▼.カイト・デルホーク
大地の国アズロ――イゴール領デルホーク公爵家。
それが俺の産まれた家だった。
国の名を背負うアズロ王家に忠誠を誓う三大公爵家の一つで、地の剣とも謳われる軍事の要。
王族の護衛は当然ながら、国境線の管理や騒動の鎮圧、時にヨナの退治や調査までをも請け負うアズロ王族直属の騎士といっても過言ではないだろう。
デルホークの一門からは数多くの王国騎士団長や近衛隊長、専属騎士を排出しており、俺の父も祖父も曾祖父もその上の先祖も皆、アズロ王家のために忠義を尽くしてきた。
それこそがデルホークの誉であり、地の剣として生を受けた者の責務だったからだ。
だがそれは皮肉のようなものでもある。
女神が統べし聖なる大地クーラ・アース。
この大地に産み落とされた瞬間から、俺が辿るべき道は決められていたという事なのだから。
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「カイト!そんな事ではまたおじ様に怒られますわよ!」
両手を腰に当て、金髪の少女が頬を膨らませる。
俺より1つ年上の彼女はレイア・アウラスタ。
俺と同じ三大公爵家――三公が一つアウラスタ公爵家に生まれた娘だった。
「課題はやっただろ」
「おじ様が嘆いているのはあなたの態度ですもの。課題さえこなせば良いというものでありませんわ」
人の事をとやかく言えた口ではないが、いやにませた口調でレイアは胸を張る。
三公として物心つく前から教育詰めだった俺たちは、年齢に対しずっと大人びていると評判だった。
ただ一つだけ、俺とレイアでは決定的に違う部分がある。
容姿も頭脳もマナーも全てが完璧なレイアに比べ、俺はいつも態度が悪いと怒られていた。
それは礼儀作法がなっていないという意味ではない。
どうにも俺には熱意や誇りといった、地の剣としての自覚が足りないらしい。
まだ10歳にも満たない子供に何を求めているんだと思うが、俺を取り巻く大人たちは皆厳しかった。
常に目を光らせ、勉学や鍛錬の傍ら、デルホークの何たるかを熱弁してくるのである。
目の前のレイアもそれは変わらず、顔を合わせる度に口酸っぱく小言を送り付けられるのだった。
だが彼女の小言は可愛らしいものだ。
俺にとって実の姉のような彼女の言葉からは、大人たちとは違う思いやりを感じる事が出来た。
「理解出来ないものはしかたないだろう?」
「だからこそ日々説いているのでしょう?カイトの優秀さは周知の事実!あなたの気持ちさえ伴えば、私だってこんなつまらない事を伝えずに済むのですよ?」
レイアの言い分自体は理解しているつもりだ。
しかしながら腑に落ちないものは腑に落ちないのだからどうしようもない。
「なら聞くが、レイアは空の衣である事に満足しているのか?」
「愚問ですわね。私はこのアズロ唯一の公女。女神様が私にその責務を果たせと生を授けてくださったのですから、迷う事などありませんわ!」
レイアは胸に手を当て声高らかに宣言する。
その自信に満ちた声を聞いてもやはりしっくりくるものはない。
別段レイアの考え方や生き様を否定するわけではない。
彼女が納得し目標に向かって邁進するというなら俺はそれを支えるだけだ。
それは相手がレーデンベルグ殿下であれ、父であれ変わらない。
ただ俺に大志がないというだけで、誰かが貫き進む道を馬鹿にする算段はどこにもなかった。
(――そうだ。俺には夢も目標も何もない)
唯一の公女というように、レイアはレーデンベルグ殿下の婚約者となる事がほぼほぼ確定している。
既に王妃教育を受けている彼女は俺のずっと先を歩いているようだった。
未来を見据える金の瞳を見ていると、俺とは別の世界に生きているようにさえ思えてくる。
反面、俺には何もない。
勉学に励んでいるからと司令官になりたいわけでもない。
剣術に打ち込んだからと騎士や近衛兵になりたいわけでもない。
何のために日夜研鑽に明け暮れているのかが、自分でもよく分からなかった。
物心が着く前にはもう勉強尽くめだった人生だ。
俺の意思も嗜好も関係なく、課せられた試練を人並み以上にこなす事だけが求められた。
それなのに今更、志を問われたところで答えようなんてない。
デルホークの名を継ぎ、デルホークに恥じぬ役職に着く――それだけで十分ではないのかと逆に問いかけたいくらいだった。
