巨像と少女
空が泣き出していた。
針のように細い雨が音もなく降ってくるその間を、少女はおぼつかない足取りで歩いていた。
彼女の衣服はボロボロに破けており、その華奢な体を隠すのに精いっぱいで冷たい雨から身を守ってやることはできそうにない。右足はむき出しになっていて、裸足で歩いてきたせいか足の裏は血がにじんでいる。
ここにきてはいけない。そう言われたのはそう昔のことではなかった。
薪が音を立てて燃える暖炉の前で、柔らかい笑みを浮かべて言った歳老いた老婆の顔を思い浮かべて、少女はゆっくりと目をつむった。
「森の向こうの丘に行っちゃいけないよ」
どうして? と少女が尋ねると老婆は少し困った顔をして、絵本を読んでいる少女に向かって手まねきした。少女は立ち上がって、椅子に座る祖母の前に行く。
「あの丘には怖い怖いお化けがいるんだよ」
「お化け? どんなお化けなの」
「大きくて、灰色で、不気味なお化けだよ」
老婆は声を低くして目の前の少女に半ば脅すように言った。
「お前の好きなお花も動物も、全部踏みつぶしてしまうんだ」
その光景を思い浮かべ、少女は泣き出してしまった。
やりすぎたかな。と後悔しながら老婆は目の前でぽろぽろと涙をこぼす少女の頭をなでた。
「ごめんごめん。怖かったかい」
まだ目を隠して泣いている少女に優しく語りかけると、意外なことに少女は首を横に振った。
「違うの。お花がかわいそうで」
言った少女を、老婆は目を丸くしてしばらく見つめていたがふっと笑みをこぼすと、またしわくちゃな手のひらで、少女の頭をなでた。
「そうだね。かわいそうだね、でもねそのお化けは願い事を一つだけかなえてくれるらしいんだよ」
「おばあちゃん。私そのお化けに会いに行く」
顔をあげて言った少女の表情は、幼いながらも決意が感じられた。
「会って、お花をいじめないようにお願いする」
「だめだよ。お前さんが危ないじゃないか。もし踏みつぶされたりしたら私はたまらないよ」
でも。としぶる少女に、老婆はゆっくりと口を開いた。
「じゃあ大人になったら会いに行きな。そうすれば踏みつぶされないかもしれないから。だからそれまではここにいておくれ。そしてきっと、お化けに言い聞かせてやっておくれ」
それを聞くと少女はぱっと表情を明るくして、うんと力強くうなずいた。
そして老婆に飛びついた。
老婆の痩せた肩にしがみついて少女は期待に胸を膨らませる。
「約束。おばあちゃんも一緒に行こう」
「ああ。約束しよう」
老婆の肩が小さく震えているのに気づくには、少女はあまりにも幼すぎたのだった。
走馬燈のような風景は、瞬きをする間に通り過ぎて行った。
目をあけると、薄暗い緑色が視界に広がっていた。いつの間に倒れたのか、頭を抱えながら少女は立ち上がる。
そして周りを見渡す。
一面が緑に覆われている。世界にポツンと一人だけ立っているような感覚に、少女は胸を抑えつけた。
まさに老婆を失った感覚とそれは似ていた。
それでも少女は重たい足を前に進める。戻る気はなかった。戻れる可能性はないことを、どこかで知っていたのだ。
全身の熱が雨によって奪われ、少しでも自らを暖めようと腕を抱え体を抱きしめる。その役目は老婆のものだったのだが、今はもう、いない。
老婆が死んだのは、冬の寒さが本格的に訪れる前のことだった。
ひっそりと眠り続ける老婆に、色の薄い朝日が射していた光景を少女はまだ覚えていた。
慌てて呼んできた近所の村人は、険しい顔をして老婆をそして少女を見た。
「おばあちゃん、なんで起きないの」
「いいかいよく聞きな。おばあちゃんはもう起きないんだ」
訳もわからず少女は老婆の体にしがみつく。ひどく、冷たかった。
おばあちゃん寝たふりなんかしないでよ。いつもいたずらするなっていう癖に。
ねえ。なんで返事しないの? お願いだから、なんとか言って。
