第四章 愚者なる道化の反逆譚 chapter 5 見せつけたるは千変万化がその神髄、お前を討つは熱き血潮
――あぁ、大切な人の腕が、今、目の前で食い千切られた。
耳朶を打つ叫喚。耳を塞ぎたくなる歯が肉を砕く生々しい咀嚼音。心を掻き乱す血の涙。絶望を彷彿とさせる鮮血の噴霧。己が正義を声高だかに叫ぶ狂信者の哄笑。
その全てに思い出すのは、刻み付けた過去の記憶。
絶対に忘れてはならぬと誓った、敗北と絶望。
そして復讐に再起した地獄だ。
それは、孤児院で手を差し伸べられて聖道家の一員となり一年が過ぎ去ったある日の事。
瑠奈=ローリエはその光景を、義母に押し込められた戸棚の扉の隙間から眺めていた。
瑠奈を引き取った彼ら夫婦は、『救済神ヴィ・クワイザー』に仕える神官達のトップでありながら、この国の在り方と人々の生き方に疑問を抱いていた。
だからそれを共に変えたいと、与えられた役回りに苦しむ人々を救いたいと、瑠奈に希望を差し伸べてくれた人たちだった。
けれど、その希望に縋った事こそが全ての悲劇の引き金となったのだ。
瑠奈が自らの役回りに抗い逆らおうとしている事を義兄が知られた事がきっかけとなり、その悲劇は起きた。
優しかった義兄は激変し、瑠奈を罪人と断じ殺そうとしたのだ。
瑠奈は必死で逃げた。怖かった。恐ろしかった。優しく穏やかで自分を実の妹のように愛してくれた義兄が、自分を殺そうとした。
向けられた刃に、足が震え身が竦んだ。
そして、実の息子から瑠奈を隠した義父と義母が、必死に息子を説得しようとする最中、眩すぎる正義の光に隠されていた彼の影の狂気が牙を剥き――扉の隙間から世界を伺う糸のような瑠奈の視界が、深紅に染まった。
「なぜ、だ。修羅……おまえ、は……ここまで…………っ、ごぷっ、バぁ……っ!?」
「アナタ……? いや、そんな。アナタ、なんで、胴体がない? ねえ修羅、どこ。お父様の胸もお腹も脇腹もどこにやったの!? いや……こんなのいや、いやぁアァアア!!」
「……すみません、父上。母上。俺がもっとしっかりしていれば、お二人を間違った道へ進ませ、罪人へ貶める事もなかったのに……! 今、俺が助けます。今俺が救います。だから、安心して見守っていてください。アナタたちの自慢の息子は、アナタたちの意思をついで、必ずや人類を救ってみせますから……ッッ!」
血が飛散し、悲鳴とすすり泣きと怒号が成り響く。
我が子へ許しを請う哀れな女の悲鳴が耳朶を揺する。
慈悲を求める嘆きが零れ落ち、悲痛な断末魔に胃の中身全てを嘔吐した。
――咀嚼する。
咀嚼する。咀嚼する。咀嚼する。咀嚼する。咀嚼する。咀嚼する。咀嚼する。咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼ッッ!!!
