175.ひとつに
アナスタシアは前回の人生のことを、淡々と語った。
魔術学院を休学して、勇者のパーティーメンバーの一人として旅に出たこと。
ダンジョンコアを砕いて、知識と力を吸収していったこと。
虚無となった魔王を倒して呪いを受け、勇者シンと妹ジェイミーに裏切られて死んだことも、フォスター研究員が魔物化して殺されたことも、全て話す。
ブラントはアナスタシアの話を、じっと黙って聞いていた。
やがてアナスタシアが語り終えると、ブラントは長い息を吐き出す。
「……とんでもない話だけれど、むしろ納得したよ。アナスタシアさんの知識や強さは、通常では考えられないようなものだからね。俺が告白したときに泣いたのも、これでやっと腑に落ちたよ。魔物化して死ぬなんてなったら、それは泣くね」
どことなく呆然としながらも、ブラントはアナスタシアの話を受け入れた。
「あのおじいさまが倒されるなんていうのも想像がつかないけれど、もう投げやりになっていたんだろうな。どうやらその世界の俺は、おじいさまとは会っていなかったみたいだし。そういえば、アナスタシアさんと俺は会っていないの?」
「私は遠くからブラント先輩を見かけたことはありましたけれど、ブラント先輩は認識していなかったと思います。当時のブラント先輩は、私にとっては雲の上の存在ともいえましたから」
「ええ……アナスタシアさんを認識していなかったって、その世界の俺、馬鹿じゃないの? それは死んでも仕方ないな」
あまりにも辛辣な言い草に、アナスタシアは苦い笑みが浮かんでくる。
当時のアナスタシアは首席でもなく、目立たない生徒の一人でしかなかった。
図書室の隠し部屋の存在も知らず、接点がないのだから、三年首席のブラントに認識されないのは当然だろう。
「それで、アナスタシアさんをひどい目に遭わせた勇者シンっていうのが、さっきモナラートで襲いかかってきた男を倒した奴なんだね。で、目的がよくわからない、と……。そうだ、思ったんだけれど、その世界の俺って魔力回路を損傷していたんだろうか?」
「当時は接点が無かったので、私にはよくわかりません……ただ、確かブラント先輩は学院祭の対抗戦に出ていなかったと思います」
「そうか……多分、アナスタシアさんに会っていなかったら、俺はあのままジグヴァルド帝国の宮廷魔術師になっていたと思うんだよね。でも、その世界では研究員になっている。対抗戦にも出ていないっていうことは、魔力回路を損傷していたのかもしれない」
腕を組んで考えながら、ブラントは呟く。
「前に魔力回路を損傷したことがあっただろう。アナスタシアさんが治してくれたけれど、実はあのとき、もう普通には治らないものと思っていたんだ。だから、研究員になって治療法を探そうかという考えも浮かんでいた」
「ということは、おそらく似たような時期に魔力回路を損傷して、それによって対抗戦にも出られなくなり、宮廷魔術師になるのをやめて研究員になったと……?」
「その可能性が高いと思う。だから、勇者シンって奴も俺が魔力回路を損傷していると思っていたんじゃないかな」
ブラントの言うとおりだとすれば、辻褄が合う。
そして、それが正しければ、勇者シンの知識はすでに食い違いが出ているということになる。
「その世界では、アナスタシアさんのセレスティア聖王国での立場も変わっていなかったんだよね。でも、今は違う。色々なことが勇者シンの知識とは異なっているはずだ。向こうが多くの知識を持っていたとしても、もはや役に立たないものも多いだろう。決して、負けているわけじゃない」
その言葉で、アナスタシアははっとする。
勇者シンが絶対的に優位な立場にいると、錯覚してしまっていた。
だが、これまでアナスタシアは未来を変えようと動いてきていて、実際に前回の人生とは色々変わってきている。
父であるセレスティア国王、ジグヴァルド帝国第三皇子、そして魔王エリシオンという、強力な相手との繋がりもできているのだ。
前回の人生でのパーティーメンバーだったベラドンナとグローリアとも、今回の関係は良好といえる。
