172.勇者シン
「一人ではなく、待っているだけなので。他の方を誘って下さい」
アナスタシアはきっぱりと断る。
だが、若い男はニヤニヤとした笑みを崩さない。
「待ってるのって、女の子? だったら、その子も一緒に……」
「失せろ」
さらに誘いを続けようとした若い男を、不機嫌そうな低い声が遮る。
ブラントが戻ってきたのだ。
両手に食べ物と飲み物を持ったまま、冷淡な眼差しを若い男に向けている。
「ちっ……なんだ、男連れかよ……」
ブラントに睨まれた若い男は、怯みながらも悪態をついて、そそくさと立ち去っていく。
「アナスタシアさん、大丈夫だった?」
「ええ、大丈夫です」
心配そうなブラントに、アナスタシアは微笑みながら答える。
あの程度の相手が何かしようとしてきたところで、アナスタシアの敵ではない。それはブラントもわかっているはずなのに、心配性なことだとくすぐったくなる。
「色々買ってきたから、食べよう……っ!?」
気を取り直して口を開きかけたブラントだが、突然、真剣な表情になって横に飛び跳ねる。
すると、そこに先ほどの若い男がナイフを突き立てようと、ブラントの後ろから突っ込んできたのだ。
ブラントにかわされて若い男はたたらを踏むが、体勢を立て直して今度は正面から斬りかかる。
「殺してやる……!」
若い男は、完全に正気を失った目をしている。
その動きも素人とは思えず、何かに操られているかのようだ。
ブラントは後ろに飛び退いてナイフをかわそうとするが、両手が塞がっていることもあり、わずかにナイフが届いてしまった。
服の胸元が切り裂かれるが、肌までは届いたか届かないかといったところだ。
攻撃後の隙をつき、すぐにブラントが蹴りを放つ。
若い男はまともに食らい、弾き飛ばされて地面に転がった。そして、気を失ったのか、そのまま動かなくなる。
「ブラント先輩、大丈夫ですか!?」
突然の凶行に驚きながら、アナスタシアはブラントに駆け寄る。
いきなりナイフで切りかかってくるとは、まともではない。
しかも、最初にアナスタシアに声をかけてきたときは、決して強そうには見えなかった。
それなのに、ブラントに襲い掛かったときの動きは素人離れしていた。
単なる酔っ払いで、調子のよい若者という印象だったが、何かがおかしい。
「だいじょ……う……」
安心させるように微笑もうとしたブラントだったが、途中でふらついて倒れそうになってしまう。
ブラントの顔は真っ青になっていて、アナスタシアは愕然としながら、ブラントを支える。
大きな怪我はしていなかったはずだが、まさか毒でも塗られていたのだろうか。
「ころ……す……」
そこに、倒れていた若い男が起き上がり、再び向かってこようとしていた。
アナスタシアの心には怒りが燃え上がる。手加減なしで魔術を放ってやろうと、術式を編み上げていく。
「ぐわっ……!」
だが、アナスタシアが魔術を放つよりも早く、若い男が倒れた。
倒れた若い男を踏みつける姿があり、ナイフも取り上げてしまう。
「よし、魔族殺しのナイフ回収。これで一通り終わりかなあ」
場にそぐわぬのんきな声が響く。
その声を聞いた途端、アナスタシアは心臓をわしづかみにされたような恐怖を覚え、体が小刻みに震え出す。
まさか、そのようなはずがないと己に対して必死に言い聞かせようとするが、恐ろしくて声の主を見ることができない。
それでも、今回の人生では彼とは初対面になるのだから、恐れる必要はないのだと、アナスタシアは自分に言い聞かせる。
どうにか震えを抑えようとしながら、アナスタシアは顔を上げようとした。
「あれ? もしかして、フォスターくん……? こんなところにいるとは思わなかった。このナイフにやられたのなら、ダメージくるだろうなあ。今回はフォスターくんを殺す必要ないのに……」
だが、ぶつぶつと呟く声が聞こえ、アナスタシアは顔を上げることなどできず、震えも止まらなくなってしまう。
ブラントを抱きしめながら、俯くだけだ。
今、彼が呟いた言葉で、アナスタシアは彼が知っている相手そのものであることに気付いてしまった。
まさか過去に戻ってきたのは自分だけではなかったのかと、アナスタシアの頭の中は真っ暗な恐怖に埋め尽くされていく。
「そこのお嬢さん、早く治療してあげたほうがいいよ。元が丈夫だろうから死なないと思うけれど、その人、魔力回路を損傷しているんでしょう? 無理したら危ないよ」
そう言い残し、声の主は去っていく。
ブラントは魔力回路の損傷などしていないはずだが、それすらもまともに考えられないほど、アナスタシアは混乱する。
体の震えは未だに止まらないが、それでもアナスタシアは勇気を振り絞って顔を上げ、去っていく姿に目を向ける。
そこには、かつて見慣れた勇者シンの後ろ姿があった。
港町モナラートから出航する船に揺られながら、シンは甲板で一人佇んでいた。
「……まさか、フォスターくんがいるとは思わなかったな。魔族殺しのナイフを持った奴が操られて人を襲うのは知っていたけれど、その相手がフォスターくんだったとはね」
海に向かって、シンは独り言を呟く。
「一緒にいた子、美人だったな。何となく見たことがあるような気もするけれど……よくわからないなあ。どっかですれ違ってでもいたのかもしれないね」
くすりと笑うと、空を見上げながらシンは目を細める。
「綺麗な空だなあ……前回はとんでもない目に遭ったから、今回は気を付けないと。二回目は半年早くスタートになったのはいいけれど、聖剣を手に入れるまで無茶はできないしなあ……必要な材料の準備と資金集めに専念するか。もう、神龍エンドはごめんだからな……」