それは社交界に出ても同じ事だ。
彼らが求めるのはデルホークにふさわしい跡取り、もしくは都合の良い道化だった。
互いに利用し利用されるだけの信頼に値すらしない相手と言えるだろう。
そもそも俺は誰も信用するなと教えられている。
忠義を誓うのは王族だけで、三公でさえ監視し合う仲でしかなかった。
「――私では力不足のようですわね」
「レイアで力不足というなら諦めるしかないな」
「まったく他人事のように!私だっていつまでもあなたに助言できるわけではありませんのよ。もっと真剣に考えてくださいな!」
それを最後にその日のレイアとの歓談は終わりを迎えた。
俺を思ってくれているからこその小言を聞き流し、領地へと帰る彼女を見送ってやる。
(………真剣にと言われてもな)
どれだけ勉学に励んでもやりたい事は見つからない。
どれだけ強くなっても目指したいものはない。
結局俺は志の一つないまま、繰り返すだけの憂鬱な日々を過ごしていった。
そうして数か月――。
この日俺はデルホークが統治するイゴール領の最南端、フェザント領に程近い別邸へと訪れていた。
数日後に控えたフェザント領を収めるアーランド侯爵家とのお茶会のために、年に2度来るか来ないかといったこの場所へと連れてこられたのだ。
いつもより少なく顔ぶれも違う使用人。
ついて来た家庭教師は一人だけで、移動を終えたばかりの今は客間で休憩中だ。
両親は休む間もなく近隣の視察に向かっため、屋敷の中は静かなものだった。
窓の外からは鳥や虫の声が聞こえ、王都に程近い本邸では見られない長閑な田園風景が広がっている。
(今なら――)
それはある種の好奇心のようなものだったのだろう。
家族の事が特別嫌いなわけでも、血の滲むような鍛錬から逃げ出したいわけでも何でもなかったのに、俺は一度浮かんだ考えを消し去る事が出来なかった。
鍛錬に使うロープを柱へと括り付け、ずっと下にある地面を見つめる。
今ならば父たちの目を盗んで外に出られる――そう思った時にはもう、俺は3階の窓から地面へと降り立っていた。
(何も言わず出てきてしまった)
自分のした事に茫然としつつ、本邸と比べるまでもない小さな庭を抜けていく。
日頃体を鍛えているおかげで、2m近くあるのではないかという塀も軽々と飛び越える事が出来た。
初めて自分勝手に行動した事からくる高揚なのか、いつにも増して足が軽い。
気の向くままに駆け回り――――俺は帰り道を見失った。
(……怒られるよな)
目印となるのは遠くに見える別邸の屋根だけだ。
しかし、ここまでの事をしでかして怒られないわけがない。
顔だけは殴られる事がなかったが、酷い時には鍛錬の一環と称し鞭を打たれる事もあった。
その記憶が帰ろうとする足を踏み止まらせる。
父の事が嫌いなわけではないが、あの無益な時間を過ごすのはけして嬉しい事ではない。
踵を返す事が出来ずに、俺は屋敷が見えるか見えないかという位置を彷徨い続けた。
その内に住宅街のすぐ脇にある森へと入り込んでいたらしい。
頭上には青々とした葉っぱが所狭しと茂っている。
中心部に比べ発展が進んでいないこの辺りでは、街のすぐ傍に森や林があるのも珍しい事ではない。
立地を考えれば危険も少ないだろうと、散策がてら草木を掻き分けていく。
「…………あ」
森の中には真っ白な花が敷き詰められた花畑が広がっていた。
そこには小さな先客がちょこんと腰掛けている。
白い花畑の中で色鮮やかに咲く真っ赤な髪の毛はそれだけで印象的だった。
柄にもなく森に棲む妖精か何かかと思ったが、残念な事にそういうわけではないらしい。
「ここで何をしているんだ?」
普通の子供はこんな事をするのだろうか。
そもそも普通というものがよく分からないと思いながら、地べたに座り込む少年に声をかけてみる。
「ん?誰?」
「カイト・デルホークだ。三大公爵家くらい聞いた事が――」
「オレはね、花冠作ってるの!カイトにもあげる!」
赤毛の少年は名乗りもしないどころか、俺の言葉を遮ってにこにこと微笑んだ。
そして手に持っている花で造られた冠を俺へと差し出してくる。
受け取れば良いのかと手を伸ばせば、彼はブンブンと頭を振って俺に頭を下げるよう騒ぎ出した。
渋々その場にしゃがんだ俺の頭へと白い冠が乗せられる。