それは命の散華音。
恨めしい現世へ贈る生者を蝕む呪い唄。
ひたすらに肉を食む水っぽい音が脳裏にこびり付き、永久に繰り返される。気持ちが悪い。がたがたと鳴る歯がやかましく、心臓が爆発したように跳ねて、穴という穴から体液が洪水のように溢れ出した。
悍ましすぎる光景に瑠奈が震えていると、瑠奈を探していたハズの義兄が扉越しに声を掛けてきた。
最初から、瑠奈がそこにいると分かって彼はこの地獄を見せつけたのだ。
「俺は父上の後を継ぎ主席神官になるよ。君を救うのはその時だ。その時までは俺が『主席神官』になる為、この器を昇華させる為に尽くすんだ。分かったね? 瑠奈=ローリエ」
親殺しを成した義兄――聖道修羅は瑠奈を殺さなかった。
しかしそれは、単なる執行猶予。
彼は言った。自分が主席神官になるために君を利用する、と。それが終われば瑠奈もまた、義父や義母のように彼の英雄に咎人として身体の隅々まで咀嚼されるのだ。
いずれ訪れる救いという名の死。
血肉と涙と絶望に満ちた正義と愛憎の地獄の中、それでも瑠奈は思い出す。温かな希望の言葉を。こんな自分を愛し助けようとしてくれた男の身勝手な、けれど尊い願いを。
『自分勝手に運命を決めつけるな、勝手に運命を諦めるな、自分の運命に抗えるのは――自分だけだ』。
『ああ……、約束するわ。私は絶対にヤツラの思い通りになんてなってやらないっ。どれだけ無謀で愚かでも、不可能だって笑われて馬鹿にされても最後まで抗い続けてやるッ。そして――自分の手で自分を掴み取ってみせるから――』
そうして、絶対に殺すと誓った憎き相手との生き地獄が幕を開けたのだ。
――あの誓いの日から一年が経った。
自分と世界と全てを身勝手に定めた神に抗い続ける事を誓い、最後の瞬間を迎えるその時まで孤独に戦い続けると決めた。
だがそれだけだ。
結局自分は抗っていただけで自分の設定に打ち勝つことも、この世界を定めた神に一泡を吹かせてやることも出来なかった。
復讐は果たせず、誰も裏切らないと決めた筈の心はあまりに醜く脆弱で、自分に好意を向けてくれた優しい少年を裏切り酷く傷つけ、二度と繰り返さないと何度となく誓ったハズの悲劇を今も繰り返している。
……自分の最期の瞬間が近づいている事は分かっている。
設定表記証に刻まれた死因は『捕食死』。
十六歳になった瑠奈は、次の誕生日を迎える事無く食われて死ぬ。遅かれ早かれ、抗い続けた先が諦観の終わりである事は知っていた。
諦めずに抗いながらも、きっと勝てやしないのだと心のどこかで瑠奈はずっと思って――否、そうではないのだろう。きっと、瑠奈=ローリエは他者を破滅させ続けたその代償を支払いたかった。知れずその心には、自虐的で自罰的な破滅願望が宿っていたのだろう。
だから、自分の無念の死を瑠奈は恐れながらもどこか歓喜していた。
自分という悪魔を断罪する者が現れる事を、ひたすらに待っていたのだ。
例えその死を齎す者が己の憎んだ仇であろうとも。
自分がもっとも惨めな死に方でなければ、その大罪を贖うことなど出来やしないから。
……でも。だけど。これは違うだろう?
今ここで瑠奈が抗うことを辞め、己の罪にその身を差し出してしまったら、瑠奈を助ける為に無謀にも聖道修羅に立ち向かった災葉愚憐はどうなる?
瑠奈が裏切り運命を狂わせた五人目。
凍えるこの心に人の温かさを取り戻してくれた人。
温かな言葉も、やたら馴れ馴れしい態度も、出鱈目ばかり嘯くよく回る口も、純粋な好意も、愛の告白も、その全てが嘘であって欲しいと嘘が大嫌いな少女にここまで願わせておいて、その期待全てを蹴り飛ばし呑気に無謀に喜び勇んで死地へと踏み込んだ愚か者。
瑠奈が勝手に諦めれば、あの少年は本当に『救い』と称した虐殺の餌食になるだろう。
そんな結末は許せない。そんな不条理な筋書きはもう認めない。
自分のせいで大切な人が死んでしまう理不尽な運命。そんな理不尽が瑠奈の背負った運命だと言うのならば。
