5 過渡期 ③
伏せた顔をすぐさま上げて、ベリアルはエイジを真っ直ぐ見つめる。
「折行ってお願いがある」
「はい?」
「我ら魔王国幹部一同は、貴殿の並々ならぬ知識を尊敬している。そこでだ、我らにそなたに教育をしていただきたい。よろしく頼む!」
その場にいた幹部全員が、頭を下げる。
「えっ? えっ? えっ?」
突然のことに、エイジは当然戸惑う。
「頼む…!」
「とっ、とにかく頭を上げてください‼︎」
なんとか頭を上げてもらい、一度深く呼吸し、落ち着きを取り戻す。
「どうして、このようなことを?」
「私たちは、お前から多くのものを教わった。地理、社会のシステム、物理学や化学知識、算術に、その他多くの概念を。しかし、その知識を与えるのは会議のたび、必要に迫られた際に都度である。」
思い返せばその通り。ちょうどさっきの会議の、地理の話だってそうだ。
「不満でしたか?」
「それを、私は効率が悪いと感じている。会議のために、いちいちお前がその場で頭を使って説明をまとめる手間、そして私達が理解するために必要な時間。それは全員が集まれる貴重な時間を無駄にしてしまうことになるからな。」
「……確かに、そうですね……では、もしやるとして、どのような知識をご所望で?」
「できうる限りだ。」
「ええと、それは……なかなかに困る言い方ですね」
できうる限り……随分と漠然としている返答だ。数学や理科に地理などの科目か、語学や公民か。或いは工学分野などの科学知識や、民族文化などかもしれない。
「とはいえだ、お前が、必要以上の情報を我々に与えたくないのは分かっている。それも意地悪ではなく、世界の秩序を守るためにということも。故に、どのような知識を、どれほど授けるか。それは、全てエイジの裁量で構わぬ」
「それを理解して下さるのはありがたいのですが……問題はそうではなく。もとよりそのつもりでしたからね」
「ふむ?」
「知識と言っても色々あります。数学や理科に社会科の学問などから、語学や文化そのほか教養的なものまで……あり過ぎて困るのです」
どれが一番求められているのか、イマイチわからない。おそらく、それら全てを求められている気もするけど。
「……む! そうか……そうだった! 語学だ!」
だがベリアルは、ある一つの分野に強い興味を示したようだ。
「ニホン語とやら、我々に授けてくれ」
「ええと……必要ありますか?」
「あるとも。私はお前が来た時から、魔族語に限界を感じていたからな」
「はぁ。それは、どういう意味ですか?」
「お前の話す母国語と比べて、圧倒的に語彙が足らんのだ。お前と話していると、自動翻訳能力のおかげで普通の会話なら難なくこなせる。しかしだ、やや難しい専門的なことになると翻訳能力が機能しない。即ち、我らにその言葉の意味に該当する概念の言葉がないから、お前の発した言葉がそのまま聞こえるということだ。付け加えると、魔族語は厳密な文法が定かでない。そしてこれは個人的な感覚だが、私は日本語の発音が好みでな。少し、ニホン語で話してみてはくれまいか」
翻訳能力を一時解除し、てきとうにベリアルを讃える言葉でも捲し立ててみる。
「なるほど……やはり私には好ましく思えるな。すっきりしていて聞きやすい」
「私としては、無理して変えることはないと思いますが……。魔族語という独自の文化は、保護されるべきであると考えます」
「それはお前が、私たちが話していることが母国語に変換されて聞こえるからであろう? それに、これはだいぶ個人的な意見なのだが……今まで住み慣れた世界から、突然何も知らない異世界にやってきて、ただでさえ魔術を知らず、平和な世界ゆえに武術にも精通せず、あまつさえ宰相となって我らを導くなどと、お前の負担が大きすぎる。だからせめて言語くらいは、お前に合わせてやりたいのだ。」
「魔王様………」
これほどにも自分を想ってくれているのかと思うと、感極まって目頭が熱くなる。
「わかりました。ではその熱意にお応えして、私も全力で教えましょう」
「うむ、期待している。ああそうだ、一応言っておくが、あまり急ぐ必要はないぞ。今は忙しいであろうからな。ゆっくりと情報を整理し、少しずつ教えてくれればいい」
頼まれると、すぐさま行動に移そうとしてしまうエイジのことをよく分かっているために、ベリアルは念押しする。今溜まっている仕事を後回しにしたり、一気に情報の濁流を押し付けられるのも困ってしまう。
「了解しました。……ふむ、これを機に魔王国の教育改革を行うのもいいかもな。幹部を始め、頭のいい優秀な魔族たちに授業をして。そして彼らがまた教師となって、その知識を広める。ある程度上階級の教育が進んだら、学校でも建てるか。教育の充実は国の発展に欠かせない。Knowledge is powerとも言いますし。さて、ではお望み通りまずは日本語をやりますが、最初に言っておきますね。私の母国語は発音こそ単純なものの、極めて複雑で難しい言語です。覚悟はいいですね?」
「無論! ニホン文化、楽しみにしておるぞ。それでは、会議はこれで終いとする」
「え……」
もし、本題が教育の依頼だけだとして、自分が今後の展望を語ったりしなければ、この会議は十分とかからずに終わってしまっていたのではなかろうか。だとしたら、全員を集めるには、あまりに拍子抜けであっただろう。
「どうかしたか?」
「いえ、別に……あっ、そうだ、ちょっと待って!」
せっかく集まったのだ。何かお願い、特命を与えたかった。ような気がする。
「…………」
「どうした?」
「……えっと、ノクト、フォラス、レイエルピナ、テミス、そして我が秘書。ちょっと話したいことがあるから、着いてきてくれないか?」
「いや、その必要はない。お呼びでない吾らは、すぐに退室するとしよう。仕事もあるでな」
エリゴスやゴグらは、空気を読んでそそくさと退室していった。ベリアルは自分が呼ばれなかったことが不満げであったようだが、渋々と出て行った。