涙を流すことも忘れて叫ぶ少女を、村人たちは見ていられず目を背けた。それと同時にきっと、少女に訪れる未来からも見て見ぬふりをしたのだろう。
厳しい冬が訪れた。今年は雪は少なかったが、それでもどこの家にもよそにやる食糧があるはずがなかった。
何日も何日も、水を飲んで膝を抱えて夜を明かした少女はある日、立ち上がった。
そして何かに取り付かれたようにふらふらと老婆と話をした丘に向かって歩き出したのだった。
どのくらい歩いただろうか。少女はかすむ目をこすり、目の前の光景を呆然と見つめている。
原っぱの真ん中、そこには少し不思議な光景が広がっていた。
何もなかったはずの平原に大きな何かがひっそりと佇んでいる。少女は小さく息を吸って灰色の塊に向かって進んでいった。
「あなたがお化け?」
時間をかけて、その塊にたどりついた少女は紫色に染まった唇を動かした。
問いかける少女に、その巨像は返事を返さなかった。ただじっと背を向けているだけだ。少女は焦って口を開く。
「お願いがあるの」
そう言うと少女はその場に崩れ落ちた。足が震える。もう立てない。言いたいこといっぱいあるのに。
悔しくて、老婆との約束が守れないのが悔しくて、少女の瞳から涙が零れ落ちた。
その時だった。
――お腹、痛いの?
なんの前触れもなく聞こえた声に、少女は勢いよく顔をあげる。そしてあちこちを見渡した。もちろんその声の正体は、見つからない。
戸惑いながら少女は大きな大きな巨象を見上げた。雨が目に入り、目をつむる。
「お腹痛いの? 大丈夫?」
聞こえた。はっきりと。
それでもにわかには信じられなかった。その声はあまりも幼くて、あまりにも純粋で、そしてなにより少女の中で完成されていた巨像のイメージとかけはなれてたからだ。
「大丈夫。全然痛くないよ」
「でも、泣いてるよ」
大丈夫。と繰り返して目をごしごしと擦っていると、大きなものが動く音がした。少女が目をあけると、そこにはあの巨像がこちらを向いていた。
老婆の言うとおり、巨大で荘厳な雰囲気をまとった巨像だった。しかし、少女の目にはとても無機質なものにか感じられなかった。
体中に植物や苔が生えているせいか、それとも長年風雨にさらされているせいで、体に角張りがないせいなのかわからないが。
ただ少女には、この巨像が命を踏みつぶしながら生きているとは思えなかった。
「ここでなにをしているの?」
少女は尋ねた。単純に不思議だったからだ。
「待ってるの」
幼い少年の声で巨象は言った。やはり不思議なことに、口らしきものは見当たらない。ごつごつした顔には小さな緑色の目がついているだけだ。
巨像の声は心に直接響くようだった。
「誰を?」
少女の質問には答えず、巨像はゆっくりと巨大な手を少女の上にかざす。つぶされるのかと思い、少女は強くまぶたを閉じる。
しかしいつまで待っても何も起きない。
恐る恐る目を開くと、確かに手のひらの巨大な影が少女を覆っていた。でもそれは、決して少女を攻撃するわけではなく、反対に冷たい雨から少女の冷え切った体を守っているようだ。
「寒いから、泣いてるんでしょ」
心なしか巨像が微笑んだ気がして、少女もつられて笑う。かちこちに固まった少女の表情がほんの少し暖かくなる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
穢れを知らない少女が、初めて友だちと出会った瞬間だった。
それから少女は巨像に守られながら、いろいろな話をした。
おばあちゃんのこと、村のこと、自分のこと、大好きな食べ物、季節、すべて話した。話し終わる頃には雨は止んで少女の声は枯れ果てていた。
そして少女の命の灯火も少しずつ、燃え尽きようとしていた。
「ねえ、お嬢さん。村の人たち憎くないのかい」
「なんで?」
巨像の足に背中をあずけて体を支えることでやっと座っていられる少女に、巨像は語りかける。
