10.子猫伯爵とハサミパン
屋台が並ぶ広間を抜け、少し入った路地裏にそのお店はあった。
「ア、アル……アルエパ?」
「アレッポだ」
筆記体で書かれた看板を何とか読み切ったところでハンスが口を挟む。
別にオレの頭が悪いわけではない。
固有名詞というものは往々にして一目では分からないもの――というだけだ。
「いらっしゃい!メニューはそこだよ!」
こじんまりとした店の中に入ると、ドアを飾る銅製のベルが可愛らしい音を鳴らす。
その音に吸い寄せられるように店主がカウンターから顔を出した。
たっぷり蓄えた肉が、朗らかな笑みの下でたぷたぷと揺れている。
「うちは肉屋なんだけどね、少し前からパンも置くようになったんだ。ハサミパンって言って、パンに入れた切り込みに肉を挟んだものなんだけどね!そんなに知られてないと思ってたから嬉しいよ!」
オレたちの身なりを見て、食事に来た客だと判断したらしい。
店主はにこにこと笑って注文を待っている。
「オススメはハムブレッドだ」
ハンスが手描きのメニューの一つに指を差す。
サマルの悪口を思い出してしまったのが悪いのだが、本人の口から出たブレッドという言葉に吹き出しそうになってしまった。
(クソ…!バロッドの奴…!)
そこに余計な記憶が舞い込んで、オレは下唇を噛んで耐えるしかなかった。
『ラブデス』読者の中にもあの呼び名を気に入り、ハンスの事をブレッド君と呼んでいる人たちがいたのだ。
それに留まらずハンスの名前にかけパンやバンスと呼ばれていた事まで思い出してしまった。
後ろ二つはただの悪口な気もするが、連鎖的に掘り出されたハンスの呼び名語録に肩が震えてしまいそうになる。
肝心のハンスはメニューと睨めっこ中で、必死に耐えるオレには気が付いていないようだった。
「こっちのベーコンを挟んだやつもオススメだ。冒険者たちの間で日持ちするハムやウィンナーを挟んだパンが流行り始めているから、今食べておかないと簡単に食べられなくなるかもしれない。気になるやつは食べておいた方が良い」
「へぇ~。そうなんだ~」
笑いを堪えるためにも適当に相槌を打つ。
そんな話あっただろうかと思ったが、言われてみれば作中のハンスもパンや干物といった片手間に食べられるものを好んでいたような気がする。
オレにはどこからどう見てもサンドイッチにしか見えないが、これからこのハサミパンとやらに一大ブームが起こるという事だろう。
(まあ、何でもかんでも共通なわけないもんな)
この世界にサンドイッチという名称はなかったようだが、それも些細な事だ。
サンドイッチだろうがハサミパンだろうが味は変わらないのだし、美味しければ名前の差異なんてものは大した問題にはならない。
笑いのツボが収まってきたところで、オレは店主に声をかけた。
「生ハム2つと、ベーコン2つ。あと玉子とシュガー1つずつ。そっちの串焼きと骨付き肉も1つ。とりあえずそれで」
一気に注文すると店主は驚いたのか大きく体を揺らす。
何か言いたげだったがオレにとってはお決まりのセリフを聞くつもりはない。
有無を言わさぬ笑みでにっこり笑ってやると、店主は仕事人らしく何も言わずオーダーをとってくれた。
「そっちのお兄さんは……」
「ハム1つとウィンナー2つ。あとミルクを二人分」
尋ねられたハンスは素っ気なく答える。
こちらが普通の量なのだから、その倍以上を頼んだオレに驚いたのも無理はないだろう。
だがオレにしてみれば毎度の事だ。
〝一人で食べきれる?〟だの〝おつかい?〟だの聞かれるのは飽き飽きだった。
「――うん、出来上がるまで少し待ってね。奥のテーブル使って良いからね」
全ての注文をメモにとると、店主はカウンター奥の調理場へと消えた。
店の中には申し訳程度のテーブルが2つ。
肉屋というだけあってオシャレからはかけ離れたそこにハンスと共に移動する。
(そういえば驚いてなかったな)
ふと正面に腰かけたハンスを見ると目が合った。
オレが言いたいことなど分かる由もなく、ハンスは優しく微笑んでいる。
(もしかして生暖かい目で見られてる……?)