その運命に抗いその結末を変えられるのは、自分――瑠奈=ローリエだけだ。
それを瑠奈は、瑠奈の心は覚えている。
……大嫌いで殺されてしまえばいいと思っていた自分が死ぬ運命を、心の底から変えたいとは思えなかった。
……復讐を誓って生き足掻いて、志半ばで惨めに死んでしまえばいい。きっと自分を愛してしまった人たちの為にも自分はそうなるべきなのだと無意識に思い込んでいた。
でも、災葉愚憐は未だ生きている。
生きてくれている。
瑠奈の運命は、彼の運命は、まだ、何一つ決まっていない。定まってなどいない。
ならば。ああ、ならばそうだ。
自分勝手に運命を決めつけるにはまだッ、最後の瞬間はまだこの命へ届いていないのならば。諦めるのは、きっと……。
その瞳から、透明な雫が一滴。零れ落ちる。
――『温い諦観に縛られていた反逆心に、熱が灯る』。『自身の中に埋没していた可能性を今、掴み取る』。『月が、反転する』。
「――私は、私を縛るこの『設定』に、アナタの為に抗えるッ。自分の手で、自分の結末を掴み取れるッ!」
抗うべき理由があった。諦めたくないと心が燃えた。
『設定表記証』更新の際に一時的に外れる『枷』は既に元に戻って瑠奈の行動を縛り、聖道修羅へ逆らう事を強くその身に禁じている。
しかし、覚悟を決めた瑠奈にとって『枷』など最早何の意味も無いのだと教えてやる。
籠の外へと踏み出すことを恐れていた弱虫な自分は、流れた涙と共にどこかへ消えた。
なら、これがきっと、瑠奈=ローリエの最期の裏切り。
そして、最初で最後の自分自身への反逆だ。
……願わくば、その結末が勝利であらんことを。
神でもカードでもない、自分自身の胸に願いを抱いて、瑠奈は頬を濡らす涙を拭いた。
失いたくない大切なモノ、瑠奈=ローリエの愛する人。
そんな尊い宝物を得た事を心の底より認めた少女の、最後の歓喜と悲哀の涙だった。
☆ ☆ ☆ ☆
――役回り(キャラクター):『宵闇に浮かびし狂気の朧月』。小アルカナ:『杯の女王』(正位置/逆位置)。大アルカナ:⒙番・『月』(正位置)。『アニムス』の干渉を確認。『自己実現への旅』の過程にて『潜在発露』発生。『役回り終演猶予期間』における『自己同一性』の獲得……は確認されず。『超人神度』評価をC→Bへ上方修正。よって『設定表記証』に変更発生。大アルカナ⒙番:『月』(正位置)を反転。(逆位置)の追加入力を開始します――
☆ ☆ ☆ ☆
……が泣いている。
点滅する意識に、頬の表情筋の引き攣りが無理やり笑顔じみた歪みを形作る中。災葉愚憐はその涙を目撃した。
零れ落ちる透明な雫は一滴。
ただ、その一滴が、災葉愚憐に血の中に沈み微睡続ける事を許さない。
……あの子を泣かせるのは誰だ。あの子って……誰だ。誰が、涙を流している。
災葉愚憐は道化だ。愚かな道化だ。道化は流れる涙を笑顔に変えなければならない筈だ。
……あの子は瑠奈だ。涙は、瑠奈の。なら僕は、僕が、止めなきゃ。瑠奈の、……あの涙を拭って、瑠奈を笑顔にしてあげなきゃ。だって、それが道化の僕の役回り――
――いや、これは本当に単なる道化の衝動か?
湧き上がるこの感情は、クソッタレの神様とやらが勝手に定めた役回りに、その立ち位置に起因するものなのか?
違う。断じて否だ。これは、この感情は断じて誰かが勝手に決め付け押し付けた偽物なんかじゃない。
演じるべき感情である筈がない。絶対に違うと、そう断言する事が出来る。
これは、瑠奈=ローリエを大好きだと叫ぶこの想いは、災葉愚憐という人間が十六年間の人生の中で初めて得た誰に穢す事も出来ない尊い感情だ。
絶対に譲れない本物で宝物だ。
ならば。
たかが片腕一つ千切れた如きの些事で、どうしてこのまま敗北を受け入れる事が出来ようか。
ここで立ち上がらずに、ここで抗わずに――この魂に刻んだ光景に対してどう顔向けできようかッ!
