44.まだ殺したことはない
「それにしても、ブラント先輩もあんな風に怒りますのね。ちょっとびっくりしましたわ。落ち着いた方という印象でしたから」
対抗戦が始まるのを待ちながら、レジーナが思い出したように呟く。
「普段は穏やかだからね。でも、実は結構好戦的だから……」
「穏やかで礼儀正しいけれど、冷淡だというのがブラント先輩の評判でしたわよ。売られた喧嘩は買うけれど、自分から売るような労力はかけない、とも。あと、表情が変化に乏しいという話もありましたわね」
レジーナの言葉を聞き、アナスタシアは首を傾げる。
穏やかで礼儀正しいのはわかる。売られた喧嘩がどうのというのも、確かにそうかもしれない。
だが、冷淡だとか表情が乏しいというのは、思い当たらない。
「……初めて会ったときから、表情は豊かだったような気がする。冷淡だと感じたことはないかな」
「それ、ステイシィだからですわよ。どうでもよい相手に対しては評判どおりの方だと思いますわ。ステイシィは愛されていますわね」
どことなく呆れ気味な生温かい笑みを浮かべながらそう言われ、アナスタシアは言葉に詰まる。
「……えっと、その……あ、始まるよ!」
何と言おうか迷っていたところで、ちょうど対抗戦が始まるようだった。
これ幸いとばかりに、アナスタシアはそちらに意識を向ける。
舞台の上には、いきなり最初からブラントとホイルが出てきた。
対戦相手は二年生の男子生徒二人組のようだが、アナスタシアはよく知らない相手だ。
遠目にも、足がすくんでいるのが明らかだった。
「さすがに、無関係な対戦相手には手加減するよね……?」
だんだん心配になってきて、アナスタシアはぽつりと呟く。
そのようなアナスタシアの不安をよそに、開始の合図が響いた。
すると、ブラントが腕を組んだ状態でトン、と片足を踏み鳴らす。
その途端、怯えながらも術式を構成しようとしていた男子生徒二人組が、その場に崩れ落ちた。
ブラントが【麻痺】を使ったのだ。
相手の自由を奪い、動けなくする魔術だ。かける側の魔力よりも魔力抵抗力が高ければ、行動不能になることはないのだが、男子生徒二人にはしっかり効いている。
ブラントの魔力にかなうはずがないのだから当然だろう。
だが、手荒な方法ではなかったことに、アナスタシアは安堵する。
もちろん動けなくなれば失格なので、これで決着が着いたことになる。
「……先輩! 死にかけてる! 早く解いてやれよ!」
ところが、そこにホイルの慌てた声が響いた。
よく見てみれば、男子生徒二人は倒れたまま顔面蒼白になって、泡を吹いている。
どうやら【麻痺】の力が強すぎて、呼吸まで止めてしまったようだ。
「ああ……手加減はしたけれど、ここまで弱いとは思わなかった」
ブラントは面倒そうに呟くと、もう一度軽く片足を踏み鳴らした。
すると、男子生徒二人が激しく咳き込み出す。
体は動くようになったはずだが、起き上がることもできずに倒れたまま、もがいている。
自力ではまともに動けないようで、ややあって男子生徒二人は会場係によって運び出されていった。
「次」
ブラントは運び出されていく男子生徒二人には目もくれず、腕を組んだまま、一言言い放つ。
「先輩……これ、総当たりの勝ち抜き戦じゃねえよ……」
ぼそりとしたホイルの声は、風に流されて消えていく。
アナスタシアは、これはダメだと額を押さえた。
手加減していることはしているのだろうが、足りない。明らかに、冷静さを欠いている。
こういうところは魔族らしさがあるのかもしれないと、アナスタシアは現実逃避気味に、妙な納得もしていた。
「えっと……棄権します……」
「俺も……」
今の戦いにもなっていなかった戦いを見て、参加者たちが続々と棄権していく。
やがて、もともと少なかった参加者たちは、モルヒを残して全員降りてしまった。
「な……何が……」
「坊ちゃんも、棄権したほうがいいんじゃないですか」
愕然とするモルヒに、家臣の男がやる気なさそうに声をかける。
「お……お前がどうにかしろ……学生くらいはどうにかなると言っていただろう……」
「今の魔力見たでしょう。あんなの規格外ですよ。私なんざ、足下にも及びませんね。あれ、三年首席のブラントでしょう? 学院始まって以来の天才とか言われている、あの。なんであんな化け物に喧嘩売ったんですか?」
「ぼ……僕が喧嘩を売ったわけじゃない……あいつから……」
モルヒと家臣の男がひそひそと話しているところに、ブラントは冷たい眼差しを向ける。
「ごちゃごちゃ言っていないで、さっさと上がってこい」
ブラントが吐き捨てると、渋々ながらモルヒが家臣の男を従えて舞台に上がってきた。
「二人一組のもう一人って、そのおっさん……? 学生じゃねえよな……?」
眉根を寄せながら、ホイルが家臣の男を眺める。
「あー、いちおうここの卒業生なんだ。個人主催の対抗戦は在学中っていう規定がないから、抜け道なんだよね。それを使って、自分だけの力じゃ勝てないから、卒業生を利用しようっていう汚い魂胆に巻き込まれたってわけ」
あっけらかんと家臣の男は答えた。
「おい……」
「ちなみに、この対抗戦自体も、坊ちゃんを優勝させるために、わざと不人気にして仕組まれたものでーす。知っている人間にとってはたいした意味もないけれど、知らない人間には『個人対抗戦優勝』って言ったら凄そうに聞こえるからね」
モルヒは家臣の男を睨みつけるが、彼は何食わぬ顔でネタ晴らしをしていく。
「汚ねえな……あんたも、そんなんでいいのかよ」
「嫌に決まっているだろう。でも、上に仕えている者として、従わないといけないんだよ。ただ、仕組めるのは舞台に上がるまでのことで、舞台の上では単なる実力勝負だから、これ以上は何も残っていないよ」
ホイルがうんざりしながら問いかけると、家臣の男は飄々とした様子で答える。
「……俺は、そんな事情なんてどうでもいい。さっさと始めよう。覚悟はいいか?」
まったく興味のない素振りを見せながら、ブラントは無表情で問いかける。
ホイルがおろおろとした様子で、ブラントとモルヒたちを見比べ、視線をさまよわせていた。
「先輩……殺さないでくれよ……」
「大丈夫、殺したら失格だってことくらい知っている。俺はまだ対抗戦で人を殺したことはないんだ」
「……突っ込みどころの多い、安心できないセリフだな……。おっさん、あんただけでも棄権したほうがいいんじゃねえの?」
ため息を漏らしながら、ホイルは家臣の男に同情の眼差しを向ける。
「いやいや、気持ちはありがたいけれど、そういうわけにもいかない。仕事は仕事だからね。給料分はいちおう働かないと」
だが、家臣の男はきっぱりと断った。
そして蒼白になって立ち尽くしているモルヒとは対照的に、術式を構成するための準備を始める。
その姿を遠目に眺めながら、アナスタシアは彼がかなり戦いなれていることを察する。
実戦経験の乏しい学生では、たとえ彼より多少魔力が高かったところで、おそらく勝てないだろう。
ホイルでは彼にかなわないだろうと、アナスタシアは予想する。
だが、相手をするのは多少どころか、圧倒的に魔力が高いブラントだ。
「……ふうん」
アナスタシアがブラントの様子を窺うと、彼は少し興味を引かれたように、家臣の男を眺めていた。
仏頂面だった口元が、ほんのわずかに緩んでいる。
そして、開始の合図が鳴った。






