76.子猫伯爵と幕引き
暦の上では秋とはいえ、天高くに昇る日差しはギラギラと暑い。
燃えるような日差しの中を、まだ小さなシャルルはぽてぽてと歩いていた。
猫を追いかけるように前だけを見る姿は愛らしくも無防備だ。
そんなシャルル目掛け、赤毛の青年が猛スピードに走り寄ってきた。
「シャルル…!!!!」
優しそうな顔を決死の形相に変え、シャルルの体を掴まえるように抱きしめる。
ぎゅうぎゅうに抱きしめられたシャルルは息苦しそうにしながらも、兄スコールを抱きしめ返した。
ずっと年上の体は大きく背中まで腕が回らない。
それでも懸命に手を伸ばし、年甲斐なくぐずってしまいそうなスコールを抱きしめる。
「どこに行ってたんだ…!?心配したんだからね…!!」
「シャルル様…!ご無事で何よりです…!」
遅れてやって来たメイドのミレーヌもほっと息を吐く。
肩で呼吸をしているが、その顔は安堵に満ちていた。
日差しの熱さもあって二人は上から下まで汗だくだ。
顔にも汗を浮かべる二人を見つめ、シャルルは手に持っていた花冠を差し出した。
「ん!作ったからあげる!」
「シャルル~!嬉しいな~!こんなにも優しい弟を持てて僕は幸せ者だね」
ぽすっと頭に冠を乗せられたスコールは疲れなど忘れたように顔を輝かせた。
デレデレと頬を緩ませ、抱きしめていたシャルルの体を抱き上げる。
「ミレーヌにもあげる」
「私にもくださるんですね。ありがとうございます、シャルル様」
「ん。父さんと姉さんとクリスティアンたちの分も作ったんだ」
「まあ!これをお一人で?」
「んーん。一人じゃなかったよ」
「「え?」」
シャルルが首を左右に振ると、スコールとミレーヌは揃って表情を凍りつかせた。
可愛いシャルルが居なくなっただけでも大事件なのに、どこの馬の骨とも知らない人間が傍にいたというのだ。
スコールはガクガクと声を震わせた。
「だ、だだ誰、誰に…??な、なな何かされたんじゃ……???」
「友達!カイトって言ってね、この冠もカイトが作ってくれたんだ!」
不審者顔負けのスコールをよそに、シャルルは自分の頭の上に載っていた花冠を見せびらかす。
胸を張る姿を微笑ましく見つめ、しかしスコールはすぐに顔を曇らせた。
「カイト…?」
「ん!カイトはカイトだよ!」
「いや、そんな…。でもカイトって言ったら……」
嫌な予感にスコールの背中には熱気からくるものとは無縁の冷たい汗が伝っていく。
カイトと聞いて真っ先に思い浮かぶのは三公が一人カイト・デルホークだ。
その名は社交界でも珍しく、他のカイトを探す方が難しいくらいだった。
何より今いる場所は、端っことはいえ三大公爵家デルホークが治めるイゴール領のただ中だ。
デルホークの屋敷があるのは王都に近い領地の中央付近ではあるが、領内となればどこにいても不思議な話ではないだろう。
考え込むスコールへとミレーヌが耳打ちをする。
(スコール様、気にしすぎても良くはありませんよ)
(そうだね。ただシャルルには幸せでいて欲しいから……)
相手が誰であれ、シャルルを大切にしてくれるのなら問題はない。
身分や派閥の差がシャルルを傷つけてしまうのではないかと不安になるが、こんな所にカイトがいるわけがないと気持ちを切り替える。
腹を鳴らすシャルルを抱きしめ直し、スコールは予約してある宿へと足を向けた。
「これからは一人でいなくなっちゃ駄目だよ」
「ん。ごめんなさい」
「反省してるなら良いんだ。でもあんまり酷いと父上に言いつけるからね?」
「うー!それはやだ!」
シャルルは頬を膨らませ、スコールにひしっと抱き着いた。
それを笑顔で受け止めスコールは歩いていく。
頭に乗った花は少し萎れていたが、スコールにとってそれは世界で一番立派な冠に他ならなかった。