記憶は戻らない。この顔に醜く張り付く歪な笑顔の強制を振り払えない。
だが関係ない。
魂に刻まれ自らの手で掴んだ衝動が、理性を超越し道化に抗いこの身体を突き動かす。
災葉愚憐は知っている。覚えてなくとも確かにその魂が知っているのだ。
誰の想い通りにもなる事も無く、自分で自分を掴み取る事の尊さを。
自らの手で自らの結末を決す自由の幸福を。
引かれたレールなど糞くらえ。誰かが決めつけた自分など、知った事かと吐き捨てろ。
……だから。僕が、僕の意思で、僕の手で、あの子を……ッ、僕の大好きな瑠奈=ローリエをッ、僕が絶対に、助けるんだッ!!
命に熱が灯る。魂が、抗えと叫ぶ。
――そんな傷で立ち上がれる訳がない。今にも死にゆく身体で、何故英雄に立ち向かう。
道化の抵抗を、不撓を、不屈を、愚かと嘲弄する声。でも知らない。愚かな愚憐にはどうして不可能だと断じられるのか分からない。故に死力を尽くし立ち上がらんと拳を握る。
歪な笑顔を歪めて歯を食いしばり、地面を掻くように拳を握って――立ち上がる。切断面からドボドボと血が流れ、一段と軽くなったハズの身体は、驚くほどに鈍くて鈍重だ。
だけど、立ち上がれた。茨の道の可能性を、その手は確かに掴み取った。
――もう無理だ。やめておけ。相手は最強。立ち上がれた所で勝ち目などあるものか。
無知で無謀な愚者の奮起を、闘志を、努力を、嘲笑する声。だけど気にしない。道化の愚憐は嘲笑で心を揺さぶられない。故に、その身に宿す魔力を爆発的に練り上げ、叫ぶ。
「……腕の一本や二本、欲しいならいくらでもくれてやるさ。でも、一つだけ譲れない物が僕にはあるんだよ、聖道修羅」
視線の先、突如として立ち上がった死に体の愚憐に驚き振り返り、魂消たように動きの止まった英雄へと宣戦布告を―――逆襲の叛逆譚、その始動の合図を。
「瑠奈が泣いる。……他でもないこの僕が、道化でも愚者でもない。いま此処に立つこの僕がッ、その涙を許せない……ッ!」
告げた。
「だから英雄、あの子を泣かせた僕とお前、僕ら二人の血でその涙の代償を支払おう。変質:『死血飛沫連弾』ッ!」
腕の半ばから先が消え失せた血まみれの左腕を、災葉愚憐が豪快に薙ぎ払う。
肉と骨が覗き今も血を吹く断面から鮮血花火が打ち上がる。
深紅の血飛沫は即座に魔力を宿した弾丸へ変じて――音速超過で聖道修羅を守る『Ⅱ・調和保つ風の加護』を貫いた。
「――なッ、がァっ!?」
漏れた驚嘆は、すぐさまに痛みと衝撃に塗りつぶされた。
自身の魔力壁を貫かれ、傷一つ寄せ付けなかった鉄壁の守りが崩壊する。
血飛沫を弾丸へと変じた一撃。
命を宿した肉体の一部を贄と捧げたその一撃は、濃密な魔力を纏って魔力壁を貫き聖道修羅の肉体を穿った。
ガトリング砲というより散弾銃による一斉射じみた乱雑な弾幕。穴を穿たれ血霧が舞い、聖道修羅の態勢が後ろへ傾く中、
「瑠奈ちゃんを泣かすお前を、神が正義だと宣うのなら。僕がお前の死神となって、その罪、その正義を裁こう。行くぞ『嘆きの聖者』。お前の救済に、僕は全力で抗う……ッ!」
災葉愚憐は軽くなった鈍重な身体で大理石の床を力強く踏みしめ、英雄目掛け疾駆した。
「……くっ、郷愁の大地。赤子を揺らす母なる森。草原を吹き抜け草木を揺らす涼風の唄は高らかに、響き世界を若葉色へと染め上げん――『Ⅳ・疵瑕癒す風の音色』ッ!」
慌てて回復魔法を詠唱する聖道の身体を、心安らぐ音色を鳴らす若葉色の風が優しく包み込む。
しかし回復など許さず愚憐は一瞬でその懐へ飛び込み、噛みつくように即興詠唱。
『千変万化』の力によってこの身より流れ落ちていく自らの血潮を、変質させる。
「――変質:『滅神ノ刃/血霧の魔剣』……ッ!」
欠損した左腕から噴出し滴る熱き鮮血に形が、想いが、仮初の姿が与えられる。
その役は剣。
眼前に立ち塞がる全てを切り伏せる形。宿る想いは純然なる救済を。
愛した人の元へ、届くだけの自らの意思を。
ただの一度で構わない。〝次こそは〟と夢にまで見たその勝利をこの瞬間に掴み取れ。彼女の為に最初で最高の完膚なきまでの絶勝を!
