行間Ⅱ
そもそもの転落の始まりはどこからだったのだろう。
私はかつて、確かに幸せだった。
なら私の幸せは、いつから壊れ始めていたのだろう。
いつから不幸と絶望の坂道を転がり始めてしまったのだろう。
幸せな日々の中、おとうさまとおかあさまを裏切り、全てを壊してしまったあの日だろうか。
両親を失い、父方の親類からは忌み子として見放され、引き取ってくれた母方の親類の悉くを虚言で不幸にしてしまった時だろうか。
それとも方々をたらい回しにされた挙句に孤児院に引き取られ、施設の人々からさえも恐れられ、自身の醜悪さと救いようのない怪物性を正しく理解できたあの時だろうか。
……最後の最期、行きついた絶望の果てに私に手を差し伸べてくれた心優しき夫婦の希望をも破壊してしまった、あの瞬間だろうか。
どれも否。何故ならそれはあらかじめ決まっていた予定調和の悲劇で不幸で絶望なのだから。
だから、全ての不幸の始まりが何時かと言われれば、それはきっと月夜の晩。
八月の十五夜のこと。
私の人生における最大の失敗。転落の始まりは、すなわち私が私として生まれてきてしまったことだろう。
どうして私だったのだろうか。
どうして私は瑠奈=ローリエでなければならなかったのだろうか。
どうして私は『宵闇に浮かびし狂気の朧月』なんて役回りを持って生まれてしまったのだろうか。
どうして私は、生まれてしまったのだろうか。
生まれたのが私でなければ、私じゃない私だったなら、おとうさまもおかあさまもお義父さんもお義母さんも誰もが不幸にならずに済んだのに。
私の人生は生まれた時点で終わっていた。
その幸せは始まる前から終わる事が決まっていた。
幸福を終らせ不幸をまき散らす事を確約された存在。
月明りは偽物だから。太陽の光を反射させ、輝いているように見せかけている嘘つきだから、月明かりは関わる人全てを惑わせ破滅へ導く不吉な光にしかなれやしないのだ。
それが瑠奈。
私みたいな不吉な魔女は生まれた瞬間に見限られて当然なのに、それでもおとうさまとおかあさまは私を愛してくれた。お義父さんとお義母さんは私を娘だと言ってくれた。
みんなこんな私を愛して育ててくれた。こんな私を大切だって言ってくれた。遊んでくれた。一緒にご飯を食べてくれた。手をつないでくれた。子守唄を歌ってくれた。一緒に寝てくれた。勉強を教えてくれた。褒めてくれた。頭を撫でてくれた。守ってくれた。抱きしめてくれた。愛してるって、何度も何度も何度も何度も何度も何度も言ってくれた。私を幸せにしてくれた。私はちゃんと幸せだった――
――そのハズだったのに。
与えられた愛情も幸せも、その全てをぶち壊したのは私だ。
私は私の大切なモノをいつだって裏切り、壊してきた。これまでも、そしてこれからも、どれだけ抗おうとも、その運命はきっと変わらない。変えられない。運命を決める神様とやらの決定なのだから、ただの人間でしかない私にはきっとどうしようもないのだと、私はこの一年でそう思い知らされ続けたのだから。
理性が諦める事を拒否しても、感情が抗うことを望んでも、乖離してしまった身体と心は思うように動かない。
故に私の転落の始まりは、私が私として生まれ落ちたその瞬間。
生まれてきたことが全ての過ちであり罪だというのならば。
きっと私は、今すぐにでも終わるべき存在なのだと思う。
それでも私は私を惰性に引き延ばす。
このまま私を決めつけた神様の思惑通りになるのが悔しいから。
死んで終わりだなんて逃げているみたいで嫌だったから。
負けっぱなしで終わるのは性に合わないから。
最期の瞬間まで私は誰かが勝手に決めた私に抗うって、そう誓ったのだから。
そんなもっともな御託を並べ、諦めないふりをして自分を誤魔化して、最後まで抗ってやるだなんてそんなことまで言ってポーズを取るのだ。
私は私らしく、眉を吊り上げ肩肘張って孤高を気取ってかっこを付けて生き足掻いてそして――
――結局私は、『設定表記証』に抗って死ぬことさえできない、ただの情けない臆病者だった。




