからの2年間は本当に幸福なものだった。

街の人に(うと)まれ、教師にも親にも見放された苦難さえも遠い過去になっていく。

しかし卒業を前に穏やかな日々は終わりを告げた。

「ねえ、ハンス。私の騎士になりたいんでしょ?」

「お許しいただけるなら是非」

「うふふ、じゃああなたに試練を与えるわ。その試練をこなす事が出来たら私の騎士として、こんな場所から連れ出してあげる」

たおやかに微笑んでジュリアナが手を差し出す。

ハンスはその手をとって指先に口づけを落とした。

「レディ・ゴールドだったかしら?レーデンベルグ王子の婚約者を気取るあの女を消して欲しいの」

「消す……?」

「そうよ。人一人殺すくらいあなたになら簡単でしょう?」

「俺に……人を殺せと言うのですか?」

「何を狼狽(うろた)えてるの?大丈夫よ、あなたになら出来るわ。私への愛を示して頂戴?」

唇を吊り上げてジュリアナは喉の奥からクツリと笑う。

愛らしいと思っていた笑みがひどく気味の悪いものに思え、ハンスは目を見開いた。

(何だ…?俺は一体……)

何度目を(またた)いてもジュリアナの顔は歪んだままだ。

その刹那――走馬灯のようにジュリアナと過ごした日々が頭を(よぎ)っていく。

満ち足りていたはずの思い出なのに、そのどれもが醜悪(しゅうあく)なものに思えてならなかった。

(そんなはず……)

記憶の中の自分はジュリアナに従う事だけを考え、他人を傷つける事すら(いと)わなかった。

あまつさえその愚行を誇らしいとさえ思っていた。

それは自分が目指していた姿ではない。

忌み嫌っていたはずのカイトやサマルたちと変わらぬ悪行(あくぎょう)に息が詰まりそうになる。

(俺は何をしていたんだ…?こんな事をして満たされていたのか…?)

頭の中でジュリアナが笑う。

その顔はいつだって不気味に歪み他人を見下していた。

今目の前で微笑むジュリアナもまったく同じ顔をしている事に気づき、ハンスは驚愕する。

そんなハンスの前に突き出されたのは一振りの(つるぎ)

反射的に受け取った剣にはアズロを象徴する三角の文様が刻まれていた。

「これは……?」

「アズロの王国騎士に配られるものと同じ剣よ。あの女を仕留める時にはこれを使いなさい」

「…………俺は……」

「お願いハンス。あなたにしか頼めない事なの」

瞳を潤ませたジュリアナがハンスへとぴたりと身を寄せた。

精悍(せいかん)な顔を両手で包み込んだかと思うと唇を近づける。

その唇が触れる――その間際にハンスは震える手でジュリアナを引き剥がした。

「ハンス?」

「あ……、それはまだ……受け取れません」

苦し紛れに呟くと、ジュリアナはにんまりと微笑んだ。

「そうね。楽しみは後に取っておきましょう。私のために良い結果を持ってきてね」

優しく頬をなぞり、言うべき事を伝えたジュリアナは去っていった。

手にかかるずしりとした剣の重みにハンスは息を震わせる。

それはガラガラと何かが崩れていく瞬間だった。

(………そうか)

ハンスはその場へとくず折れる。

信じてきたジュリアナの姿は偽りだったのだと、人の命を(かざ)されてようやく気が付いた。

しかし不思議とその事実はしっくりと胸に落ちてくる。

(そう、だよな。俺なんかが愛されているわけがない。俺はずっと…利用されていたのか)

勘当された時とは違い涙は零れなかった。

ただ乾いた笑みだけを(こぼ)し、ハンスはのそのそと立ち上がる。

(汚い)

ジュリアナに与えられた部屋にいる事が耐えられない。

べたべたと触られた体も、ジュリアナの好みに合わせた服も身の毛がよだつほど(おぞ)ましい。

キスされそうになった唇を何度も拭い、ハンスは後先考えずに飛び出した。

胃の中身が逆流しそうになるのを押さえつけ、近くの宿屋へと転がり込む。

(気持ち悪い…汚らわしい……)