変質した左腕に生じる伝説の魔剣は、敵の血を吸い尽すまで決して止まらぬ殺人剣。
左腕に生じた血の剣は止血の役割も担っているが、愚憐はあまりに血を失いすぎた。
どちらにせよもう長い時間は立っていられないだろう。
ボロボロの少年に与えられた時間は僅か。
手にした剣は三十秒で砕け散る紛い物。
ならば、話は簡単だ。
この三十秒で、駆け抜けろ。
時間を極限まで引き延ばせ、人生を圧縮し凝縮しろ。刹那を切り裂き時間を刻み全てを賭してこの一瞬で結末を掴み取れ。
抗い続けた反逆譚、その果てに大切な少女をこの手で救って見せろ。
相手を翻弄するように次から次へと手を変え姿を変え戦術を変え魔法を使い捨て、高速変身換装で相手を圧倒し圧勝する。
一瞬の間に魔力を爆発燃焼させ繰り広げる怒涛の攻勢による超短期決戦戦術。それこそが『千変万化』の神髄であるというのならば。
この左の剣が砕け朽ち果てるその刹那の間に、文字通りの千変万化を叩き込め。
目の前の敵を、自らの手で掴んだ嘘偽りなきこの感情を――『我』を押し通す為に、最強最大の英雄を打倒しろッ!
「――ォ、ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
神の血を求め全てを殲滅する刃でもって、災葉愚憐が一気呵成に彼の英雄へ斬りかかる。
獣のように吠えた少年に、口元から血を流す聖道修羅は――勇猛な笑みを弾けさせた。
「はははッ、なんだよ。やればできるじゃないか災葉愚憐!! そうさ。俺が倒したかったのは、正義がその全力でもって打倒すべきは、お前のような悪だッ!! ――行くぞ、反逆者。安寧秩序を破壊する者よ。神に認められし我が正義でもって、汝が心の内に巣くう巨悪を粉砕するッ!! ……瑠奈も君もこの世界も、全てまとめて俺が救おう……ッ!」
治癒を放り捨て、猛る血塗れの英雄が剣を執る。
雄叫びと共に上段から左斜めに振り下ろされる愚憐の斬撃を、豪奢な騎士剣がその刀身を左斜め下方に傾け、滑らせるように受け流す。――残り二十七秒。まだだ。
無限に加速する知覚。
燃える脳髄、焼け付く視界の中、水中を進むように愚鈍な己の斬撃や聖道の迎撃。
全ての動きを把握し、導き出すは勝利の一手。引き延ばされた時間の中、手を変え姿を変え戦術を変え魔法を使い捨て迫るは『千変万化』のその神髄。
「――変質:『死神の鎖鎌』!」
すぐさま右手を死神の鎖鎌へ。聖道の背後へ回り込むように鎖が伸び、死角より英雄の首を刈り取る死神の一閃に聖道は背筋に色濃く『Ⅱ・調和保つ風の加護』を展開。
その豪胆な精神力で一点に集中させた魔力壁は調和を促しピンポイントで攻撃を相殺、右手の変質が砕ける。
舌を打つ愚憐の足元、大理石の床が牙を剥いたのは左右の攻撃を防がれたその直後だった。
襲い来る無数の瓦礫の散弾『Ⅵ・贈るは土塊の黄金を』に対して、
「――変質:『幻獣の双翼』!」
姿を変貌させるはその背中。
生じた一対の鳥獣の翼による急上昇で、地面より降る瓦礫の雨を回避し宙返り。
天地逆さで英雄の頭上、死角を取り左の魔剣を振るうが――頭上に掲げられた騎士剣がそれを阻む。負荷に背中の翼が砕け散る。――二十二秒、……まだッ。
「『Ⅷ・疾く爆進セり炎の地奔り』ッ!」
翼を失って尚残る飛翔の勢いを利用し聖道の背後へ着地した愚憐の両脇を、炎の道が奔った。と、思ったその刹那、齎されるのは炎瞬斬撃とでも呼称すべき神速の斬閃だった。
速度のエネルギーが上乗せされた大地を砕く振り下ろしを、左の魔剣でどうにか受け止める。
