お風呂に入ろう
吾輩はキングである。下界歴は二年と三ヶ月。
最近になって住まいが変わり、一年余り世話になった檻からも解放された。
新しい住まいはとても広い。
吾輩のために飯を食べる部屋や、仮眠をするための部屋まで用意されたのだ。
『これを素晴らしいといわずに、なんといおうか!』
「こら! テーブルに登るなって何回言わせるの!」
む。
人がせっかく悦に浸っていたというのに、なんと無粋な。
しかしボス……付き人からは「ママ」とか「ヨメ」とか「ツマ」などと呼ばれているが、いろいろな顔を持っているのだろう。そんなヤツに吾輩が敵う見込みもなく、渋々、演説台から降りた。
「ほれほれーっ。お風呂行くよー! よっちゃんはお風呂が大好きでしょー?」
「ヨッチャン」というのは、下界で使われている吾輩の名称である。以前は「ハラチャン」と呼ばれることもあったが、今はもう呼ばれることはなくなった。どう使い分けられていたのかは興味がないので知る由もない。まぁ、吾輩ともなると仮の姿の一つや二つ、あってしかるべきものだろう。
しかし、いつの間に風呂好きと認定されてしまったのか。ボスともあろう者が認識をたがえるとはいただけないものだ。
ただ、ボスのニヤニヤとしたいやらしい顔つきや、両手をワキワキヌルヌルと動かす様は悪くない。
ボスが楽しそうだと吾輩もつられて楽しくなってしまう。
不本意ながら、こちらもつられて笑ってしまうのだ。
「こちょこちょこちょーっ! ほーら、脱げ脱げーぃ!」
ボスは吾輩の体をまさぐりながら、いとも簡単に押し倒した。
それもそうだろう。ボスの体は吾輩の倍ほどもある巨体なのだから。
その巨体から伸びる巨大な手で、着ている服を次々とはぎ取られていった。
「ぎゃはっ! ぎゃはははははっ! あぁあーっ! っぎゃっ、ほっ、んふふふふ!」
腹がよじれそうで抵抗もできず、吾輩はたちまち一糸まとわぬ姿となる。
この瞬間は苦しいが、この展開は願ってもないことだった。
『リミッター解除おぉぉぉ!』
これで本来の力が発揮できるというものである!
「よし! よっちゃん。オムツ、ゴミ箱にポーイしてきてください」
『あ、はい』
やれやれ。
本来の姿になった途端に指令とは、相変わらず人遣いが荒い。
基本的にボスはいいヤツだが、こちらの話がまるで通じないのは困りものだ。
コミュニケーションは基本だというのに、全く……こんなボスについて行こうという稀有な輩は、吾輩くらいだろう。
経緯はどうあれ、ボスから直々に与えられた任務だ。クールにやり遂げるのが吾輩の美学である。
大量の水分を含んだそれを、指先でつまみ上げた。
狙いを外さぬよう、慎重に箱の位置を確認するのがコツである。
外したら最後、吾輩の命は恐らく、ない。
それくらい、ボスから与えられる任務は重要なのだ。
だが、今日のブツはやけに重たくなっているではないか……!
『くそっ! 水分補給の容器を新調してはしゃぎすぎたか?』
重みでぷるぷると腕が震え、狙いがなかなか定まらないが、そろそろ限界だった。
こうなったらやるしかない。
できなければ、やられるのだ。
吾輩が降り立った下界は、そういう世界なのだから。
「ぽーいっ」
ポスッ。
腹をくくって投げ入れたブツは見事、箱の中へと収容された。
今回は本当にハードな任務だった。
『だが、まぁ……吾輩の手にかかればこんなもんさ』
鼻を指でくいっと拭い、意気揚々にボスの元へ駆け寄る。
「よっちゃーん! ゴミ箱にちゃんとポーイできたね! 偉いぞー! 天才だー!」
ボスは満足そうに拍手をしたあと、熱烈な抱擁で吾輩を迎えた。
加えて頬ずりというオマケまでついている。
『よせやい、ボス。おだてたって何も出ないぜ』
照れくさくはあるが、ボスから褒められるのは悪くない。
手厚い歓迎に口元が緩んでしまう、その瞬間だった。
「さあ! 待たせたなっ。お風呂タイムだ。キレイキレイしようねーっ」
「ぅあ! あああぁあああっ!」
しまった!
