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第四章 愚者なる道化の反逆譚 chapter 1 愚者は崖を飛び越えて

 夜の来訪を告げるような静謐な空気が流れる礼拝堂。

 ひやりと冷たい大理石の床の上を、コツコツと革靴の靴音が涼しげに響く。

 『神官』様のありがたいお話を聞く信者達の為、その部屋はかなり広めのスペースが確保されていた。


 しかし人ひとり居ないとなると、空虚さや寂しさよりも静謐さが際立つものだ。ステンドグラスから差し込む月明りは色ガラスによって色彩豊かな七色に変じ、芸術的というより神秘的な光を生み出している。

 神を敬いも信じもしない瑠奈からしても、自然と人の技術が調和し融合する奇跡的な美しさを感じさせる光景だった。

 総じて――その使用用途はさておき――瑠奈は教会という建造物が嫌いではなかった。


 現在、瑠奈=ローリエと聖道修羅は、新寧町内の住宅街から最も近い教会へ戻っていた。

 理由は一つ。早急に瑠奈を『神官騎士』へ任命する儀式を行う為である。

 瑠奈の『神官騎士』への就任は、瑠奈にとって、そして聖道にとっても悲願を果たすために必要な通過点の一つであった。


 もはや災葉愚憐などという小物に構っている暇はない。

 一刻も早く儀式を完了させるべく、聖道は労いもそこそこに儀式に必要な祭壇の準備を終らせ、瑠奈を『神官騎士』の正装である純白に赤のラインが走る騎士服へと着替えさせる。

 ここまで災葉愚憐を捕えてから僅か一時間。

 儀式魔法の準備としては破格の速度である。


「準備はいいか? 瑠奈」

「……はい、お兄様。覚悟はできております」

 

 共に祭壇へとあがり、よくできた義理の妹の素直な返事に満足げに頷きつつ、聖道は『救済神ヴィ・クワイザー』の教えが記されたシンドゥー教の経典『救済の書』を捲り、ある魔法陣が描かれた項でその手を止める。

 瑠奈は聖別されたナイフで己の右手を切り裂くと、滴る血を一滴だけ魔法陣に垂らした。

 すると本に描かれた魔法陣が輝き出し、瑠奈=ローリエを中心として半径二メートルほどの深紅の五芒星が浮かび上がる。瑠奈は腰の細剣を抜剣。光を浴び銀の刀身を赤く妖しく輝かせるその愛剣を聖道に預けると、その場で静かに跪いた。


 その姿は祈りを捧げる修道女のようにも、君主に仕える騎士のようにも見えた。

 聖道は、受け取った細剣の刀身をゆっくりと瑠奈の肩に置き厳かに唱える。


「――我らが父なる救済神よ。御身の愚息、その末席を汚す聖道修羅の名の元に奉らん。――我らが矛は安寧なる秩序の牙、我らが盾は定められし道を守護する護法の意思。汝、瑠奈=ローリエ。その身その心を賭して、この導に従い救済を信ずる守り人の列に加わることを誓うか」

「――誓います」


 肩から外された細剣の切っ先が瑠奈の正面へ向けられる。瑠奈は宣誓とともに刃に口づける。五芒星の魔方陣が祝福するように一層強く輝き、鮮やかな朱に瑠奈の顔が染まる。


「瑠奈=ローリエ。汝を我らが父、『救済神ヴィ・クワイザー』の騎士に任命し、その役に相応しき者であることをここに認めよう」


 そうしてここに一人、新たなる『神官騎士』が誕生した。

 瑠奈=ローリエにとって『神官騎士』になることは自身の野望を遂げるうえでの第一チェックポイントのようなものだ。

 事を成す為のそもそも大前提であり、これをクリアできなければその先に進めないという意味では、おそらくそれは間違っていないだろう。


 ここから先は文字通りの地獄。チェックポイントなどと言っていられるような生易しさは期待できない。乗り越えるべき壁の一つ一つが彼女の死線であり限界への挑戦でもある。

 彼女にとっての戦いは、本当の意味でこの時、この瞬間から始まると言っていい。

 長い雌伏の時を終え、これより瑠奈=ローリエの最期の抵抗が幕を開けるのだ。


 ――例え、最後にどのような結末を迎える羽目になろうとも、何もせずこのまま終わるつもりだけはなかった。


「瑠奈、ついにやったな」

「……ええ、お兄様。これもすべて、お兄様のおかげです」


 瑠奈の成長をまるで自分のことのように喜んでくれる義理の兄に微笑み返し、瑠奈は返された細剣を鞘に戻した。

 『神官騎士』になることの利点の一つは、『設定(ステータス)』に+の補正が付く事にある。職業(クラス)を得たことで瑠奈は各種魔法関連の数値が大幅に上がり、身体能力も以前より上昇している。