「へへ、王子様みたい!」
嬉しそうに笑う姿はまさしく花が咲いたようだった。
何故素性も知らぬ相手に好き勝手されなければいけないのかと疑問に思うが、その思いは違う疑念によって塗り替えられる。
「俺がもらっても良かったのか?」
「んー?何で?」
「これはお前が作った成果物だろう?それを何の対価もなしに俺に渡しても良いのかと聞いているんだ」
本気で花冠に価値があるとは思っていないが、手間暇かけて作られただろう物に違いはない。
何か求めるものがあっての事かと問えば、彼はきょとんと首を傾げた。
「よく分かんねーけど、気に入らなかった?」
「そういう話じゃなく……」
「じゃあこれもやるよ!あっちに生えてたんだけどキレイだったからカイトにあげる!」
それどころか彼は脇に置いていた薄紫色の花を差し出してくる。
どこか誇らしげに笑う顔に毒気を抜かれ、気が付けばその花を受け取っていた。
「何ていう花なんだ?」
「知らない。でもキレイだからいーだろ」
キッパリ綺麗だから良いと言い放つ少年に、俺は唖然とするばかりだった。
俺が知る綺麗の基準は、どれだけの人員を割いたかと、どれほど身分の高い人間が称賛したかと、どれだけの希少性があるかと、いかに金額が高いかのいずれかかその全てだ。
(だが……)
たしかに手渡された花は綺麗なものだ。
俺が知らないという事は大した花でもないのだろうが、小さいながらも立派な花をつけるそれを汚いなどと侮辱する事は出来なかった。
彼はというと愕然とするオレなどお構いなしにせっせと冠作りを続けている。
俺にくれた分と、既に完成している1つの2つがあるが、まだ足りないという事だろう。
「そんなに必要なのか?」
「ん。父さんと兄さんと姉さんと、あとクリスティアンの分」
クリスティアンが誰かは知らないが、家族全員の分を用意するらしい。
じっとその様子を眺めていると、レイアの瞳よりもさらに光を放つ金の瞳と目が合った。
(目が光っている……)
今までずっとレイアの目を金色だと思っていたが、考えを改めなければいけないようだ。
光を溢す瞳があまりにも優麗で、真昼にも関わらず星が浮かんでいるように思えた。
「カイトも作る?」
「……俺が?」
「ずっと見てるし作りたいのかと思って。えっとね、ここをこうして……」
基本的に人の話は聞かないタイプのようだ。
彼は面食らう俺の隣に座ると、手元がよく見えるようにして花冠を編み出した。
俺は教えられた通りに花を結んでいく。
難しいものかと思えば、最初の動作さえ覚えてしまえばあっという間に冠が出来上がった。
「何だ、簡単じゃないか」
出来上がった冠を見つめ思わず溢す。
こんなに簡単なものなのに、今まで誰も花冠の作り方を教えてくれる人はいなかった。
(……外の世界には知らない事がたくさんあるんだな)
それどころか俺は何も知らなかった。
花で冠が作れる事も知らなければ、彼がくれた花の名前すら俺は知らないのだ。
教えられた事だけを覚えて漫然と日々を過ごしていただけだった。
今日ここへ来る事がなければ、俺は整備されていない道の歩き難さも、普段履くブーツが長時間歩くのに向いていない事も、野に咲く花の香りさえも知らずに終わったのだろう。
急に自分がちっぽけな存在に思え、無造作に花を摘んでいた手を止めた。
「もうできたのか?カイトは器用なんだな!」
「お前が作った冠の方が綺麗だ」
俺が完成させた冠を見て、彼はなおもにこにこと笑う。
その手に握られた冠は半分程しか出来ていないが、俺が作ったものよりもずっと綺麗に見えた。
何が違うのかと思ってまじまじと観察しても、作り方に差は見られない。
「んーとね、可愛いやつを選ぶんだよ。ほら、こっちが可愛くてこっちはちょっと小さい」
俺の疑問を感じ取ったのだろう。
彼は咲いている花をあれこれと指さした。
可愛いの基準は不明だが、ただ摘めば良いというものではないようだ。
「でね、楽しんで作んの。父さんたちの喜ぶ顔を考えながら作ると良い感じになるんだ」
「楽しんで作る……」
そんな事、一度だって教えられた事はない。
国のために、デルホークのために、恥じぬように生きろとだけ言われてきた。
楽しむ暇などなく、楽しもうとしても怒声が飛ぶだけの事だ。
けれど彼の作る花冠が俺が作り上げたものよりも魅力的に映るのは紛れもない事実だった。