吾輩としたことがすっかり失念してしまっていた。
先ほどの任務はあくまでも付属品。
本当の戦いはこれから始まるのだ……!
『水は飲むものであって、人にぶっかけるものじゃないだろぉがあああっ!?』
いくらボスの手前とはいえ、吾輩にも苦手なものはある。
あの蛇口から噴き出る大量の水が、全身に降りかかるのを想像するだけでも身の毛がよだつ。しかも勢いが強くて痛いのだ。
必死に抵抗を試みるも時すでに遅し。
手際よく服を脱いだボスの小脇に抱えられながら、ひんやりとした風呂場に運ばれた。
脱出を図るも、ボスの目が警戒に光かっているうちはすべて徒労に終わってしまう。
『もう少し、腕力があれば……くそっ!』
悔やんでいる間にボスが風呂場に入ってくる。万事休すだ。
ボスは一度決めたことは情け容赦なく必ず実行する。
躊躇なく蛇口に手をかけると、大量の水が降ってきた。
「あひっ、いめたぃっ!」
「すぐにあったかくなるからねー。ガマンしてねー」
冷たいだけならまだいい。この水は鞭に打たれているかのような痛みが走るのだ。
まあ、鍛えて鍛えぬいた吾輩の鋼の肉体には関係のない話だが。
それでも痛みに耐えることはできても、長年刷り込まれてきた恐怖心はなかなか克服できるものではなかった。
がっちり目をつむり、視界を遮ることでことをやり過ごす。
抵抗しても無駄だ。したところでボスの腕力を目の前にしては、事態が悪化するだけである。
吾輩はただただボスの言葉を待っていた。
「よし。キレイキレイおしまいっ! よっちゃん、よくがんばりましたっ」
きたーーーーーー!!
この言葉! この言葉である!
ボスのこの一声で地獄のような時間が終わるのだ。
歓喜する吾輩にボスはにこにこしながら頭を撫でる。
「じゃあ、ママが先にふきふきしてくるから、よっちゃんはちょっとだけ待っててねー」
「うん!」
意気揚々と返事をしてボスを見送った。
その直後である。
『な……んだ……?』
突然、腹部に激痛が走る。
痛みをやり過ごそうと踏ん張っていると、下腹部の痛みは間もなくして引いた。
だがその瞬間、異様な臭いが鼻につく。
『なんだ……この臭いは……?』
あろうことか臭いは背後から襲ってくる。
この激臭の正体を探ろうと風呂場を見回すと、吾輩の直ぐ後ろにその物体は落ちていた。
『奇襲だとっ!?』
思わずその異物から距離を取る。
『吾輩としたことが、この至近距離で敵の気配に気づかなかっただと……!?』
いつの間にかそこに落ちている茶色い塊。
風呂場には窓がないにもかかわらず、どこのどいつが、どうやってこの物体を投げ入れてきたのか。
神経を研ぎ澄ませてみても、ボス以外、人の気配は感じられなかった。
とにかくこの臭いはまずい!