 人として、魔法使いとして。その器が昇華されたのである。


「改めておめでとう、瑠奈。これでいよいよともに悲願を果たすことができる。俺と瑠奈。兄妹二人で、この世界を救うことができるんだ……!」

「ええ、そうですね。お兄様。この一年間、瑠奈は本当にこの日を待ち望んでおりました」


 兄の祝福に、熱くなる瑠奈の目尻には涙が浮かんでいた。

 義理の父と母が亡くなってからのこの一年は本当に長かった。挫けそうになった朝は数えきれず、絶望に暮れた夜は数知れない。

 だがそれもここまでだ。

 今、この瞬間。心が喜びに打ち震えているのが分かる。

 胸が希望で熱く燃え滾っているのを感じる。


「瑠奈。一人の兄としてではなく『魔装騎士兵団』の長として改めて頼みたい。俺に力を貸してほしい。迷える人々を救い、世界をより良くする為に、俺と共に戦ってくれないか?」


 不敵で超然とした、英雄の笑みと共に差し伸べられた力強く優しい掌に、


「はい、お兄様っ!」

瑠奈は天使の如き満面の笑みで頷きその手を取るべく最愛の兄の元へ駆け寄って――


「死んでください……!」


 ――ずぷり。


 生々しく水っぽい音と共に、その胸に鋭い剣の切っ先が突き刺さった。



☆ ☆ ☆ ☆


 瑠奈=ローリエはフラングルド人の母と日輪人の父を両親に持つハーフだ。

 とはいえ、生まれも育ちも首都『東楽』。日輪から一歩も出たことがない、根っからの日輪人でもある。

 父の実家であるローリエ家は、開国の流れに乗じて来日し、豪商人として名を馳せた一族の末裔であり、当時の活躍とその功績が認められ異国人でありながら『日輪』にて貴族階級にまでのし上がった特例中の特例。

 現代ではその地位を失ったとはいえ、元貴族は元貴族である。 

 生まれてくる赤子は両親と祖父母の愛情をたっぷりと受けて、裕福な家庭ですくすくと育つ――ハズだった。

 けれど、現実とはえてして理想からかけ離れるものだ。


 大いなる祝福を受け、生まれる前からその幸せが約束されていた瑠奈=ローリエ。

 しかし、生まれ落ちた彼女の『設定』を見るなり、父方の親戚一同は発狂した。

 忌み子だ、神の祟りだと唾を飛ばし騒ぎ立て、瑠奈を一族の者と決して認めない親族達。

 幼き瑠奈にとって救いだったのは、信心深い祖父母とは異なり彼女の両親が生まれ落ちた瑠奈を『設定』関係なく愛したことだろう。


 瑠奈の父は祖父母の態度に怒りを露わにし、ローリエ家と対立。

 一族の恥だと罵られながら勘当され、実家との関りを完全に断ったそうだ。

 母と父と娘の三人での暮らしは貧しいながらも温かく、幸せで充足していた。


「瑠奈は君に似てほんとうに可愛いなぁ。この銀色の髪なんてまさに君とおそろいだ」

「ふふ、でも見て、瞳の色なんかアナタそっくりよ」

「ははっ、いいじゃないか。愛嬌のある子になるってことだ」

「ええ、きっとアナタそっくりの優しく思いやりのある子になるわ」

「ああ、きっと君そっくりの美しく聡明で意思の強い子にもなるよ」


 とはいえ、何もかもが順調であった訳ではない。

 実家との関りを切った結果、全ての財産を没収された父はその後も逆恨みから不当な借金まで背負わされ、それをどうにか挽回すべく身を粉にして働いた。

 母は文句ひとつ言わずに必死でそんな父を支え、自分も幼い瑠奈の面倒を見ながら内職に励みどんどんやつれていった。

 そんな両親は瑠奈を幼稚園や学校には行かせず、ずっと手元に置いて愛を注いだ。

 彼女が集団に加わることの難しさを理解し、冷たく乾いた現実に晒されることを拒んだのだ。


 瑠奈は同世代の友人などというものはおろか、家族以外の他者との関りを一切持つことなく、すくすくと健やかに悪意に触れることなく純粋無垢な少女のままに成長した。


「おとうさま。おかあさま。瑠奈、大きくなったらおとうさまみたいなお医者様になる!」

「ははっ、急にどうしたんだい? 瑠奈。嬉しいことを言ってくれちゃって、そんな風にお父さんをおだてても、プレゼントなんて出てこないぞ」

「む、違います! 瑠奈もおとうさまみたいに困ってる人を助けてあげて、幸せにしてあげたいのっ!」

「ははっ、分かってる分かってる。瑠奈は本当に良い子だなぁ。今のは少しからかっただけさ。だから我が家のお姫様、ほっぺたを膨らませないでおくれ。可愛いお顔が台無しだ」

