96.初めての口づけ
何かが光を遮り、覆い被さってくるのが瞼の奥からでも分かった。
緊張で引き結ばれたアナスタシアの唇に、柔らかい感触が伝わってくる。
ブラントに口づけられているのだと理解したアナスタシアの頭の中は、真っ白になってしまう。
唇から熱が注ぎ込まれているかのように、燃え上がるような熱さが広がっていく。
まるで時が止まったかのような、あるいは永劫とも思われる時間が流れたように、時間の感覚がアナスタシアから失われていた。
アナスタシアの顎に添えられていたブラントの指が離れ、今度は両手でそっと頬を挟まれる。
そして、ブラントの唇が離れていった。
アナスタシアがおそるおそる薄く目を開けると、まだ間近にブラントの顔がある。
本当に口づけられたのだと、夢心地のままアナスタシアはぼんやりしていた。
「アナスタシアさん……もうちょっと力を抜いて……? そのままだと続きができないから……」
そこに、ブラントから熱を帯びた声で囁かれ、アナスタシアは混乱する。
続きとはいったい何のことだろうか。
唇と唇を触れ合わせる口づけは、今ので終わったわけではないのだろうか。
それとも、何回か連続で行うという作法でもあるのだろうか。
様々な疑問が浮かんできて、アナスタシアは錯乱状態に陥るが、そんなアナスタシアに構うことなく、ブラントの顔が再び近づいてくる。
そのとき、甲高い警告音が鳴り響いた。
アナスタシアもブラントも、びくりと身をすくませる。
表情が抜け落ちたブラントの顔がアナスタシアから離れ、ブラントは無言で何かを取り出す。
それは、魔王エリシオンからもらった通信用の魔道具である水晶玉だった。
水晶玉はチカチカと光りながら、耳障りな音を発している。
「……何か?」
あからさまに不機嫌な、ブラントの低い声が響く。
だが、水晶玉から返答はなく、代わりにまるで断末魔のような悲鳴が響いて、光も音も消えてしまった。
これまでの甘い雰囲気も、それを邪魔されたことによる苛立ちも、全てが消え失せたように、ブラントは愕然と立ち尽くしている。
アナスタシアも先ほどの混乱は消え、背筋に冷たいものを覚えながら、光の失われた水晶玉を見つめる。
まさか、魔王エリシオンの身に何かあったのではないだろうか。
アナスタシアとブラントは顔を見合わせる。
「まさか……何かあったんだろうか……」
「そんな……魔王を倒せるような相手なんて……」
前回の人生の記憶でも、魔王を倒せるような相手などいなかった。
せいぜい勇者シン率いるパーティーくらいだったが、今はまだ勇者シンが現れておらず、パーティーメンバーの一人だったアナスタシアもここにいる。
しかも、前回の人生での虚無だった魔王とは違い、今の魔王エリシオンは生きる気力があり、いざとなれば本気を出すことも厭わないだろう。
もし今の魔王エリシオンでも勝てない相手がいたとすれば、アナスタシアの手に負える相手ではない。
何かの手違いだと思いたく、こちらから連絡できないだろうかと試してみるが、水晶玉から反応はない。
魔力は通り、発動しているので、相手側の返答がないということになる。
「どうしたんだろう……」
「……魔王城の様子を見に行ってみますか?」
二人は【転移】で魔王城の一室へと飛んだ。
先日、転移場所として設定され、好きに使えと与えられた部屋である。
だが、部屋の様子は先日と変わりがないようだった。
廊下に出てみるが、特に変わった雰囲気はない。
魔王エリシオンの結界の存在も感じ取ることができて、揺らぐことなく、しっかりと強固な結界が張られていた。
「特に異常はなさそうですね……」
廊下を進みながら、周辺にある扉をノックしてみるが、返事はない。
そっと開けようとしても、鍵がかかっているのか開けることはできなかった。
結局、何の収穫も得ることができず、図書室の隠し部屋に戻ってくる。
「……他に、魔王に連絡をつける方法といったら……ダンジョンコア……?」
ダンジョンコアに異変があると、魔王は感じ取ることができるらしい。
浄化装置の役割があることを知った今では砕きたくはないが、衝撃を与えるなどして、どうにか知らせることはできないだろうかと、アナスタシアは考える。
まさか魔王エリシオンが倒されたとは思いたくない。何らかの事故で、通信用の魔道具が破損しただけと思いたかった。
もっとも、魔王が持っている通信用の魔道具を破壊するという時点で、かなりの手練れに襲われたとしか思えず、無事であるかは疑問だ。
「うん……ダンジョンコアがわかっている場所といったら、近場の初級ダンジョンかな……」
ブラントも頷く。
とにかくじっとしていられず、二人は近場の初級ダンジョンに向かってみようかと、図書室の隠し部屋を出て外に向かう。
すると、学院の門のあたりで息を切らせたホイルがやってくるのが見えた。
「あ、いたいた! 先輩!」
ブラントを見て、ホイルが近づいてくる。
アナスタシアもブラントも足を止め、何事だろうかと訝しむ。
「迷子のじいさん見つけたんだけどさ、先輩のじいさんなんだって」
「はい……!?」
あっさりともたらされたホイルの言葉に、アナスタシアもブラントも信じられない思いで声を上げる。
「いや、すげえな、あのじいさん。さすが先輩のじいさんだけあるな。馬車に轢かれたんだけど、無傷なんだよ。何かが壊れたとか言ってたけど」
さらに続くホイルの呟きで、アナスタシアとブラントはがっくりと体の力が抜けていった。
ブラントは安堵の後に怒りが襲ってきたようで、俯きがちに拳を握りしめ、ぷるぷると震えている。
アナスタシアも、初めての口づけという甘い雰囲気を壊されたことによる、やりきれなさがわき上がってくるのを感じていた。