「だってお嬢さんにひどいことしたんでしょ。ご飯も何にもくれなかったんでしょ」
少女はゆっくりと首を横に振る。顔にはうっすらと微笑を浮かべて。
「いいの。仕方ないんだよ。それに、ほんとはみんな優しいんだよ」
「でも……」
「冬はね、みんなの心が凍えちゃうんだっておばあちゃんが言ってた。でもね、冬が過ぎて雪が溶けたら春になるでしょ。そしたらみんな、また優しくなるんだって」
そよ風にも負けそうなくらい小さく、そっと吐き出す少女の声を巨像は黙って聞き取っていた。
「私は幸せだよ。おばあちゃんに会えて、みんなに会えて、優しい巨像さんにも会えた。すごくすごく幸せ」
少女の言葉に巨像は少し戸惑う。しかしついにその言葉を告げた。
「僕は優しくないんだ。ずっとずっと昔、戦争にいってたくさんの仲間や人間を殺した。それが嫌になって、僕は逃げてきたんだ。だから全然優しくなんかないんだよ。それに何の願いも叶えられない」
巨像の告白を少女は目を閉じて聞いていた。
すべてを聞いた後、そっと目を開ける。しかし栄養が十分でなくなった少女の瞳にはもう、暖かな日差しも巨像の姿も映らない。
「ねえ巨像さん。私に触ってみて」
差し出された棒切れのように薄くなった少女の腕に、巨像は戸惑いながらもそっとその巨大な指をくっつける。
すると少女の腕に、巨像の体に巣くっていた一匹のリスが走って移動し、少女の首元に優しく大きな尻尾を巻きつける。この一匹のリスも、少女の友だちだった。
「あったかい」
「え?」
「巨像さんの指先、とってもあったかいよ」
光を失った瞳で少女は必死に巨像の姿を探す。
「昔の巨像さんは悪かったかもしれない。でも私が知ってるのは今の、優しい巨像さんだけだから。それにね……」
ぐっと歯を食いしばる。リスが心配そうに短く鳴いた。
「私のお願い叶ったから。巨像さんが優しくなってくれるのが、私の願いだったから」
食いしばっていた歯の力が緩む。
少女の全身の力が、徐々に抜けていく。
「だからね。ほんとうに、ほんとうに私と出会ってくれて」
少女の瞳に柔らかな光が差し込む。
「ありがとう」
その瞬間、少女の呼吸は静かに止まった。弱弱しく脈打っていた心臓の鼓動も、動くのを止めた。そして少女は、一面の花畑の向こうに旅立った。
巨像の声にならない泣き声が、草原に悲しくこだました。
それから春がやってきた。
緑が芽吹き始めた草原の巨像の元に村に住んでいる一組の夫婦がやってきた。少女の身の心配をして春が来たのを見計らってやってきたのだ。
「申し訳ありませんが」
恐る恐る話しかける夫婦をゆっくりと巨像は見た。
「ここに幼い女の子がこなかったでしょうか」
「来ましたよ。もう行ってしまいましたが」
パッと夫婦の表情が明るくなる。
「どちらへ行ったでしょうか。私たちはあの子にひどいことをしたのすごく悔やんでいます。だから、せめて罪を償わないと」
頭を下げる二人に、そっと巨像は道を譲った。巨像の先に見えた光景に、夫婦は言葉を失う。
色とりどりの花びらが、小さな穴に敷き詰められているようで、その中に何があるか予想した女性は、その場に泣き崩れる。男性は静かに帽子を胸に当てて悔しそうに歯軋りした。
「罪滅ぼしなんていりませんよ」
巨像はポツリと呟く。
「彼女は笑って、幸せだって言って逝きましたから……だからあなたたちで、幸せに暮らしてください」
ごめんね。と言って泣く女性を見て、巨像は想う。
少女が選んだのは、愚かだったのだろうか。賢かったのだろうか。
わからない。
でもそれでいい。そう少女は笑う気がした。私はこれで幸せだって微笑む気がした。だから、それで良いのかもしれない。
巨像は空を見上げる。どこまでも澄んで、遠くて、深い色の空だった。
「ほんの少しだけど、きみに会えてよかった」
少女の屈託のない笑顔を思い浮かべ空に飛ばした。
「だから、僕からもありがとう」