「――瑠奈、アナタ、ご飯ができましたよー」

「「はーい! 今行きまーす!」」


 大事な箱入り娘として、張りぼての甘い幸福を惜しげもなく与えられながら育てられた瑠奈は、自分が何者なのかを知らなかった。

 知る必要もなく、幸せだったのだ。


 六年前のその日までは。


 唐突にそれは起きた。とある西洋の聖人の聖誕祭を翌日に控えた冬のある寒い日の事。


 瑠奈の母が、殺された。


「おかあ、さま……?」


 日課のお昼寝から目覚め、自室からリビングへと踏み出した瑠奈が見たモノは、赤い水溜りの中に倒れる冷たくなった母の姿だった。


「いや……いやよ。いやぁあああああああああああああああああああああああああ!!?」


 他者の幸せを奪い取ることでしか幸せになれないらしい心の貧しい強盗は、盗る物も碌にないような家に押し入ると、その挙句に少女の一番大切なモノを奪っていったのだ。


 そして、最愛の母の死を引き金に瑠奈=ローリエの張りぼての幸福は崩壊を加速させる。


 ――後日、瑠奈の母を殺した容疑で瑠奈の父親が逮捕された。


 冤罪だった。近所でも評判のおしどり夫婦なのだ。父が母を殺すなんてあり得ない。

 だが、もっとありえない事に父親が逮捕されるきっかけとなったのは瑠奈本人だった。

 気付けば瑠奈は、父が母を刺し殺す瞬間を見たなどという嘘の証言を、事情聴取に来た警官に話していたのだ。


 違う違う、違うの……! やめて、おとうさまは、おかあさまを殺してなんかいないっ!


 必死に弁明しようとすれば、口をついて出るのは嘘ばかり。

 それも、すべてを崩壊へと導く致命的な嘘。致死性のある猛毒だ。

 瑠奈はでたらめばかりを吐き出す口を必死に押さえようとする。でも止まらない、止まってくれない。自分の意志とは無関係に勝手に動きまわる舌を切り落としたいのに、それすらもできない。


 今この瞬間、大切な人を自らの手で地獄に突き落としている。それをただしく理解すると、あまりの恐怖と喪失感、取り返しのつかない事をした罪の意識に身体の震えが止まらなくなる。 

 嘘を吐きながら胃の中身もすべて吐き出し嗚咽するように絶叫した。

 だが嘘は止まらない。乖離する心と身体に、心が壊れる音がした。


 壊れた蛇口のようにボロボロと涙を流しながら、感情が壊れたように薄ら笑いを浮かべ嗚咽混じりに父が母を殺した嘘の情景を説明する自分の姿に、瑠奈は自らの中に潜む悪魔を呪い、その悪魔が自分自身であることに深く絶望した。

 そしてその後、父は取り調べの最中に急死する。

 睡眠を許さず暴行を加えるなど、警察の違法な取り調べが原因だったが、そんな事実は揉み消され、父は妻殺しの汚名を背負ったままこの世を去った。

 瑠奈は、父に謝ることすらできなかった。


 そうして少女は自身の本質、神より与えられし『設定表記証(ステータスカード)』に書かれた文字列の意味を、自分が何者であるかを十年越しに正しく理解した。


宵闇に浮かび(ロンリネス・)し狂気の朧月(ルナティック)』。


 孤高の朧月は、愛する者を嘘で惑わし運命を狂わせ破滅へ導く。


 瑠奈=ローリエは、人を愛してはならなかった。愛されてはならなかったのだ。


 ……あぁ、おかあさま。おとうさま。生まれてきてしまってごめんなさい。愛してしまってごめんなさい。愛して貰ってごめんなさい。瑠奈は、私は。良い子なんかじゃありません。みんなを不幸にする、悪い子でした……。