このままではボスの身も危ぶまれるかもしれない。
幸い、事態に最初に気がついたのはボスではなく吾輩だ。
とにかくボスに知らせなければ……! このままではボスまで身を危険にさらしてしまう。
『ボス! 有害物質だ! ボスっ! 逃げるんだっ! このままだとボスまでもが……。頼む、ボス……気づいてくれっ……!』
「よっちゃん? 急にどうしたのー?」
力の限り声を張りあげる吾輩に、少し慌てた様子でボスが風呂場に顔を出した。
しかし説明するよりも早く、ボスが風呂場の異変に気がつく。
「くっっせ!? ありゃ、よっちゃん! おっきいの出たの!?」
『こいつは危険だ! ボス! 迷うことはねえ、吾輩に構わず逃げてくれっ!』
「こんなところで……。せっかく洗ったのに……あー、でもまぁ、オムツを節約できたと思えばいいのか……」
吾輩の訴えはきちんとボスに届いているのだろうか。
要領を得ない会話に不安になったが、イレギュラーなことが起こったという認識はしているようだ。
大きなため息をついたあと、ボスは吾輩の前から思いのほかあっさりと姿を消す。
もしかしたら助けてくれるかもしれない。
そんな淡い期待をしてしまったが、ボスがそんな無駄なことするはずがないのだ。
ボスはこの組を牛耳る存在だ。吾輩のような若輩者に構っている暇はない。
吾輩は猛省した。
ボスを守るのが吾輩の務め。務めを果たして朽ちるのなら本望である。
『せめて……この有害物質を始末してからっ!』
強烈な臭いにひるみつつも、塊に手を伸ばしたそのときだった。
「よっちゃん!? 触らないよ!?」
突然降りかかってきた言葉に、身体が硬直する。
ハッとして声のする方に目を向けると、慌てた様子のボスがいた。
片手には大量の布が巻きつけてある。
まさかそんな軽装で有害物質に挑もうというのか!?
『いくらなんでもそれは無茶だっ!』
素手で退治しようとした吾輩が言っても説得力はないかもしれないが、無茶である。
しかし吾輩の抗議など気にも留めることなく、ボスはゆっくりと、布を装備していない別の手を差し伸べた。
「お、落ち着いてよっちゃん。ママを見て。おっきいのは見ない。……すぐそっちに行くからね」
ボスは吾輩から有害物質を遠ざけつつ、吾輩の傍まで着てそっと片腕で抱きしめる。
絶対的な安心感からか、ついギュウっと抱き返してしまったが、それどころではないのだ。
『なぜだ? ボス……、どうして戻ってきたんだ。このままだとボスまでもが……』
ボスの身を守ろうと腕から抜け出そうとするが、焦る吾輩をなだめるようにポンポンと背中をさすられる。
その手はまるで「心配ない」と語ってくれているようだった。
「じっとしててね」
念を押すような笑みとともに発せられた言葉に、吾輩はおとなしくするしかなかった。あの言葉には「余計な手出しは一切するな」というボスの意図が含まれている。
ボスが啖呵を切ったのだ。
吾輩は信じて待つしかない。
吾輩から離れると、ボスはためらうことなく装着していた白い布の上から有害物質を掴んだ。素早く浴室から離れると、外からジャーっと音が聞こえる。ほどなくして戻ってきたボスは浴槽の清掃作業に入った。
ボスの手の装備が解除されているところから、問題はすべて解決したのだろう。
『ボス……あんたってやつは吾輩のために、身体を張って……』
「うっ……うっ……んああああああぁぁああっ、あううううぅうう!」
ボス……! あんたってヤツァ……!
吾輩は一生、あんたについて行くぜ……!
「大丈夫だよー。泣かないよー。またキレイキレイしようねぇ」
なん……だと……?
ボスは今なんと言った?
吾輩の聞き間違いであってほしいと期待しながら、恐る恐るボスを見上げる。
ボスはにっこりと、先ほどと変わらぬ笑顔で吾輩を見つめていた。
後ずさりする吾輩よりも早く、ボスは再びシャワーを浴びせる。しかもお尻に直撃コースだ。
『お尻は嫌だぁああああ!! ついでにシャワーももう勘弁してくれええええ!!』
吾輩の叫びは虚しく風呂場に響き渡るだけであった。
妻から「風呂場で子どもがどや顔でう●ちした」と、元気よく報告されたため書いてみました。