0.子猫伯爵とままならない出会い
「――隣いいだろうか?」
背後というべきか、頭上と言うべきか。
自分に向けて降ってきただろう低い声。
ぼーっと外を見ていたオレは何の気なしに首だけで振り向き――言葉を失った。
(んなっ!!!?)
思わず目が丸くなる。
ついでに語彙力とやらもどこかへ吹き飛んだらしい。
でかい、黒い、ヤバイ――見たままの感想が頭の中にぽん!ぽん!と浮かび上がっては消えていった。
それこそ右から左に真っすぐ筒抜けていくように。
「隣、いいだろうか?」
反応できずにいると、先程とまったく同じ言葉を投げかけられる。
返事がなかった事がよほど気に食わなかったのか、くぐもった声はどこか威圧的だ。
その声音のせいもあって、横に立つ男の頭が身長以上にいやに遠く感じられる。
黒い髪の合間で青い瞳が見え隠れしたが、その目も怒気を帯びているように思えてならない。
バチリと視線が合えば、全身の毛と言う毛が総毛立った。
直後には嫌な汗が背中を伝い、冷ややかなようで生温い気味の悪さがシャツの内側で広がっていく。
悲しいかな、隅の隅までノリの利いたシャツが台無しだ。
授業初日となる今日のために新調した、使用人たちがこれでもかとノリを利かせたシャツがである。
(何だってここに来んだよ!!?)
条件反射気味に心の中で悪態をつくが、当然相手は知らん顔だ。
わざわざ一番後ろの席の、しかも窓際に座った意味とは何だったのか。
もちろん後ろに座りたい奴だっているだろう。
窓際が好きな奴だっているだろう。
だがそういう奴は決まって目立ちたくないか誰とも話したくない人種のはずだ。
〝隣いいかな?〟なんて気さくに声をかけるような奴が来て良い場所ではないのである。
(あー!もう知らねぇ!こういうのは無視だ!無視!!)
例に漏れず誰とも話したくないオレは降ってきた声をそのままやり過ごす。
失礼も何もあったものではないが、ふいっと顔を外に戻し、暗に〝話しかけるな〟というオーラをかもし出した。
実際にオーラなんてものが出せているかどうかは知らないが。
(席は他にもあんだろ!さっさとどっか行け!)
そうだ、オレは絶対に振り向かない。
振り向いたら負けだ。
一体全体何と勝負しているのかという話だが、こういうのは先に折れた方がバカを見るものなのだ。
そんな子供じみた意地で無視を決め込んで一拍、二拍、三拍。
「初めまして。俺はハンス」
事もあろうにその男は平然と隣の席に腰を下ろした。
しかも求めてもいない自己紹介のおまけ付きだ。
(いやいやいや!!なーにが俺はハンスだ、だよ!!そんなん知ってるっての!!!!)
驚愕のあまり、あるいは怒りのあまり、頬を支えていた手がずり落ちそうになる。
手が滑ったら最後、横に長い講義用のデスクに顎をぶつけていただろう。
踏みとどまれたオレは偉い。
心の中でとはいえ、絶叫しながらも自分を称賛できてしまう器用さに惚れ惚れしそうになる。
そうでもしなければ平静を保てそうになかっただけだが、いささか遠くなった目で窓の外に広がる花々に思いを馳せる事にした。
後頭部に痛いくらいの視線を感じるが気にしたら負けだろう。
何が楽しくて人のつむじを凝視しているのか、まったくもって理解に及ばなかった。
(意味分かんねぇ…)
心の中でため息をつく。
オレはオレのためにわざわざ早くに登校し、この特等席を勝ち取ったのだ。
だというのに、どうしてこの男はオレの隣に座ったのだろうか。
なおも感じる視線のせいか、自然と意識が向いていた。
そう、オレは今しがた隣に腰を落ち着けたこの男の事をよく知っている。
名はハンス。
性はウィルフレッド。
曾祖父マイセンが立ち上げた一般市民向けの商会『ロゼット商会』の跡取り息子で、一般市民にしては珍しく性を持っている。
商会名のロゼットは今は亡き曾祖母の名前だ。
家族は父と母と祖父母の5人で一人っ子。
生まれつき体格に恵まれたハンスを相手に、同年代の連中は一度だって拳で勝てた試しがないのだとか。
〝ド〟が付くほどのマジメな性格は父親譲り。
良くも悪くも困っている人間を放っておけない正義漢というやつだ。
しかしマジメ過ぎる性格が災いし、交友関係は芳しくない。
何事も行き過ぎるのは良くないという好例――否、模範である。
オレもそうだが、誰だって何かにつけ細々注意されるのは面白くないものだ。
たとえハンスの言う事が正しかったとしても。
要するに何が言いたいかというと、ハンスという男はまるっきり空気が読めない、という事だ。
オレ自身、先程のやり取りでそれを痛感した。
そんなこんなで、歳を追うごとに無骨さと不愛想さばかりが増し、ハンスの人付き合いは凄惨なものになっていったようだ。
ハッキリ友人と呼べる相手もないのだから、相当なものだろう。
後学―つまりは人付き合いの矯正―のためにと進学を勧められ、今この瞬間に至る。
――などなど数えだしたらキリがない。
もしかしたらハンス本人よりも〝ハンス・ウィルフレッド〟の事を知っているのではないだろうか。
オレンジ色の蝶がひらひら飛ぶを眺めながらそんな事を考える。
(あ)
思考を遮るように、見つめていた蝶が視界から消え去った。
けれど一瞬止んだ思考はすぐに舞い戻る。
トカゲだろうか、凹凸のないつるんとした体の爬虫類がくしゃくしゃに潰れた蝶を銜えて走り去っていく姿が、自分自身に重なった。
(……オレがシャルル・ミオンじゃなかったらな)
いくらか落ち着いた頭でハンスについて知っている内容を反芻する。
けしてギャグではない。
その後に自分自身――シャルル・ミオンについてを思い起こした。
名はシャルル。
性はミオン。
この王都ファストレイでも有数の貴族、ミオン伯爵家の次男として生を受けた。
母は幼い頃に亡くなったが、父と兄と姉とたくさんの使用人に囲まれて何不自由なく育った。
服でも楽器でも本でも欲しいものは何でも手に入って当然。
食事だって食べたいものを好きなだけ。
好きな時間に寝て、気に食わない奴は不当に痛めつけ、むかつく使用人は即座に解雇し、まさに絢爛豪華、贅沢三昧、自堕落極まりない人生。
歳の離れた末息子だった事もあって、家族はこぞってシャルルを猫かわいがりし、その横暴の全てを許した。
何をしても、可愛いシャルルの可愛い我儘だった。
思い返しながらも反吐が出そうになる。
そうとも。
そうなのだ。
オレは〝ハンス・ウィルフレッド〟同様に〝シャルル・ミオン〟の事を知っている。
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