 母方の親戚に不幸を齎しながらたらい回しにされる中、そんな当たり前の事実に気付いた時には全てが手遅れで。

 けれど世界は。人の善意は、そんな瑠奈を見捨てなかった。見捨ててくれなかった。離してくれなかった。罵ってくれなかった。殺してくれなかった。

 行き着く果てに思えた孤児院に突如として現れた一組の夫婦が、関わる人に破滅を齎す魔女瑠奈=ローリエに希望を差し伸べてしまったのだ。


「瑠奈=ローリエさん。私達と一緒に、君を取り巻く理不尽と戦ってみないか? 大丈夫、心配などいらない。私が君を守ろう。君から私達をも守ろう。私にはそれだけの力がある。さあ、勇気を出して選択するんだ。そう、決めるのは君だ。君の運命に抗えるのは君だけなのだから――さあ、おいで。瑠奈さん。いいや、瑠奈。今日から君は私たちの娘だ」


 その言葉の意味も分からないまま、ただただ目の眩むような温もりに縋らずにはいられなかったのだ。

 恐る恐る握った男の手は大きくて逞しく、けれどとても優しかった。

 瑠奈の小さな手を飲み込むように包み返す、久しぶりに触れる人の温もりに、瑠奈は思わず涙を流した。それは雪解け水のような、冷たくも清い透明な雫だった。


 夫婦は瑠奈を養子として引き取り実の娘のように深い愛情を注いだ。

 幸せな一年だった。

 こんな自分を大切だと言ってくれた。遊んでくれた。一緒にご飯を食べてくれた。手を繋いでくれた。子守唄を歌ってくれた。一緒に寝てくれた。勉強を教えてくれた。褒めてくれた。頭を撫でてくれた。守ってくれた。抱きしめてくれた。愛してるって、何度も何度も何度も何度も何度も何度も言ってくれた。私を幸せにしようとしてくれた。なのに。