俺が花を厳選し時間を掛けたところで、及ぶものはないだろう。
その歴然の差を生み出すのが、楽しみ、相手を思いやる心なのだと言うのなら納得の結果だ。
本当に知らない事ばかりだと、自分の無知を痛感する。
「お前は俺の知らない事をたくさん知ってるんだな」
「オレもミレーヌに教えてもらったんだ。勉強はあんま好きじゃないけど、こういうのは楽しくて好き。でもケーキのために勉強も頑張ってんだ!難しい本を読めるようになると楽しいしな!」
「ケーキが好きなのか?」
「美味しいものは全部好き!そうだ、クッキー食べる?オレすぐお腹減っちゃうからさ、父さんたちが持たせてくれてんの」
ななめにかけたポシェットからクッキーを取り出し、彼は自慢げに差し出してくる。
すぐに腹が減ると言いながら食べて良いというあたりお人好しなのだろう。
ころころと変わる表情が面白くて、俺はクッキーには手を出さずに彼と話をしながら花冠を作っていく。
もっぱら俺が話を聞くだけだったが、彼の話はあまりにも未知で奇想天外な楽しいものだった。
(……心地が良いな)
今まで色々な人に会ってきたが、こんなにも無垢な相手は初めてだった。
打算がなく、けれど無鉄砲で愚かな人間というわけでもない。
多少のそそっかしさはあれど、俺の話にしっかりとついて来る事の出来る素養も感じられる。
こんな相手もいるのだと、居心地の良さのあまり俺はいつの間にか自分の事を彼に打ち明けていた。
「カイトが頑張ってるんなら熱意とかどうでも良いだろ」
彼は事もなげに言う。
何もかもに意義を見いだせずにいる俺に、彼は何の迷いもなく言ってのけた。
「どうでも良いのか…?」
「だってカイトはすごいじゃん。オレは勉強も努力も嫌いだし、カイトみたいに我慢も出来ないもん。頑張ってるってだけですごいと思うぞ!」
「だがそれは俺がデルホークだから――」
「カイトはカイトだろ?」
俺が努力をしてきたのはデルホークに生まれたからだ。
そうあるべきだったから、そうしてきただけの事。
それを彼は真っ向から否定する。
「何があってもカイトがカイトな事には変わんないだろ。それにカイトが頑張ってきた事はさ、デルホークじゃなくなったからって消えはしないだろ?」
本当に、本当に誰もそんな事は教えてくれなかった。
カイトを否定してもデルホークを否定してくれる人はいなかった。
レイアでさえ俺にデルホークである事を求めたというのに、目の前にいる彼は俺がデルホークだと分かった上で、本当に何という事もなく俺をただのカイトだと思っている。
「デルホークじゃなくなっても、俺が落ちぶれたとしても、お前は俺が俺だと言ってくれるのか?」
「当たり前だろ!オレたち友達なんだからさ……って、あれ?違った?」
パチクリと目を瞬かせる彼に首を振る。
俺はずっとそう言って欲しかったのかもしれない。
王族でも、国でも、デルホークでもなく、自分自身のために生きて良いと言って欲しかったのだ。
(何だ、簡単じゃないか)
何かのために目標を掲げて生きるなんて簡単な事だ。
こんな簡単な事だったのに気付くまでに随分と時間を要してしまった。
思いがけず肩を揺らして笑うと、彼は真似をするように大口で笑ってくれる。
「本当にお前は色々な事を教えてくれるな」
俺に必要なのは優秀な家庭教師でも師匠でも何でもない。
彼のように寄り添ってくれる相手だったのだと、俺はこの短い時間に多くの気づきを得た。
その後も時間が許す限り彼と話し込むも、彼の腹が大きな音をたてる。
「ん…。お腹空いてきたしそろそろ帰んねーと」
「そうか。そう、だよな」
腹をさすりながら彼は悲しそうな顔をする。
その悲しさが何からくるものかは分からないが、名残惜しいと思ってしまう自分に驚くばかりだ。
「よいしょっと!」
立ち上がった彼の手に握られる花冠は当初の目標を越えて10個にものぼっている。
俺と話している間もずっと彼は冠を作り続けていたのだ。
その頭に俺が作った冠をそっと被せてみた。
「くれんの?ありがとな!」
悲しげだった顔をぱっと笑顔に変えて彼は瞳を輝かせる。
その姿は本当に妖精のようで、手放し難いとさえ思ってしまった。
だがそんな事をしても彼が困るだけだろう。
「もしかして帰り道分かんねーの?」
「…………恥ずかしい話だが」
バツが悪く咳ばらいをする。