・
・
・
扉一枚を挟んだ後ろ側にカイトの存在を感じる中、オレは幼い頃の事を思い出した。
正確には思い出してしまったと言うべきか。
(あー?あれか……?兄さんにあちこち連れて行ってもらった時だよな……)
8歳を超えたあたりだっただろう。
屋敷の探索にも小説にも飽きたオレが外に出掛けたいと駄々をこねたのが始まりだ。
恥ずかしい話だが、前世の記憶を取り戻す前のオレはそれはもうやんちゃだった。
泣きつくだけならまだしも、噛みつくわ、物を投げるわ、わざと怪我して使用人の首を切るわの迷惑フルコンボを決める暴れっぷりで手が付けられなかった事だろう。
ほんのかすり傷だとしても使用人の責任だったのだから、彼らも気が気ではなかったはずだ。
宥めようとする使用人たちに容赦なく牙を剥くオレは暴君のようなものだった。
とはいえ誰に対してもそうだったわけではない。
愛されるだけ愛されて育ったオレは敵意というものに敏感で、好き嫌いが二極化していたのである。
家族やエインワーズ一家を始め自分に好意的な相手には懐いたが、少しでも疑いのある相手にはてこでも振り向かなかったのだ。
あの時も決まった相手以外にはやりたい放題暴れたものだ。
こうなってしまうと家族もエインワーズ一家もオレに付きっきりで、業務に手が付かなくなってしまうのがミオン家の日常だった。
(…………流石は未来の悪役令息って言えば良いのか何なのか)
自分の事だから言うが、小さい頃のオレはどうしようもないクソ野郎だったと思う。
結局折れるのは家族の方で、今程忙しくなかった兄が領地見学という名目でオレを王都周辺に連れて行ってくれたのだった。
その時に巡ったのが王都を囲むように広がる3つの領地だ。
三公が治めるアルテラ領、レブナン領、イゴール領を順に回る旅程で、キッドマンとミレーヌ、その他の護衛や使用人を連れての小旅行へと旅立った。
その旅行の中で、オレはメイドのミレーヌを手を振り解き、猫を追いかけて行ったのだった。
ちなみにミレーヌはナサニエルの母でオレの乳母にあたる人だ。
早くに母シャルロットを亡くしたオレにとっては、彼女が母代わりのようなものだった。
最近では調子を崩しエインワーズ邸に籠っているが、そう遠くなくミオン邸に戻ってくる事だろう。
そんなこんなで脱走を果たしたオレは辿り着いた花畑で冠作りに励んだのだ。
我ながら自分勝手なものだが、当時のオレはこれと思った方に直進していく暴走機関車でしかなかった。
その時に出会ったのが、奇しくもカイトだったという事らしい。
(う…全然記憶にない……)
何となくのあらましは思い出せたが、幼いカイトがどんな顔だったかすら記憶にない。
どんな話をしたかも曖昧で、美談のように語られても他人事のようにしか思えなかった。
ただし嫌いな相手には意地でも懐かないのが当時のオレだ。
初対面のカイトに対して悪い印象を持たなかったという事だけはたしかだった。
(そういえば……)
当然だが何食わぬ顔で戻ったオレは兄にこってりと絞られた。
心配したんだとぎゅうぎゅうに抱きしめられ、その後の旅程は全て手を繋がされた程だ。
その兄がカイトと友達になったというオレをひどく驚いた顔で見つめていたような記憶がある。
(まあ、そりゃそうだよな。公爵令息呼び捨てにしてんだもんな)
その後は知っての通りだ。
頭を打って意識不明の重体に陥ったオレは、目覚めと共に前世の記憶を取り戻したのである。
原因はともかく、カイトとの邂逅を綺麗サッパリ忘れ去ったオレは、悪役令息にはなりたくないとカイトからの招待状を丁重にお断りしたのだった。
(なんか、何て言うかさ?オレがすごい悪いみたいじゃない?)