 ――そんな希望をも、瑠奈=ローリエは壊し尽した。


 ……愛してはいけないと分かっていた。愛されたいと望むことは罪だと知っていた。大切に思ってしまったら、きっとこの手でソレを壊してしまう。

 でも、それでも、これが報いだと言うのなら、どうして災いはこの身に降り掛からない。なぜ自分だけが生き残る。


 それが悔しくて、悲しくて、恨めしくて、怒り狂って壊れてしまいそうで、だから瑠奈はあの日抗い続けると誓ったのだ。

 例え抗い続けたその先が、諦観で塗り固められた無残な最後になろうとも。


 ――自分の命がもうじき尽きることは知っている。

 だから、もう誰も愛さないと決めたこの心は不動で、最後の瞬間まで抗うと決めた想いは揺るがないでいられる。


 けれど、もし。

 そんな私がそれでも最後に裏切る人がいるとしたらそれは、きっと――



☆ ☆ ☆ ☆



 どばっ、どばばばと流れ落ちる粘性に富んだその液体は、まごう事なき人の血だ。


 赤く紅い、どこか重たい色をした朱色は、生命の証。温かな命の奔流が、生じた風穴より流れ落ちて大理石の床をマーブル模様に汚し染める。

 胸のど真ん中。心臓を掠めるような形で突き立てられた刃は、即死には至らずともあまりにも致命的。あと数分と持たずに死に絶える重傷だった。


 聖道修羅は、わなわなと唇を震わせて、ふるふると首を横に振る。


「なぜ……なぜ、だ。どうして、……瑠奈……一体、なんでこんな……」


 目の前の光景が、妹の裏切りが理解できないのか、聖道の口から零れる言葉はひたすらに疑問形だった。

 しかし、無常に溢れる赤い血は、無感情に現実を告げている。


「どうして、どうして、どうしてどうしてどうして――」


 理解できない。我慢できない。耐え切れない。堪えきれないと言った調子で、聖道修羅はその燃えるように透徹な瞳を見開き口を大きく引き裂いて、


「――どうしてこの程度で正義の英雄(おれ)を殺せると思ったんだ? 瑠奈?」


 カラン、と。空虚な金属音が場に響く。聖道の足元に、瑠奈=ローリエが神速の早業で抜き放った細剣が、行き場を失って転がり落ちていた。


「……ごふっ」


 唖然とした表情で口から泡混じりの血反吐を吐く瑠奈を、聖道は首を傾げ本当に意味が分からないと言いたげな表情で眺めている。

 当然、その胸に剣は突き刺さっていない。

 胸当てを貫通した半透明の幻想的な刃に、純白の騎士服にじわりと赤が広がる。


 遅れて痛みが現実に追いついた。


「ご、がぁっ、あぁ……! あああああああああああああああああああああああッッ!?」


 杭の如く大理石より屹立する水晶の剣によって、瑠奈はその肢体を貫かれ縫い止められていた。

 胸の中心を穿たれ生じた巨大な風穴から、流血が止まらない。

 生命の危機に瀕した自身の身体に、事前に張り巡らせた回復魔法の術式が起動。

 瀕死の瑠奈の命を繋ぐべく、膨大な魔力を消費して傷の修復を開始する。


 しかし今も胸を貫かれ続けている瑠奈にとって、それは苦痛を引き延ばす地獄でしかない。

 苦しみ喘ぐ瑠奈の姿に、聖道修羅は額に手を当て悲嘆に暮れるように表情を歪める。

 その姿は、最愛の妹の傷つくさまを見て涙を流す悲劇の英雄。

 嘆きの聖者そのものだ。


「……悲しい事だ。妹の胸に刃を突き立てなければならないなんて、かつての俺なら悲劇の前に挫けていただろう。だが、俺はもう立ち止まらないぞ。残酷な現実がこの身この心を引き裂こうとも絶対に諦めない。救われぬ魂がある限り、神が救済をお求めになる限り! 何度だって立ち上がって見せる。それに、これがお前を救う為に必要なら尚更だ。胸を引き裂くこの痛みも甘んじて受け入れよう。瑠奈も、兄の苦心を分かってくれるね?」


 問いかける声は柔らかで優しげで、こちらを見つめ細まる瞳は慈愛に満ちている。

 その血が滴るような温かな善意に、瑠奈=ローリエは心の底からの恐怖と嫌悪を抱いた。


 理解不能だ。意味が分からない。分かる訳がない。この男は、正気のままに狂っている。

 暴力よりなお悪辣な正義を自儘に振りかざし、それを善だと盲信するこの男とその正義は、瑠奈=ローリエという魔女が関わるまでもなく、どこまでも狂い壊れて破綻していた。

 拷問じみた痛みに泣き叫ぶ瑠奈を安心させるように、聖道は愛おしげにその頭を撫でながら優しくその耳元で言葉を囁く。

 悍ましい感触に鳥肌が走る、怖い、嫌だ、気持ち悪い。しかし既に拒絶を叫ぶ力もない。


「大丈夫。安心していい。急所はギリギリ外してある。回復魔法が得意な瑠奈なら死にはしないだろう。――もっとも、他のことに魔力のリソースを回した途端、回復が間に合わなくなるように工夫はさせて貰ったよ。でも分かってくれ、今瑠奈に抵抗されると少しばかり面倒なんだ。これもすべて瑠奈を救うため。至らない兄を許してくれ……!」


 痛みと出血のショック症状で気を失いそうになる瑠奈を、回復魔法が強制的に現実に繋ぎとめる。気が狂いそうな痛みから、瑠奈は逃げることすら許されない。

それが、瑠奈=ローリエという罪人に相応しい罰なのだと、彼女が破滅に追い込んだ人々が嗤っている気がした。


「どう……、して……」

「ん、なんだ。どうして奇襲がバレたのか分からない――そんな顔をして。気になるのかい、瑠奈。けど、これはそんなにおかしいことか?」


 この日、この瞬間の為だけに瑠奈はこの一年間を生きてきた。

 絶対に失敗は許されない。聖道を殺す事が出来るのは、瑠奈が『神官騎士』になった瞬間『設定』の更新により忌々しい『枷』が少しの間外れるこのタイミングしかなかった。

 これは聖道修羅も知らない、後付けで『枷』を何度も書き加えられてきた瑠奈だからこその経験と、一年間の試行錯誤の果てに気づいた空隙だ。

 瑠奈は自身がその秘密に勘づいた事を悟られぬよう細心の注意を払い、聖道の前では心が折れた振りをして、従順な義妹を演じ続けてきた。

 それなのに。


「お前の兄である俺が気付かない訳がないだろ? 『設定表記証ステータスカード』の更新によって後付けした『設定』が一時的にリセットされる瞬間を狙っていた事くらい分かっている」

