121.影の魔王
見上げてみれば、黒い翼を広げた魔族が宙に浮かんでいた。
黒髪に黒い瞳、整ってはいるがどことなく不健康そうな青白い顔の、アナスタシアが前回の人生でも見たことがない相手だ。
アナスタシアとブラントは身構えるが、エリシオンは悠然と立ったままだった。
「こ……こいつだ……いつも、使いに来ていた奴だ……本当に、魔族……」
ドイブラー伯爵が宙を見上げながら、震える声で呟く。
「……ギエルか」
感情の窺えない声で、エリシオンが相手の名を呼ぶ。
「……私ごときの名を魔王さまが覚えておいでとは、驚きですね」
ギエルと呼ばれた魔族は、目を見開いて感嘆の吐息を漏らす。
「ダンジョンコアを与えた相手の名くらい覚えておる。だが、まさかそなたとは思わなかったがな」
「私のような力無き下位魔族など、魔王さまにしてみれば存在を忘れていて当然でしょう。注意を払う必要などない、虫けらでしかない。だからこそ、こうして目立たず進めることができたのですけれどね」
どこか小馬鹿にしたように語るギエルは、卑屈な言葉とは裏腹に魔王エリシオンを前にして、まったく引く様子がない。
その言葉と態度にちぐはぐなものを感じて、アナスタシアは背筋がぞわぞわとしてくる。
「魔王さまのような、生まれながらの強者にはわからないでしょう。強さこそが価値である魔族において、弱い私は価値のないみじめな存在でした。ですが、魔族というのは強さに自信のある分、単純なところがありましてね。簡単に操ることができましたよ」
ギエルが得意そうな表情を浮かべる。
「魔王さまが眠っている間……いえ、その前から魔族たちを操ってきたのは、この弱い私なのです。お強い方々が私などの思い通りに動くのは、爽快でしたね。ヨザルードなど、よく動いてくれました。いわば、私こそが影の魔王とも言えましょう」
不遜な言葉が飛び出してきたが、エリシオンは表情を動かさない。
宙に浮かんでいるギエルはずっとエリシオンを見下ろす形となっているが、それに対してもエリシオンは何も言おうとはしなかった。
「随分と語るが、神龍を目覚めさせようとしているのは何故だ?」
「世界を正そうと思いましてね。影から操るのにも飽きてきました。一度浄化して、私を馬鹿にしてきた者たちもろとも全て消し去り、新たな世界を始めたいのです」
余裕のある態度を崩さないギエルだが、その言葉に隠しようのない本音が滲み出ているのを、アナスタシアは感じ取る。
影から操っているのだと己を満足させようとしても、他者から馬鹿にされ、貶められる立場は変わらず、本当の意味で満たされることはなかったのだろう。
気に入らない者たちを滅ぼしたいのか、それとも自分よりも強い者が全ていなくなれば、己が一番になれるという思いからなのか。あるいは両方かもしれない。
「神龍を目覚めさせるには、魔王さまに死んでもらうのが手っ取り早い。魔王さまのダンジョンコアもどこかに隠してあるのでしょう? いずれこの世を焦土と化してから、ゆっくりと探し出して魔王さまの知識も私が受け継ぎましょう。魔王の役割は受け継いで差し上げますので、どうぞご安心を」
「言いたいことは、終わったか?」
恍惚とした表情すら浮かべるギエルに対し、エリシオンは冷淡に尋ねる。
するとギエルの顔から表情が剥がれ落ち、徐々に苛立ちが浮かび上がってきた。
「せめて最期に言い分くらい聞いてやろうと思ったが、もうよいだろうか」
「なっ……今の話を聞いて、何か言うことはないのですか……!?」
「特に何もないな。どのような言葉をかけてほしかったのだ?」
エリシオンは不思議そうに首を傾げる。
「もっと、弱い者の声に耳を傾けても……」
「弱い者が儂に挑むのか? そなたは強者でありたいのだろう? 都合の良いときだけ弱者というのは筋が通らぬ。強者として、潔く散れ」
堂々とした声でそう言い放つと、エリシオンの纏う雰囲気が変わった。
威圧感が膨れ上がり、近くにいるアナスタシアにもビリビリと空気が震えるのが伝わってくる。
だが、すぐにでも攻撃に移るかと思われたエリシオンは、訝しげな表情を浮かべて立ち尽くす。
「……やはり、魔王さまにも効きましたね。この瘴気は、黒い翼の魔族は影響を受けませんが、銀の翼を持つ者の力を著しく削ぐのです。翼を出せないでしょう?」
ギエルは安堵を浮かべ、余裕を取り戻す。
魔王でありながら、エリシオンの翼は銀色で、黒に染まっていない。
エリシオンの様子から、ギエルの言うとおり翼を出せないのだろう。
「この瘴気こそ、魔王さまを倒すための切り札です。昔、たまたま発見したときから、ずっと改良を重ねてきました。イリスティア姫も、この瘴気の前には無力でしたよ」
この言葉で、これまでほとんど表情を動かさなかったエリシオンが、唖然とした顔になる。
そして、徐々に怒りが浮かび上がってきた。
「……イリスティアを殺したのは、貴様か」
これまでの関心が無さそうな態度から一転して、エリシオンの声が憎悪に彩られる。
「直接手を下したのはヨザルードですが、間接的にはそうですね。まともに戦えば、いかにイリスティア姫が子供をかばいながらで、相手がヨザルードといえども、そう簡単に殺せはしなかったはず」
エリシオンの憎悪を心地よさそうに受け止めながら、ギエルは答える。
アナスタシアの隣では、ブラントも奥歯を噛みしめて怒りを浮かべていた。
魔族は本気を出して戦おうとすれば、翼を出すことになるのだという。
しかし、ブラントは母が魔族であることを知らなかった。
ということは、翼を見たこともなかったのだろう。
魔族に襲われたときにブラントをかばって亡くなったというが、命がかかっているのだから正体を隠すよりも、本気を出して応戦するのが普通だろう。
これまでもアナスタシアは何故だろうと思ったことはあったが、何か理由があったのだろうと深く考えたことはなかった。
だが、この瘴気によって、本気を出さなかったのではなく、出せなかったのだろう。
「今はさらに改良されて、イリスティア姫のときよりも効果は増しています。魔王さまにも、弱者のみじめさを味わっていただきましょう」
翼を出せないエリシオンに見せつけるように、ギエルは大きく黒い翼を広げた。