ここまで思い返し、オレは思わずヒュッと息を呑んだ。
この一年、けして多くないとはいえカイトとも接触を重ねてきたわけだ。
その中でのカイトは特別悪役令息と呼べるような男ではなかった。
公爵家の人間として良識だってあるし、これといって悪事を働くような事もない。
むしろ影ながらオレを守るために手を回してくれていたという事が判明してしまったくらいだ。
『ラブデス』の顛末は一旦置くにしても、オレが前世の記憶を取り戻しさえしなければカイトがここまで気を揉む事はなかっただろう。
(つーか逆に凄いな)
自分の事は棚に上げるが、こうなるともう全面的に悪いのはサマル一人だ。
『ラブデス』の内容を思い返しても、事件が起きるのはだいたいサマルのせいだった。
事件の裏にサマルありと言っても良いくらいだろう。
オレとは真逆に悪役街道をひた走るバカ野郎の所業に一周回って感動すら覚える程だ。
それも踏まえ、カイトは宿敵であって悪役ではないと考えるべきなのだろう。
(オレが勝手に勘違いして、カイトと距離とってただけだもんな。でも分かりにくいカイトも悪いって…!ハンスみたいに友達になりたいってつけ回されても困るけどさぁ…!!)
だが問題はそこではない。
(………ほんと、何でだよ)
ごしごしと唇を拭うが、一度灯った熱は消えそうになかった。
(何で、オレなんだよ。意味分かんねぇ)
意識させられている時点でオレの負けのような気もするが、カイトにまでそんな風に見られているなんて思いもしなかった。
ハンスはまだしも、カイトはずっと遠巻きにしてきた相手だ。
それがいきなり覚悟をしろなんて言われても、どう向き合うべきかなんて分からない。
(友達なんじゃなかったのかよ)
『ラブデス』の中でのシャルルとカイトの関係は良くて友達に過ぎなかったはずだ。
それがどこで変わってしまったのか。
あまりに熱烈で身を焦がす眼差しが今もなおオレを射抜き、息が詰まってしまいそうになる。
暗に逃がさないと宣告するような瞳が頭から離れない。
自分で言うのは悲しいが、恋愛経験の浅いオレには一挙手一投足が未知のもので、そんな気などなくともドギマギしてしまうのである。
文化圏の違いか、行くと決めたらぐいぐいくる姿勢にも慣れそうにない。
そのくせ厄介なのが胸に生まれてしまったこの感情だ。
罪悪感とも違う、本来あるべきだったシャルルとしての思いなのだろうか。
どうしてかオレにはカイトの想いを無下にする事が出来なかった。
しかし――
『お前がウィルフレッドにもらった花を大事そうに抱えるのを見て心底腹が立った』
ふとカイトの放った言葉が頭を過った。
その言葉がオレの中に奇妙な程にストンと落ちていく。
失っていたピースを取り戻したように、それはぴったりとはまり込んだ。
あるいは繋ぎ止めていたものがなくなり、壊れてしまったかのようだ。
「は、はは……」
オレの口から出てきたのは乾いた笑い声だけだった。
慟哭にも似た声が可笑しくて、肩を揺らして上ずった声をあげる。
(そっか)
ひどく納得した気持ちで乱暴に唇を拭う。
そこにはもう思い出す熱も眼差しも何もない。
(そうだよな)
あまりの馬鹿らしさにぎゅっと手を握りしめた。
気が付いてしまえば一瞬だ。
カイトがオレを気に掛ける理由なんて一つしかなかった。
『ラブ・デスティニー』
結局ここは物語の中で、変えられないものがたくさんあるというだけの話だ。
カイトにとってシャルルは傍に置いておくべき存在なのだろう。
それが物語として当然の姿で、執拗なまでにオレを諦めないのも、ただそれだけの理由だ。
友情が恋愛感情へと変わったのはハンスの影響といったところか。
ハンスの気がオレに向いているから、カイトはオレを意識しているに違いない。
カイトがハンスの宿敵として存在する以上、オレに気が向くのもまた必然というだけの事だった。
そうでもなければ、男で端役のシャルルを好きになるなんてありえない。
(ハンスだってそうだ)
数年後にはハンスはアイリスと出会う事になっている。
頭の先から足の先まで美しく清純な彼女を見れば、ハンスとて目が覚める事だろう。
今はただアイリスがいないから迷走しているだけだ。