「そ、んな。全部……気づ、いて……」


 瑠奈の一年間が全て無意味だったと告げられ、瑠奈は絶望に頭が真っ白になる。

 そんな放心状態にある妹の心情など構いもせず、聖道は落ちた細剣を瑠奈の鞘に戻してやると優しく残酷な言葉を紡いだ。

 それは大切な観賞用の人形を綺麗に着飾ってやるような仕草に似ていた。


「長い一年だった。だがその苦痛もこれで終わる。さあ、瑠奈。お前の罪を清算する時だ」


 長い一年だった? 苦痛がこれで終わる? 一体どの口がほざくか。少なくとも、瑠奈に苦しみを与え続けた張本人が、聖人のような笑みと共に口にしていい言葉ではなかった。


 怒りと屈辱に、今まで必死に押し隠してきた殺意と憎悪が溢れ出し、この刃が二度と届かないであろう無力感と悔しさ至らなさ申し訳なさと罪悪感に襲われる。

 負の感情を燃料に自身と世界への絶望という炎が赫怒となって瑠奈の胸を攪拌し、感情が爆発せんとして――


「安心してくれ、罪を犯した咎人だからと言って、決して見捨てないし諦めない。なにせ瑠奈は俺の大事な妹だ。父上母上同様、俺がこの命に代えてでも、絶対に救ってみせるよ」


 瑠奈の全てを否定し陵辱するような呪いの救いの言葉が、瑠奈の感情を破壊した。


「……お前が、今ここで……? ……それをっ、言うのかッッァ! 聖道ゥ……、修羅ァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!?」


 赫怒が溢れ、血の涙と共に炎が地獄の業火と化した。

 喉を裂き血反吐を吐いて命を削る絶叫も、聖道修羅の心には届かない。


 傲慢な救いを振りかざす嘆きの英雄は、心の底から瑠奈の身を案じ妹を愛しながら、救いと称して最後にそれを求めた。


「だから――俺と一つになろう、瑠奈=ローリエ」


 聖者の手が、瑠奈の肢体へと伸びる。

 ……あ、そっか。これで全てが終わるんだ。

 自分の死をはっきりと自覚したというのに、絶望が瑠奈を襲うこともなかった。

 もしかすると瑠奈は、自分自身に抗い続けたその果てに、無様な終わりをこそ求めていたのかもしれない。

 それこそが自分には相応しい罰だと。


 復讐の失敗、その絶望すら無意識のうちに織り込んでいたとすると、何だか笑える。

 全てが無意味で無価値だったと、自分が真っ先に認めていたなんて。

 それでも死に対する恐怖が無くなることも無いらしく、震える身体は滑稽だった。

 一丁前に怯える自分の厚顔無恥な太々しさに呆れながら、迫る英雄の手を前に瑠奈はぎゅっと瞼を閉じて、最後にポツリと――もう二度と届かない懺悔と無念の言葉を零した。


「……ごめん、なさい。お義母さん、お義父さん、私は――」

「――おいおい、そうじゃないでしょ瑠奈ちゃんってばさー。そこは絶体絶命のヒロインが来る筈もないヒーローに届かない助けを求めるとこだぜ? 折角僕がカッコよくやって来たってのに、何だか場違いっていうか空気読めない人みたいになってるじゃないか」


 軽薄な声が、悲劇の匂いに場違いな早口言葉じみた怒涛の言葉の連続が、時を止めた。


「う、そ。でしょ……」

「まあ、元から空気なんて読めないんだけどね。……と、それよりなにより、いくら仲がいいからってそういう関係は関心しないぜお義兄さん。曲がりなりにも瑠奈ちゃんの兄を名乗るなら、彼女が道化と結ばれることになろうと笑顔で祝福してやるくらいの度量がないとさ」


 瑠奈は最初、それが自分の弱い心と頭が生み出した都合のいい幻覚だと思った。

 だってそんな事ある筈がない。

 だって彼を裏切り罪を被せ牢獄へと送り込んだのは他ならぬ瑠奈=ローリエで。

 仮に逃げることが出来たとして、瑠奈の元に戻ってくる筈がない。

 それなのに。

 絶対にありえない筈なのに。


「どう……して?」


 人懐っこいギョロリとしたまん丸の瞳と、何色にも染まらない白いぼさぼさ髪。絹を薄く引き裂いたようなギザギザ歯を見せて軽薄な笑みを浮かべるその男は、自分を裏切った女の問いかけに、変わらない愚かさを見せつけるようにそこに立っている。


 あまりにあっけなく、二人の間にあった裏切りという名の断崖を飛び越えてみせた愚かなその少年は、いつも通りにヘラヘラとした軽薄な笑みを湛えてこう答えた。


「――やっほう、プロポーズしに来たぜ。変態シスコン野郎の股関なんざ蹴り飛ばして、僕と一緒に家族でサッカーチームを作らない? あ、勿論ベンチメンバーも込みね!」

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