図星なのもそうだが、俺の悪心を言い当てられた気分がして急いで目を逸らした。
彼はそんな俺を笑う事なく、森を抜け出た辺りで地面に転がっている猫に近寄っていく。
「カイトの家ってどこ?」
「あそこに見える建物だが……一体何を?」
「あれだって。お願いできる?」
丸くなって身を寄せ合う内の一匹がのそのそと立ち上がる。
くあ…と大口で欠伸をし、うにゃうにゃと鳴き声なのか何なのか分からない気の抜けた声を発した。
「そいつについて行けばたぶん帰れるよ」
彼の言葉に従うように、ボサボサの猫が俺の前をけだるそうに歩き出した。
領民たちに餌をもらっているのか、その体は肉が揺れるくらいたぷたぷに肥えている。
「………お前を信じよう」
半信半疑だが、俺は猫を追って彼とは逆方向へと進んでいく。
走り出した猫のせいで、別れを惜しむ余韻はなかった。
途中、太った猫が違う猫の群れへと突っ込んだ時には焦ったが、どうやら任務を引き継いだらしい。
今度は若い猫が俺の前を走り、時には林の中を突き抜けていく。
そしてあの少年が言ったように、猫はしっかりと屋敷へと俺を送り届けてくれた。
(やはり妖精か何かだったんじゃ……)
猫が人の言う事を聞くなんて今まで見た事も聞いた事もない。
犬のように訓練されたとしても無理な話だろう。
猫を思わせる姿のように、彼は本当に妖精か精霊の類だったのではないかと思えてきた。
その馬鹿な思考を振り払い、抜け出した時のままになっているロープを伝って部屋へと戻る。
授業がなかった事もあり、俺が外に飛び出していった事には気付かれていなさそうだ。
手早くロープを引き上げるが、窓の下では若い猫がいつまでもこちらを見て座っている。
その猫にテーブルに用意されていた果物を投げておいた。
「にゃー!」
果物に齧りついた猫は、満足したようにどこかへと去っていった。
その姿を見送り、俺は一息をつく。
あまりに色々な事があったため、沈むようにソファへと座り込んだ。
(………俺は俺か)
彼が言ってくれた言葉を反芻する。
その言葉を胸に俺はようやく、デルホークのためでなく、自分のために生きようと思った。
自分のために生きた先に、デルホークの、ひいては国のためになる事があるはずだとそう思えたのだった。
妙にスッキリした気持ちで翌日を迎えた俺はこじんまりとした書庫へと赴いた。
植物の図鑑を開き、あの花の名前を探す。
庭師に聞けばすぐに分かった事だろうが、自分で調べる事に意味があった。
「ヴェルヴェーヌか」
あの花の名はヴェルヴェーヌというそうだ。
調べたところハーブへの適正が高いらしく、庭に植えさせてみても文句は言われないだろう。
ふと名前を聞きそびれていた事に気が付くがそれはどうとでもなる事だ。
またあの少年に会いたい――そう思った俺は呼び鈴を鳴らし執事を呼びつける。
「いかがされましたか?」
「人を探して欲しい。赤い髪に金の瞳で俺より二回りは小さい少年だ。年齢も俺と同じかそれ以下だろう。身分や出自に関係なく該当する者がいたら教えてくれ」
「かしこまりました」
――後日、本邸へ戻った俺の下に報告書が届いた。
幾人かが候補に挙がる中、そのうちの一人に目を留める。
「シャルル・ミオン。メルゲル領ミオン伯爵家の末息子。家族は父と兄と姉――これだな」
文字だけの情報だがこの少年に違いない。
ラドフォード伯爵の息子の溺愛ぶりは社交界でも有名だったが、彼が末息子だというならそれも納得だ。
早速手紙を送ろうと思ったところで、来月に控えた自身の誕生日を思い出す。
「生誕パーティーの招待リストにミオンを加えておけ」
「ミオン様でございますか?しかしながらミオン様は中立派の――」
「二度言わせるな。メルゲル領のミオン伯爵家をリストに加えるんだ」
「か、かしこまりました」
報告書を渡しに来た執事はバタバタと忙しなく部屋を出ていった。
父に報せに行ったのだろうが、引き抜きのためと言えば余計な詮索はされないだろう。
俺は俺のために生きると決めたのだ。
使えるものは何でも使わなければ損というものだ。
「ラドフォード卿が守るミオンの宝石か」
その宝石が祝いに与えられるなら、それ以上に喜ばしい事はない。
手厚く迎えてやらなければと、俺は一層盛大なパーティーを開こうと準備を始めるのだった。