威力に踏みしめた大理石が砕け、防御したにも関わらず肉体を衝撃が蹂躙する。
鍔迫り合いに身体が軋む。
圧倒的膂力に押し込まれ、眼球に自らの血の刀身が迫ってくる。
一撃の重さに膝を突き背中を反る。
どうにか弾き返そうと咄嗟に両足を巨人の脚へ変質。突如爆発的に膨張する体積の重量と勢いで押し切り、騎士剣を何とか弾き返し凌ぎ切った。
愚憐の脆弱な魔法構築が崩れ、巨人の両脚が砕け散る。――残り、十七秒。
「いいな、随分と強気な攻めだ。面白い。だがその傷でその力。いつまで持つ?」
「――お前を、倒すまでだァっ、ァアアアアアアアアアアアアアア……ッッ!」
残り時間が半分を切ろうと言う中、血を吐くような不屈の叫びが喉を震わせる。
勝負をつけるべく少ない残存魔力を爆発的に練り上げて、愚者はさらなる加速を果たす。
――それは、まるで演武じみた殺し合いだった。
血の剣が舞って騎士剣が向かい討ち、少年の姿が秒単位で移ろい変わりゆき英雄の命を狙う。その様はまさに『千変万化』。
しかし聖道修羅は愚憐の『千変万化』による超速変身換装に悉く対応し、変化する得物と間合いや斬撃の種類、質、威力、その悉くを見切り、冷静に適切に対処してみせる。
――「変質」――右手を槍へ。薙ぎ払いに刺突が押し負け距離が開く「変質」――毟り取った髪の毛を雷神の戦槌へ。投擲した重量級の一撃は発生した嵐に呑まれ強制的に変質が解除され「変質っ」右の短刀。左の魔剣。投擲の間に再度接近。リーチの異なる二刀流は英雄の変幻自在の剣技を超えられず「変質っ」日本刀、居合い斬り。神速の一閃を見切られ「変質ッ」重量で鎧ごと叩き潰すメイス「変質ッ」ベレッタM92が火を噴く「変質ッ!」騎士剣を砕かんとしたソードブレイカーが砕け「変質ッ!」宙を舞うチャクラム「変質ッ!」虎の爪を意味するバグ・ナウでの超近接戦「変質ッ!」炎の如き波打つ刀身のフランベルジュ「変質ッ!」クナイが弾かれて「変質ッ!」盾で殴打「変質ッ!」強大な戦斧「変質ッ!」ツヴァイヘンダー「変質ッ!」モーニングスター「変質ッ!」カトラス「変質ッ!!」野太刀「変質ッ!!」青竜刀「変質ッ!」「変質ッ!」「変質ッ!」「変質――
――透明な槍の刺突……目眩ましのつもりか知らないがそれは一度見たぞ! そろそろ品切れか反逆者、ならば俺が終わらせてくれるッ!」
腹を穿つ刺突ごと騎士剣に斬り払われ、愚憐の身体が決河の勢いで吹き飛ばされる。
圧倒的な武。魔法だけではない。地道で愚直な鍛錬。英雄であることを神から望まれ与えられた男の盲神不断の努力は、陳腐な善悪の概念を超越し災葉愚憐の前に立ち塞がる。
「ぐっ、まだ……負けてない。僕は、お前に勝つまでは終われないッ!」
依然埋まらぬ実力差を痛感しながら、それでも終わらないと愚かな道化は不撓を叫ぶ。
転がりながらも大理石の床に片爪を立て、歯を食いしばって噛みつくように起き上がり、すぐさま疾走を再開する。
迎撃に飛ぶ石榑の散弾が肉を打つ痛み衝撃全てを無視して、今まさに振り上げる左の一閃、最後の斬撃に全てを籠めた。
大地を轟かせる豪快な踏み込みと共に振るわれる愚者の血染の一撃に、そのような大振りが通る訳ないと、応じるように閃いた騎士剣が――鎖に絡めとられて動きを停止した。
「――ッ!」
一手前、愚憐は刺突を斬り払われるその寸前に右手の槍を硝子の鎖へと二連・変質させていたのだ。
衝動が斬り払った際に刀身に絡みついていた透明な鎖。決して強靭ではないその縛鎖は聖道の目を一瞬欺き些細な判断ミスを誘発させ、刹那の勝機を生み出した……ッ!