小説の中でジュリアナに誑かされた時のように、アイリスに出会う迄は、優しくしてくれた相手になら誰にでも惹かれてしまうというだけの事なのだろう。
それを思えば献身的なまでのハンスの言動も全て納得がいく。
オレは知らず知らずの内にジュリアナの役目を買って出てしまっていたというだけだ。
(…………まんまじゃん)
傷心に暮れるハンスの手を取ったその裏で、ハンスを利用し続けたジュリアナ。
オレがしている事も所詮は同じだ。
都合良くハンスに手を差し伸べ、ハンスの意思など関係なくアイリスの元へと誘導しようとしているのは、まぎれもなくオレだった。
(ほんと、馬鹿みたいだな)
悪役令息の道を脱したつもりで、その実オレは抜け出せてなどいないのだ。
サマルの暴挙を止める事だって出来なかった。
ジュリアナが来る事も決定事項だ。
ハンスとカイトがいがみ合う事だって止められていない。
ほんの少し形を違えただけで、何一つ変えられていないじゃないかと打ちひしがれる。
ハンスとアイリスが惹かれ合うのが運命なら、お役御免になったオレに待っているのは破滅だけだ。
一喜一憂してきた自分が惨めに思えてならなかった。
(はは、そういうもんだよなぁ)
意地の悪い女神はオレを見てさぞ面白がっている事だろう。
どれだけ足掻いたところでオレは主役にも宿敵にもなれない端役に過ぎないのだ。
(ほんとさ、顔が良いってだけでズルいよな)
誤魔化すように何度も口を拭う。
ハンスであれ、カイトであれ、僅かにでもときめいてしまった自分が馬鹿みたいだった。
胸が苦しくて、鼻の奥がつんとするが、全部、全部気のせいだ。
オレは誰も好きなんかじゃない。
ハンスの事も、カイトの事も絶対に好きになったりはしない。
息苦しくなっていく胸を抑え、浅く息を吐く。
(何で、オレなんだよ)
どうしてオレはここにいるんだと答えのない問いに身を投じていく。
(オレに何をしろって言うんだよ)
どうせ変えられないのなら、オレは何をするべきなんだろうか。
オレが手を貸さなくたってハンスは全て乗り越えていってしまうのに、今やっている事に意味はあるのだろうか。
(――オレ、最低だな)
疑い出したらキリがない。
今までの事が無意味に思え、全部を捨てて逃げ出してしまいたくなった。
けれどそれは『ラブデス』の中に描かれたシャルルの結末と変わらないだろう。
かろうじて踏み止まり、オレは笑顔を作る。
(そうだよ、クソみたいな客を相手にしてると思えば良いだけだろ)
役に立つ知識があるじゃないかと、アルバイトに明け暮れた過去を思い出す。
どんなに嫌な事があっても、どんなに最低な客が来ても、笑顔で接するのがオレの仕事だ。
金のためだと思えば何でも耐えられた。
あの時のように、オレはただ笑ってハンスがアイリスに出会う瞬間を待てば良い。
最低でもその日が来るまでオレはこの役割から解放される事はないのだ。
(たった数年耐えれば良いんだから楽勝だろ)
女神に踊らされてまで何かを期待しようとは思わない。
オレにはもう、心を無にしてハンスたちと接する事しか頭になかった。
(そう思ったら楽になったな……)
胸がからっぽで苦しいけれど、これでハンスの言動に四苦八苦する事もない。
カイトに振り回される事だってないだろう。
すっかり冷め切ってしまった心で、オレは会場へと足を向けた。
「――シャルル」
入口の前にはハンスが立っていた。
大事そうにブルーローズを抱えてオレが来るのを待っていたらしい。
健気なものだと思うが、その献身はオレに向けられて良いものではない。
「持ってきてくれたんだ。あんがとな」
「シャルル、俺は――」
「さっさと戻ろうぜ。あんまり遅くなるとユージーンたちも心配するしな」
にこりと笑って、オレは一足先にテーブルへと戻る。
ハンスは何か言いたげだったが、オレはその言葉を聞かずに椅子に腰を下ろした。
「おかえり……って何かあったの?」
「何もないけど?」
「えっと…、とりあえずハンスも座ったら?」
浮かない顔をしたハンスにユージーンは少なからずたじろいだようだ。
平然とするオレと落ち込んだ様子のハンスを交互に見つめ、こそこそと耳打ちをしてくる。
「本当に大丈夫なの?」
「何でオレに聞くんだよ。人多いし疲れただけだろ」
「………だと良いんだけどね」
適当に受け流すがユージーンは納得がいかなかったようだ。