部屋をとるや否や湯浴みを借り、擦り切れるのではないかというくらい全身を洗い続ける。

それでも胸に巣食った嫌悪は消えなくて、胃の中のものを全部吐き出した。

口の中に指を突っ込み、胃液しか出なくなった後も繰り返し嘔吐(おうと)する。

三日三晩――ハンスは何も受け入れずにただひたすら自分の身を削り続けた。

数日も経てばジュリアナに付けられた(あざ)も消え、体に残るのは自分で掻き(むし)った痕だけだ。

そこまでしてやっと気分が少しマシになり、よろめきながらも宿を後にする。

無断で学院を休んでしまったが、卒業を控えた状況でまともに行われる授業はほとんどない。

今の状態でジュリアナに会えるわけもなく、ハンスは公女がいるというアウラスタ公爵家を目指す。

(ひび)が入るほど剣を握りしめ、夜になるのを待ってから公女が眠る部屋のバルコニーへと降り立った。

存外警備は薄く、目深(まぶか)にフードを被ってから両開きの窓を躊躇(ためら)いがちに叩く。

「こんな夜更けに何の用事かしら?」

コンコンと数度窓を叩くと寝間着姿のレディ・ゴールドが姿を現した。

何とも不用心だと思ったが、公女は強力の空の加護の持ち主だ。

悪漢(あっかん)の一人や二人、彼女の前では赤子同然に一瞬のうちに黒焦げにされてしまうだろう。

ごくりと唾を呑んでから、掴んでいた剣をそっと差し出した。

「………これを」

「王国騎士の持つ剣のようね。これがどうかしまして?」

「スキラの王女ジュリアナがあなたの命を狙っています。俺は……この剣を使いあなたを殺すように命じられました」

顔が見えないくらい深くフードを被ったまま、公女へと語り掛ける。

公女は何も問わず剣を受け取ってくれた。

「崇高なるアズロの騎士に塗れ(ぎぬ)を着せようとは、なかなか肝の座ったお方ですこと」

手にした剣を見つめ公女は呆れたように呟く。

その目がハンスを捉え、さらに深い呆れを浮かべた。

「いっそ襲ってくださいましたら楽でしたのに。この程度では証拠にはなりませんもの」

「………それは申し訳ありません」

「真に受けなくて結構ですわ。それで、あなたはこれからどうするつもりでして?」

公女に問われ、何も考えていなかったハンスは戸惑った。

ジュリアナの企みを告発すればそれで良いと思ったが、そんな簡単な話ではない。

今ここで罪人として捕らえられてもおかしくはないのである。

しかし公女は証拠にすらならないと、ハンスを捕まえるような素振りを見せはしなかった。

「……見逃して…くださるのですか?」

「見逃すも何も、あなたは間者(かんじゃ)として(わたくし)に情報を持ってきて下さっただけの事。謝礼を伝えこそ、あなたに罪を問う必要はありませんわ」

凛然(りんぜん)と語る公女にハンスは声を詰まらせた。

愚かさが胸を焼き、取り返しのつかない日々に久しく忘れていた嗚咽(おえつ)が漏れそうになる。

そんなハンスを見兼ねたのか、公女が口を開く。

「死にたくなければ国を離れなさい。スキラの手が伸びないほど遠くへ行くのです」

「…………感謝します。遠くない未来、あなたが王妃となられる事を願います」

やっとの事で言えたのはそれだけだ。

それを最後に、金の瞳に見送られるようにハンスは公爵家を去った。

公女の瞳に重なって、もうずっと見ていない金色が頭を掠め、思わず(かぶり)を振る。

(もうこの国に戻る事はないだろう)

何もかもを忘れようと、ハンスはひたすら南へと下っていった。

その道中、公女を襲った悪漢が公女の手で返り討ちにあったという噂を耳にする。

(俺が追われないように手を回してくれたのだろうか)

公女には感謝してもしきれないが、もはや報いる方法はない。

それからのハンスは誰に頼るでもなく、誰を信じるでもなく、自分を追い詰めるようにヨナと戦うだけの日々を過ごした。

何も思い出さずに済むその時間が救いだった事もあるだろう。

けれど、どれだけの名声を得ようと、どれだけの強さを身に付けようと、(つの)るは虚しさだけだ。

街に出れば他人の目に怯え聞こえもしない中傷に身が(すく)み、女性に触られるだけで吐き気を催し日がな一日湖で体を洗った事もある。

環境が変わろうと、結局のところハンスは孤独に生きるしか出来なかった。

他人の温もりを求めながらも、他人に怯えるしかなかったのである。

何もかもが無意味に思え、死に場所を求めるようにヨナとの戦いに身を投じ続けていったのだった。

その果てに出会ったのが――


「――私だったんですね」

膝を抱えたアイリスが悲しげに微笑む。

銀色に輝く瞳からは一筋の雫が零れ落ちていた。

「何故お前が泣いているんだ」

「ハンスさんが泣かないから代わりに泣いてあげてるんです」

「……俺だって泣く時は泣く」

「でも今は泣いてないじゃないですか」

「泣く必要がないからだ」

変な事を言うなと、カップに残っていたお湯を胃の中へと流し込む。

自身の身に起きた事を話し続けていた事もあるだろう。

すっかり乾いてしまった喉を潤わせるように、冷め切った液体を飲み込んだ。

乱雑にカップを置いたハンスを見つめ、アイリスが銀色の瞳を揺らす。

「大丈夫なんですか?」

「何がだ」

「その、私が近くにいても平気なんですか…?」

意識したら途端に恥ずかしくなったのだろう。

アイリスがもじもじと気恥ずかしそうに尋ねてくる。

正直に言って女性に対する嫌悪感はいまだに抜けていない。

その中でも、アイリスはまだ一緒にいる事が耐えられる相手ではあった。

彼女の純真さがそうさせるのか、あるいは自分と同じ苦難にまみれた境遇への共感か。

「……さあな」

ぶっきら棒に返し、ハンスはじっと焚火を見つめる。

別段すっきりした気分はないが、慟哭(どうこく)せずに語れた事を思えば、過ぎ去った過去として上手く呑み込めているのかもしれない。

切なげに炎を見守るハンスに、ふいに微かな温もりが届く。

「嫌だったら言ってくださいね」

触れるか触れないかの距離に座ったアイリスが小さく微笑んだ。

あの歪な笑みとは違うささやかな微笑みに、不思議と嫌悪感は湧いてこない。

久しく感じる他人の体温を、ハンスはただ黙って受け止めたのだった。

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