諦めず勝利を足掻き続けた愚かな少年が、その手で手繰り寄せた未知の結末。幾億万分の一の勝利の可能性。〝次こそは〟と定められた己の運命に抗い続けた少年が歓喜に嗤う。
「終わらないって、そう言ったッ! 聖道修羅。僕は嘘を、つかないんだぜッ!!」
「いいや、やはり終わりだよ、災葉愚憐」
――絶対的な正義の一撃が振るわれたのは、その直後だった。
「――『Ⅰ・嘆き悪断つ英雄の剣』」
嘆きの聖者の名を冠す英雄の視線が射抜いた先。
血を求める刃の切っ先が、その肌に触れるかどうかというタイミングだった。
災葉愚憐の胸に、墓標のように水晶の剣が突き立っていた。
風が荒れ狂い、バッテンを描くように、愚憐の胸元に敗者の証の十字を刻んだ。
「ごっ……ッ、あっ、げぽっ、ォ……」
――三十秒、経過。
硝子の割れるような破砕音と共に無情にも左腕の剣が砕け散る。
穿たれた大穴は二つ。
止めどなく噴き出し流れ出る液体が、依然として壊れたような笑みを浮かべる災葉愚憐の身体を真っ赤に染め上げた。
「……終わり、だね」
指が鳴り、胸に突き立つ墓標が幻であったかのように空気に掻き消える。
だが身体に空いた穴は消えない。消えてくれない。幻ではなく、紛れもない現実だった。
引き延ばされた時間の感覚が終わりを告げ、その手に残るのはもはや数えるのも飽きた敗北の感触。
狂った笑みを固めながら、絶望も抱けぬままに災葉愚憐は敗北した。
「楽しかったよ、愚憐くん。君は俺に倒されるべき悪だった。その役割を君は全うしたんだ。……だが、少しやりすぎたな。このままでは君が死んでしまいそうだし、予定変更だ。瑠奈の前に君の魂を救うとしよう――ッ!?」
彼我の勝敗が決したかに思えたその時だった。
聖道の表情にこの日最大の驚愕が浮かび、その透徹な青い瞳が見開かれる。
――災葉愚憐の身体が、聖道修羅の眼前で崩れ落ち水溜りとなったかと思うと、聖道修羅の動きを縛るようにその身体に巻き付いたのだ。
――濃密な魔力の縛鎖。……動けない。
「これは……水分身? そうか、なるほど。召喚と創造。その性質を利用すれば愚憐くんと俺の間に割り込み押し出す形で咄嗟の身代わりも作れるか。しかし、それはそれとして驚いたな。これ以上神に逆らわないように『設定表記証』に細工をしたというのに。どうやって強制力を跳ねのけたのかと思えば……嘆かわしいよ。馬鹿なことをしたね、瑠奈」
嘆き顔を上げた聖道修羅の視線の先。呆然と立ち尽くす災葉愚憐の前で、『設定』に縛られ動けないはずの瑠奈=ローリエは額にびっしりと脂汗を浮かべ、苦しげな相貌の中に勝ち誇ったような気高い笑みを浮かべて聖道修羅をねめつけていた。
彼女の足元。塵一つない大理石の床の上に、真っ二つに破かれた一枚の『設定表記証』がひらりと舞い落ちた。
それは、自らを縛る運命という名の鳥籠から飛び出し懸命に羽ばたいた臆病な小鳥の、別れを告げる尾羽のようだった。