食べる事と寝る事が大好きなオレとは違い、ハンスに食いしん坊という設定はない。
ハサミパンが楽しみで楽しみでしかたがないという様子ではないし、口に出さないだけで店主と同じような事を考えているのかもしれない。
そのままじっと青い瞳を見ていると、ハンスがどこか郷愁に耽るように語りだした。
「……前にも、ここのパンを食べた事があるんだ」
寂しげな空気を纏ったハンスの声に混じって、耳をくすぐる火の音だけが静かに響く。
香ばしいベーコンの香りさえずっと遠いもののように感じられた。
「その時は一人で食べた。食べられれば何でも良かったし、美味しかったかどうかもよく覚えていない。一人で食べる時はいつもそうだった」
「じゃあ今日は?」
暗い気色を振り払うように、へっと笑って聞いてみる。
ハンスは驚きとも泣きそうともつかぬ表情を浮かべ、その後に微笑んだ。
「今までで1番美味しい――と思う」
「そこは断言しとけよ」
ズルいと分かりつつ、笑顔に戻ったハンスを見てほっとした。
あえて触れはしないが、生まれ育った街で孤立してしまった事も、家族以外からの友愛に飢えている事も全部オレは知っているのだ。
今のだって家の手伝いか何かで城下に来た時の話だろう。
一人寂しくパンを頬張るハンスを想像してしまえば、ただの小心かそれとも罪悪感からか、平然とやり過ごす事は出来なかった。
(飯が不味くなるのも嫌だしな)
ずしりと重い空気の中で食事をとっても良い事はない。
単に食べるのが好きというだけだが、一人だろうが何だろうが食事は美味しく食べるに限る。
ハンスにも直、理解できる日が訪れるはずだ。
すぐには無理でも、いつか来るアイリスの手料理を前にすれば、食事の大切さに気が付ける事だろう。
――というところでハサミパンが完成したようだ。
トレーを持った店主がテーブルへと走り寄ってきた。
「はいはい!ハサミパンできたよ!熱い内に召し上がれ!」
店主の持つ木製のトレーの上には大量のハサミパンが積み上がっている。
こうして見るとオレとハンスの分、合わせて9個の存在感は相当のものだ。
「串焼きと骨付き肉はもう少し待ってね。それじゃあごゆっくり!」
追加でミルクを置き、店主は再び調理場へと戻った。
その姿を見送ってオレは早速ハムブレッドに齧りつく。
「いただきまーす」
ザクリ――焼きたて熱々のバゲッドの触感が小気味良い。
たっぷり塗られたバターの甘じょっぱさと大粒の岩塩の塩辛さ。
そこにしっかり燻された生ハムが加われば文句なしの美味しさだった。
鼻を抜ける風味豊かなハムの香りと喉を焼くような熱と塩辛さとを冷たいミルクで一気に流し込めば、ほっぺたが落ちてしまいそうな充足感に満たされる。
「ん~!うま~!」
こういう時に余計な感想は必要ない。
自然とこぼれ出た感嘆だけを口に出し、勢いのままパクパクとハムブレッドを平らげた。
そして幸せな気分のままベーコンブレッドに手を伸ばす。
程よく焦げ目のついたベーコンがパンの端から溢れ、こちらも見るからにボリューム満天だ。
期待を胸に分厚いベーコンを頬張ると、甘みの強い脂が口の中でジュワァ…と溶けていった。
脂と共に口内に広がった熱をハフハフと空気を取り込んで冷ましながら、続け様にベーコンに齧りついていく。
最後の一口を放り込んだ後は冷たいミルクだ。
塩辛さが調和され、まろやかな味わいが喉を下っていった。
「気に入ったか?」
「ん!よくこんな穴場見つけたな!」
「偶然だ。でもシャルルなら気に入ると思っていた」
オレが息をつくのを見届けてハンスが口を開く。
半分ほど食べ進めたハムブレッドが美味しかったのだろう。
その顔はどことなく幸せそうだ。
(あれだけ美味いもん食べればそうなるよな~)
つられてオレの気分も上を向く。
にこにこと上機嫌なオレの口元をハンスの指が撫で――
「ついてる」
オレの口をぬぐった指を自らの口に運んで銜えた。
(さてはこいつ距離感バグってるな???)
