#053b 空色の遠景
――現実世界、ブリーフィングルーム。
概要を話し終えた司令官ハワードがマヤに言った。
「ではマヤ博士、詳しく説明してくれ」
「ハイもちろん」差し棒をマヤは受けとり、スクリーンを指す。
「この地域――遷移により実体化範囲が広がった部分で山林地帯なんだけどネ。午前から『おかしな信号』を時おり発しているんだ。しかも特異点由来ではないみたい。初めてのことだし、調査が必要と思う」
「そういうことだ」ハワードが話を引き継ぐ。
「ミラージュ司令官である私の権限で、この調査任務はセニアとアレク、AIオーロラの少数で行なうものとする。ふたりとも、健闘を祈る」
実体化した姿のアレク、そしてセニアに、ハワードは力強く言った。
◇◇◇
――
――
季節は七月にはいり、晴れわたった空はすんだ青色。遠くでは小鳥のさえずりが聞こえている。
暁の街エオスブルクから西に五マイル(約八キロメートル)。人の手がほぼ加わっていない西の地は、木々や丘が青々と広がる自然豊かな場所だ。
交易を行なう荷馬車用に設けられたあぜ道を、アレクとセニア、そしてロラは歩き続けていた。
「僕もセニアみたいに、ボイド世界の好きな地点にダイブインできたら楽なんだけどなあ……。ロラも面倒かけてごめんね」
ミラージュ隊員のセニアと違い、アレクのダイブイン範囲は自身が本来いた『八次遷移後ボイド』で行動していた範囲にとどまる。
現在のボイドは五日前に遷移を起こした『十三次遷移後ボイド』。街から遠く外にあるこの山林地帯はアレクのダイブできる範囲にはなかった。
「いいのよ、だってこんな自然のなかを歩けるから。一緒に歩けて嬉しいし。ロラもそう思うでしょ」
「はい! わたくしも同じ考えですね。思い切って、ピクニック気分でまいりましょう」
セニアは頬笑み、ロラは満面の笑みを浮かべていた。ふたりの表情をみているうち、心にあったもやもやが、すっと晴れた気がする。
――信号があった調査地点はもう少し先にあるんだ。そうだ、いまを楽しんでみよう。
足取りが少し軽くなった気がした。
小川をみつけ水筒に水を汲み、三人で足を冷やす。せせらぎの音と涼しい空間に気持ちも安らぎ、休憩後また足を進めた。
あぜ道を登り、木々のトンネルを歩くうちに視界がひらけてくる。
目の前に広がった景色は――
「……わあ。すごい」
とても綺麗だった。
風がそよぐなだらかな平原。そこには、薄青色の花たちが一面に咲いていた。
太陽をうけて輝くまばゆい青の絨毯。どんな工夫を凝らした刺繍よりも、ここは美しい。
セニアもとなりで言葉を失っている。ロラは、口をひらいた。
「『ネモフィラ』ですね。現実世界と咲く季節は違いますが、ボイドではよくあること。この壮観な光景、わたくしもすばらしいと思います」
ロラは、優しげに目を細めていた。
時間もちょうど昼過ぎ。持参した携帯食をここで食べる事にした。それは銀の小袋に入ったクッキーのようなもの。最近マヤが完成にこぎつけた、ミラージュ隊員が装備できる食糧だ。でも、こんなにいい所なら弁当箱のほうが良かったかもしれない――
そんなことさえ思いながら、セニアと草の地面に座り昼食をとっていた。ロラは、そもそも食べる行為が必要ないため背後で暇そうにウロウロしている。
穏やかに吹く風が、ネモフィラの群生を撫でていく。平原に流れていく薄青のさざ波、草花がすれる音が聞こえる気がした。
眺めるうち、不意に言葉がもれた。
「……ほんとに、いい場所だね。紙と画材があったら描きたいな」
――母がいたあのころは黎明日祭の光景を描いていた。いまも同じ気持ちだ。心に残るこの瞬間を記したいと。
そうして、あるひとつの想いが頭に浮かぶ。
「僕は、なぜこの世界にうまれたんだろうか。母さんとの思い出をもって」
二年前に僕が死なせたと考えていた母。けれども大切なあのひとは、もとからボイドに存在してはいなかった。僕がボイドに発現したのはたった一年前、大切なひとである彼女は、僕自身の記憶の中にしかいない。