むしろ優位な立場にいるのは、アナスタシアのほうかもしれない。
今回の人生で目覚めてから、アナスタシアが未来を変えるべく頑張ってきたことは、決して無駄になっていない。
それなのに、自分自身でそのことを認められていなかったのだろう。
つい最近もエリシオンから自己評価が低いと指摘されたばかりだったが、本当にそのせいで現状を見誤ってしまったようだ。
「俺の中では、勇者シンは完全な敵だよ。アナスタシアさんを恋人にして、しかも裏切るなんて、今そいつが生きているのも許せないくらいだ」
何より、今は側にブラントがいてくれる。
前回の人生のことを打ち明けたアナスタシアを、頭がおかしいと片付けることもなく全てを受け入れて、その上で共に立ち向かってくれようとしているのだ。
「恋人といっても、それらしいことは何もなくて、手を繋いだことすらろくにありませんでしたから。誰からも相手にされなかった私に、優しい言葉をかけてくれたというだけで、信じ切ってしまって……私が馬鹿だったんです」
勇者シンとの仲を誤解されたくなくて、アナスタシアは何も無かったことを強調する。
それでも恋人だと思っていた。いや、思いたかった過去の自分の愚かさに、アナスタシアはうんざりしてしまう。
「アナスタシアさんは悪くないよ。悪いのは、アナスタシアさんにかけられた呪い、そして勇者シンというクズ野郎と、そんな奴にみすみすアナスタシアさんを渡してしまったその世界の俺だ」
どこまでもアナスタシアを甘やかし、ブラントはアナスタシアを抱きしめる。
広い胸に顔を埋めていると、アナスタシアは不安が薄らいでいく。
規則正しく脈打つ心臓の鼓動が、心を落ち着かせてくれるようだ。
先ほど魔力回路を見せようと上半身の服を脱いだブラントはそのままの姿で、肌の温もりが直接、アナスタシアに伝わってくる。
気恥ずかしさもあるが、それ以上に心地よくて、アナスタシアもブラントの背に腕を回してぴったりとくっつく。
「……アナスタシアさん?」
いつまでも張り付いたまま離れないアナスタシアに、ブラントは戸惑いの声をあげる。
「離れたくないんです……いっそ、このままひとつになってしまいたい……」
アナスタシアは何も考えず、心に浮かんだそのままを呟く。
その途端、ブラントが固まった。心なしか、アナスタシアの耳に聞こえてくる心臓の鼓動も早まったようだ。
「アナスタシアさん……それ、意味わかって言ってる?」
掠れた声で囁かれ、アナスタシアはびくりとする。
もしかして今の言葉は、誘うものだったのではないかと気付き、焦りと恥ずかしさで顔が燃えるように熱くなってしまう。
後先を考えず、思い浮かんだことをただ言ってしまった。
前回の人生のことという、これまでずっと秘密にしていたことをさらけ出して、全てが無防備になっていたのかもしれない。
「好きな子にそんなこと言われたら、理性なんて保てないよ。本当に、いいの?」
熱っぽい囁きが耳をくすぐり、あまりの恥ずかしさでアナスタシアはブラントの顔を見ることができない。
「はい……」
それでも勇気を奮い立たせ、アナスタシアは消え入りそうな声を絞り出す。
何も考えずに言ってしまったからこそ、先ほどの言葉はアナスタシアの本心ということだろう。
不安もあるが、どうせいずれは通る道なのだし、世の中の恋人や夫婦がするようなことで恐ろしくないのだと、己に言い聞かせる。
すると、ブラントの顔がアナスタシアに近づいてきた。
口づけだと思ったアナスタシアは目を閉じ、受け入れる。
これまで何回も口づけは交わしているのだし、怖くない。少し安心したアナスタシアだったが、唇を舌でなぞられて余裕など吹き飛んでしまう。
そのまま深く口づけられ、アナスタシアの頭は真っ白になる。このようなことをするなど、想像もできなかった。
すでに心臓が破裂しそうなほど激しく鼓動し、最後まで心臓がもたないのではないだろうかと、アナスタシアは気が遠くなっていくようだった。