不満なのか、心配なのか、口を曲げたまま姿勢を元に戻す。
テーブルにはいつものメンツが揃っており、みな満身創痍といった雰囲気だ。
宴もたけなわというのに、既に全身から疲労を醸し出している。
すっかりパーティーを満喫した皆に苦笑を溢し、オレは最後の追い上げに料理をかき込んだ。
ハンスは終始こちらを気にしていたが、もどかしそうにするばかりで口を開く事はない。
(…………カイトか)
ふと視線を感じ、顔を上げる。
高座の上、レーデンベルグ王子とレイア公女が座る後方にカイトの姿があった。
今までならバッと視線をはずすところだが、そんな気力も残ってはいない。
熱い眼差しを平淡に一瞥し、オレは冷たくなっても美味しいままのデザートを口に放り込んでいった。
どれも急いで食べるには勿体ないこだわり抜かれた逸品だ。
しかし豪華なケーキはどれも甘くて美味しいのに心が動かない。
何を食べても無感動に美味しいと呟き、話しかけられるのを拒むように胃の中に物を詰め込み続けた。
そうしている内にパーティーは終わりを迎え、卒業生たちが会場を後にする。
数時間ぶりに見た学院長が進級に際しての祝辞や注意を述べれば、オレたち在学生の役目も終了だ。
馬車が混み合わないようにと時間を置いて、後はもう解散となるだけだった。
「じゃ、また来月な」
「今日はありがとうございました!」
「シャルル様も良い休暇をお過ごしください。道中お気をつけて!」
興奮冷めやらぬロナルドたちに挨拶を交わし、クリスティアンとナサニエルが待つ馬車へと向かう。
ユージーンを始めとする寮生たちは日を改めて帰省するそうだ。
どのみち休暇の一ヵ月会う事はないだろうと、互いに健康を祈り合った。
「シャルル、お前に――」
唯一オレの後ろをついて来るのはマントをはためかせるハンスだ。
ハンスに貰ったブルーローズを掲げ、にへらっと笑っておいた。
「今日はありがとな。これ大事にするから」
いつも通りに笑うオレを見て、ハンスも諦めたのだろう。
何か言いたげに唇を動かし、最後には黙って頷いた。
「じゃあまた一月後に会おうな」
「………ああ」
それを最後にハンスとも別れを告げる。
キリキリと胃が痛むのは、美味しいからとデザートを食べ過ぎたせいだ。
目に見えて落ち込んだハンスを見たからなどではない。
やるせなさすら感じさせるハンスを残し、オレは馬車へと乗り込んだ。
にこにこと笑うオレを見つめ、馬車で待っていてくれたナサニエルが顔を顰める。
「大丈夫ですか?」
「少し疲れただけ。休むから着いたら声かけて」
「……分かりました。ゆっくりお休みください」
ナサニエルは何も聞かずにブランケットをかけてくれた。
オレが求めるものを正確に選び取ってくれる彼の仕事ぶりが心地良い。
けれど――オレの心は大荒れだ。
自分で決めた事なのに胸が痛くてしかたがない。
何に苦しんでいるのかさえ分からなくなって、気を抜いたら泣いてしまいそうだった。
(何もなかった。ハンスともカイトとも何もなかった)
呪詛のように言い聞かせ、今日あった事を忘れようと違う事を考える。
そういえばアンナはどうなったんだろうか。
ユージーンに思いの丈を伝える事が出来たかどうか聞きそびれてしまった。
別れ際に見たアンナの表情は清々しく、悪い結果ではなかった事だけは予想できる。
ロナルドとジョンの恋の行方も気になるものだ。
授業が再開したら真っ先にアンナたちに声をかけようと、ハンスの事は頭から追い出した。
ついでにカイトの事も追い出して、意味もなく窓の外へと視線を送る。
こういう時に限って眠気はこないものだ。
(………あ)
窓ガラスに反射した自分の顔には一筋の涙が伝っていた。
ナサニエルの指がその雫を掬い――その指でオレの鼻をつまむ。
「なーに似合わない事してんですかねぇ」
「ナ、ナサニエル」
「そういうのは俺の専門ですよ。気味の悪い笑顔を浮かべてる暇があったら、いつもみたいに泣いたらどうですか?」
ぱっと鼻から手を離し、やれやれと大袈裟に腕を広げる。
その胸に飛び込んで、自分では止める事の出来ない涙をボロボロと溢していった。
泣き虫と笑われようと構わない。
今のオレには行き場のない感情を涙に代えて吐き出す事しか出来なかった。