もちろんあのひとが大切な存在であることは変わりようがない。けれども……いや、だからこそ、言い表す事が難しい『違和感』が、頭のなかに張り付いて離れなかった。
――僕があのひとを想う気持ちは、どうして存在するのか――
この問いに、解など見つかりそうもない。無言で、揺れていくネモフィラを眺めた。
と、
「アレク。簡単なことよ」セニアは続ける。
優しい面持ちで。
「あなたは、あなた。自分がなぜ存在するかは関係ない。いま此処にいること、生きていること。それだけでもう、充分すぎることなんじゃない」
セニアは頬笑み、かすかに首を傾けた。普段の冷静なものとは違う、人懐っこい表情をして。
――生きた証は消え去らない。
母が生きた証は僕のなかにある。そして僕の証は、いまこの瞬間なんだ。
「そうだね」
セニアに頷きながら、彼女をとても愛おしいと感じていた。二ヶ月前は完全に敵同士で、僕は生きるのを諦めていたけれど、気がつけば僕は大きく変わっていたのだ。
彼女をもう一度みていた。
すこし恥ずかしくなったのか、セニアは目を泳がせ、話題を変えた。
「え、えっとね……。ラルフと鍛錬してどこか痛めてたりしない? 手にマメができたとか」
「ううん、大丈夫だよ。治療用の札を使っているし――」
そのとき、
「……あっ、蝶だ」
視界を、一匹の黄色い蝶が通り過ぎた。金貨より少し大きい羽がひらひらと舞う姿は、どこか優雅でもある。
蝶はきびすを返し、不思議と僕たちのそばを飛び回っていた。
セニアが興味深そうな顔をした。
「こんな蝶もいるのね。エオスブルクでみるのはもっと小型な種だし、わたしが暮らすバージニアの街にはそもそも蝶なんていないもの」
彼女の発言に、はっと気がつく。そうか、思い返せば二〇九四年の世界で蝶を見たことがなかった。
と、
「おふたりとも、なんのお話でしょうか?」声を聞きつけたロラがやってきて、
目ざとく黄蝶を発見した。
「はっ!? これは蝶ですね。かわいいっ! あぁ、まってくださいっ!」
驚いたようにネモフィラの園へ逃げた黄蝶をロラは追いかける。
薄青の景色に、蝶と戯れる女性が加わっていた。
「まったくもう……」
セニアはため息をついた。しかしそれは呆れたというより、慈しむような穏やかなもの。
「ねえアレク。……わたしもう知ってるの。『ロラは、わたしを娘だと思っていない』こと」
「えっ?」
驚いた僕の反応にクスッと笑い、セニアは続けた。
「どうせ隠していたんでしょう? わたしのことを気にして。あなたらしいわ」
「セニア……、いつから」
彼女は一度考えるそぶりをみせ、
「そうね……。だんだんと、かな」笑顔のまま言った。
「もちろんはじめのころは信じて疑わなかったわ。ずっと待ち望んだ『わたしの母親』にやっと逢えたと、ほんとうに思った。けど、ロラと一緒にいるうち、それは違うと気がついたの。だって、彼女がわたしに投げかける視線は純粋すぎるから」
セニアは、おもむろに立ち上がる。
「でも、案外悲しくなかった。それどころかいまはとても幸せな気持ち。なぜならわたしには大切な人が二人もできたから。ロラがわたしの母親じゃなくても、わたしにとってかけがえのない存在、彼女は大好きな友達なのよ」
セニアは、遠くのロラをみつめている。ただ純粋に優しい面持ちで。
「ねえアレク、このごろの遷移事象で現実世界のインフラ系が不調なのは知ってる?」
「ああ、前より復旧が遅くなったとか」
楽しげに駆けるロラを見つつ、セニアに答えた。
ボイドが十二次遷移を迎えた辺りから現実世界では各地で、停止した社会インフラや通信サービスの復旧が遅れる現象がみられた。復旧ができない地域が現れるのも時間の問題だ。
そして、もし今後も遷移が進むなら――
「……ロラが心配だね」
「ええ。ボイドが『極相』になって、彼女が消えてしまうことは絶対にとめなきゃ……」