ヒョイやらパクやらが付きそうなハンスの行為にオレの方までバグりかけてしまう。
やるにしても順番が逆だ。
言ってからやれ、いやそもそもやるな――頭の中でぐるぐる考えるが、考えれば考える程ドツボにはまりそうで一度思考を放棄する。
とりあえずハンスには釘を刺しておこう。
「そういうの良いっつーか、恥ずかしいからやめてくんね?」
「……気を付ける」
少し項垂れて、ハンスは食事を再開させる。
見ればハンスはまだ1つ目のハムブレッドだ。
授業の時と変わらずまっすぐで模範的な姿勢のままパンを味わっている。
所説あるとはいえ、手軽に食べるために生まれたサンドイッチに行儀も何もあるか――オレは作法など気にせず大口でハサミパンを頬張った。
3つ目に選んだのはエッグブレッドだ。
輪切りになって並んだゆで玉子と、同じように並んだ焼き野菜がパンの間に挟まっている。
こぼれそうなくらい万遍なくかけられたソースの匂いに食欲を掻き立てられ、一息に腹の中へとパンを収めた。
肉を焼く時に出た旨味を閉じ込めたものなのだろう。
素材をグッと引き立てる濃厚なソースによって、玉子というシンプルな具材とは思えない重厚さがあった。
「ミルク追加、はちみつ入りで」
「はーい!ただいま!」
ミルクのおかわりを頼みつつ、2つ目のハムとベーコンも平らげる。
「串焼きと骨付き肉、追加のハニーミルクどうぞ!こっちはサービスだから、そっちのお兄さんも一緒に食べていってよ!」
パンの群れがすっかり胃の中に入り切った頃、店主が残りの品を持ってきた。
食べ盛りの子供へのサービスなのか、大振りの串焼きが1本から3本に増えている。
ハムブレッドに続きウィンナーブレッドを食べ終えたハンスは店主に頭を下げると、串焼きに齧りついた。
オレも片手間に礼を言い、香草焼きの立派な骨付き肉に手を伸ばす。
こちらが本業だけあって食べ応えバッチリの一級品だ。
パリパリの皮と中までしっかりバジルの味が染みた肉の塊を咀嚼した。
口いっぱい頬張った時に広がる旨味は幸福の味だ。
膨らませた頬をもっきゅもっきゅと動かし、幸せな時間を堪能する。
「これも食べて良いぞ」
「サンキュ」
串焼きで満足したのだろうか。
手つかずになっていたウィンナーブレッドがトレーごと差し出される。
貰えるものは貰っておくではないが、本人が良いと言うのだから遠慮する必要はないだろう。
「くひやひはへう?」
「いや、食べて良い。俺の事は気にせずゆっくり食べてくれ」
「んむむ」
ウィンナーブレッドの分と思ったが、やはりハンスの腹はもう満たされているようだ。
「じゃ、もらうからな」
ごくんと口の中のものを飲み込んで、オレは迷う事なくトレーに取り残されたウィンナーブレッドを手に取った。
2本の串焼きにも手を伸ばし、棒からはずした肉をウィンナーブレッドの間に乗せていく。
ちょっとの手間で特盛ウィンナー&ポークブレッドの完成だ。
(この不健康な感じが美味いんだよな~)
ボリュームどころかカロリー爆発の背徳的なパンを一思いに食べ尽くし、トレーに乗ったナプキンで口を拭う。
丹念に口と手を拭いてから、グラスの底に溜まったミルクをあおった。
「それじゃデザートといきますか」
やはり塩辛いもののあとには甘いものだ。
小さく舌なめずりをし、ここまで残しておいた蜂蜜たっぷりのミルクとシュガーブレッドに取り掛かる。
熱でとろみのついた砂糖も美味しいが、冷めて固くなった砂糖がまた美味しいのだ。
ジャリジャリとした触感を味わいながらデザート代わりのパンを味わった。
最後にふんわりと甘いハニーミルクを飲み干してオレのランチタイムは終了だ。
「ごちそうさまでした」
昔の名残で食事の終わりの挨拶をする。
その後にハンスへと視線を送った。
「待っただろ?」
「大丈夫だ。お前の食事風景は見ているだけで楽しい」
「あ、うん」
こういう時に何て返せば良いのかまったくもって掴めない。
ハンスが楽しいなら良いか――ひとまずそう思っておく事にした。
「良い食べっぷりでこっちも嬉しくなったよ!ええと、お代は――」
「ん、これで足りるだろ」
ふっくらとした店主が帰り支度を始めたオレたちの元へやってくる。
手に持ったメモを確認する店主の言葉も途中にオレはコインを取り出した。
テーブルに置いたのは金貨2枚だ。
この世界では銅貨100枚が銀貨1枚、銀貨100枚が金貨1枚に相当する。
更に上に大金貨や聖貨が存在するが、通常的に使うものではないため、一般社会で使用される最も高価な貨幣がこの金色に光るコインになる。
アレッポのパンは一つ銀貨2枚から高いハムブレッドでも5枚程だ。
オレとハンスの分を合わせても十二分に足りる額だろう。
「お、お客様!?こんなにたくさんは――」
「美味かったからその分。ハサミパン、覚えとくよ」
血相を変えた店主に微笑んで、オレは店を後にした。
面倒ごとは嫌いなのでマトモに取り合うつもりはない。
「シャルルこれを――」
「ハイタウンで食べればもっと掛かるし、気にしなくて良いから」
少し遅れて出てきたハンスが自分の食べた分の銀貨を取り出すがそれも無視だ。
言ってしまえばこれは先行投資というものだ。
ハンス本人に言う日はこないだろうが、アイリスと出会う事で返してくれればオレはそれで充分なのである。
(まあ、オレの金ってわけでもないけど……)
遠くを見つめながらお腹を撫でる。
まだ満腹に至らないそことハンスを見比べ、オレはこの後に何をするか――正確には何を食べるかを考える事にした。
――ハンスには言いづらいが、オレの腹はまだ4分目だ。