ロラ――オーロラを救い、同時にボイドも守る。これは難しい事だけれど何とか実現したい。
と、ふたりでロラを眺めているうちロラが急にこちらへやってきた。
なぜか、しょんぼりと悲しそうに。
「ロラどうしたの?」
セニアが聞く。うつむたままでいるロラは、まるで『何かを持っている』ように、合わせた両手を差し出した。
「蝶を捕まえたのですが、……動かないのです」
両手が開かれる。ロラが捕まえた黄蝶はどうやら死んでしまったようだ。強く両手で叩いたのだろう。羽はボロボロになり、横たわっていた。
「さきほどまで元気でしたのに……。アレク、どうかお願いがあります!」ロラは泣きそうな顔をしていた。
「『治療用の魔術札』を、この蝶に施してはいただけないでしょうか。蝶をもとに戻してください」
たしかに僕はいま、治療用の札をバッグに持っている。
でも、
「『治療用の札』はね、怪我をしたまだ生きている人間だけにしか効かないよ。それに、ロラ」彼女の手に触れた。
「死んでしまったものは、二度と帰ってこないんだ。もし万に一つの方法があったとしても、僕はやりたくなくて――、あれ?」
――そうロラに話したとき、突如胸の奥がぐにゃりと歪むような感覚がした。
うまく言い表せない、湧きあがる強い違和感。死や生という内容が母さんの事を無意識に連想していたのだろうか。
いや、違う。――違うのだと、心が告げている。
なぜかそう思える。
「アレク? どうしました」
「え、」
謎の感覚に耽るのをやめたとき、真正面にいるロラが心配そうにこちらを覗き込んでいる事に気がついた。横をみればセニアも同様の表情をしている。
「ああ、ごめん。ちょっと考えごとを。……そうだ」とっさにアイデアが浮かんだ。
「ロラ。蝶のために、『お墓』つくらない?」
――
――
ネモフィラの群生地の近くに、土が露出した場所を見つけた。落ちていた石を拾って穴を掘る。
ロラの手で死んだ黄蝶は穴に寝かされる。それを埋め、墓らしく盛り土をした。
「よし、これでできた。……ロラ?」
ロラは『墓』というものを知らなかったらしい。興味深そうに盛り土をみていた。
「なんだか、おもしろい文化ですね。もっとつくってみたいです!」
「あのさ、ロラ。お墓をつくる前のことを思い出そうね……」
――群生地を抜け、調査範囲まで来た。
セニアが分析端末で周りを調べはじめる。
「このあたりのはずだけど」
と、
「えっ、これは……。アレクちょっと来て」
「どうしたの?」
セニアに呼ばれ近寄った。ロラも来た。
そこにあったのは『轍』だ。青々とした草をえぐり、ふたつのくぼみが土を剥き出しにしている。だが、馬車の轍にしてはなにか変だ。
「これタイヤの跡よ」セニアが口火を切った。
「馬車じゃない、自動車のもの。タイヤ痕からみて四輪駆動車。中世時代のボイドではありえない……それどころか『車両を発現する』なんて、まだ無理なのに」
謎の轍は遠くまで続いている。
「いきましょう」
「ああ」
三人で轍の後を追った。
轍の露出した土がだんだんと湿ったものに変わりだす。進むうち、ネモフィラの群生地に再び入っていた。
なにかが轍の末端にある。
近寄ると、
「無人、ね」
あったのは軍用車両『ジープ』。
美しいネモフィラの花畑をえぐり、不釣り合いな物体が乗り捨てられていた。
◇関連話◇
ボイド世界の拡大
(一章#15a 極光の回廊 Ⅰ. AURORA)
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(一章#18a ~魔術札~)
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(二章#014b 展望ルーム)
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