#17a 極光の回廊(コリドール) Ⅲ.『アレク』
「……え」
言葉が出なかった。
「えっと正確にはね、一年と四ヶ月で――」
「ちがう!!」
そこじゃない、細かい数字なんてどうだっていい。
怒鳴るアレクを皆が見つめる。視線が刺さるように集まった。
一年前に僕は『生まれた』。それはつまり、僕は一年しか生きていない事になる。街が歩んだ歴史は嘘だった、なら――
「あんたは、僕の記憶がほとんど『ウソだった』って言いたいのか!?」
――幼かった頃の記憶……、地面が近かった街の景色や、母とつないだ手の温もり。そして、満ち足りた日々に訪れた影。大好きだった母の骸に誓った決意……。すべてが僕の人生を築き上げた、大切な思い出だ。
あの記憶が全部、嘘だなんて――
「ありえない! ……お前たちが言うことは全部ウソだっ!!」……もう信じない、信じてたまるか。
「お前たちは母さんの命まで『幻』だと言いたいのか! あの人との思い出さえウソだと僕に思わせたいのか!!」
マヤが事の重大さに気付き、なだめる言葉を探ろうと慌てるが、もう遅い。
ハワードも動揺の色が表れていた。だが、アレクに語りかける頃には平静に戻っていた。
「君の母親は昔に亡くなったんだな……。君には、飲み込めない内容と思う。しかし知ったからには受け入れてほしい。これが真実だ」
「ウソだっ!! ……よくも騙したな、上手い嘘をきれいに並べて。もう信じないぞ、この悪党が!」
全身の血が煮えくり返った。感情のままに喉が震え、握り締めた拳には鈍い痛みが広がった。
息を荒げるアレクに対し、ハワードは冷静だった。
「その否定は君の願望ではないのか。ボイドノイドが発現前に『体験した記憶』は、当人が重要と思っている要素以外はあいまいだという事が、ダイブ時の聞き取りで判明している」アレクに詰め寄った。
「君は、母親やその人との生活に関連しない記憶を思い出せるのか。たとえば二年前から会っていない友達などはどう憶えている」
「友達? 当たり前じゃないか! そんなことぐらい――」
アレクは母が死んでしまってから駄賃稼ぎに精いっぱいで、同い年の友達と会う機会に恵まれていなかった。
だが友達はいる。よく遊んだ憶えだって――
「……あれ、僕なにして遊んだんだっけ。顔、思い出せない」
……顔だけじゃない。友達の名前、住んでいる場所、人数……。すべてが頭の中でもやもやと、霧のように漂うだけではっきりしない。
憶えている親しい人は今でも会っているロジーナおばさんや八百屋のおじさん、手伝い先の大人ばかり。
――僕は、一年しか生きていない――
「……うそだ」
いつしか、涙が頬をつたっていた。怒りからではない震えが声をかすれさせた。
「信じない……。お前たちが言うことはうそだ、うそなんだ――」
凛として美しかった母さんの姿、首にかけたペンダントとやさしさに満ちた声。
街で暮らしたあの記憶が、本当に幻ならば……僕は――
「僕は、幻の思い出に苦しんで、死のうとしていたというのか……。なんのために、僕は生まれて……。……うそだ、うそだよ! みんなウソだ!!」
声の限り叫んだ。
涙がとめどなく頬へ流れ、握った拳へ落ちていく。歯をむき出しに怒鳴り散らした。
「母さんと、たくさん楽しい思い出があったんだ! あの人に抱きしめられたときの温かさだって憶えてる。そして……、あの人を失った時の、悔しさと後悔も……。それが嘘なんてありえない!」
この拒絶の先に何があるのか、意味はあるのか。もうわからない、考えたくなかった。
見るものすべてが涙でにじんだ。ハワードやマヤが何か言っているが、頭に入ってこない。
奥でデルタチームが冷やかすように笑っているのが分かる。セニアは……、その場に突っ立ったままでいた。
――しかしアレクは気づかなかった。セニアが、爪に肉が食い込むほど拳を固めていたことを。
「ウソだ! ウソだ、ウ……!」
「あーぁ、ばっかばかしい」
「……なんだと!」
呑気な声で言うセニアにアレクは噛み付いた。
セニアは続ける。
「『存在しない親』に甘えちゃってさ……、何度でも言ってやる! ……馬鹿馬鹿しい! あんたに親なんてない。この事実を受け入れろ、ボイドノイドのガキが!」
はやし立てていたセニアが、急にひどい剣幕で怒りだした。
アレクはその表情に単なる憎悪だけでないものを感じた。だが、それが何かよく分からなかった。
「お前なんかに……、僕の苦しさが分かるもんか!」
「思い上がりもいい加減にして! ……あんた、今の状況が分からないの? オーロラを蝕むボイドノイドのあんたが、わたしたちの世界に来てわめき散らして……」アレクに吐き捨てた。
「……なんにも変わらないんだから、そこで大人しくしてなさい。この甘えん坊」
見下すように笑うセニアに、はらわたが煮えたぎった。だが飛び掛かりたい衝動に駆られても、『ホログラムの描画範囲外』である彼女に近づく事さえかなわない。
何もできなかった。
「……くそぅ。くそ、くそっ!」
座っているベッドに拳を叩きつけた。何度も、何度も――
なのに、痛みどころかベッドに手を打ち付けている感覚さえない。
怒りに任せてベッドを殴っているというのに音も無く、まるでベッドという『空間』が拳をめり込ませないように、対象物を受け止めているようだった。
それは、自分自身が幻である紛れもない『証し』だった。
「うそだ……、うそだ……。僕は、うぅ……」
――声を出し、泣いた。
年甲斐もなく、人目をはばからず、積もりきった苦しみと悲しさを開放するように。
しかしそれは、真実を知った事への慟哭ではない。
自らが今まで生きてきた、生きていく糧だった『すべて』が崩れ去ろうとしている。その事への叫びだった。
――それからは、ぼんやりとしか憶えていない。
あの後ハワードがセニアを怒鳴り、叱り付けた。セニアがどんな顔をしていたかは憶えていない。きっと反省していなかっただろう。
マヤやデルタチームは何もしなかった。戸惑っていたのか呆れていたのか、はたまた両方だったのか。
そしてハワードが僕に近づき、謝ると「君の処遇は『会議』にかけられる」と言った。
意見の違うVRA上層部とハワードたち存続派が、僕の所有権をめぐり争うらしい。
悲しみと悔しさ、これから先の不安が拭われないまま彼らは部屋を去って行った。
あれから、どれくらい経っただろう。
暗くなった四〇三号室のベッドに僕は横になっている。孤独のまま、静寂の部屋で彼らを待つしかない。
どこまでも出続けた涙はとうに枯れ、涙跡が頬を固めていた。
だが感情は変わらない。中心が抜け落ちたような、冷たい井戸にどっぷり浸かったような心持ちがいつまでも覆っている。
「……うそだ」
やはり、認められなかった。
それでもこの体が現実を突きつけてくる。
自身の肉体や服にはちゃんと触れた感覚がある。でもそれ以外、ベッドはもちろんだが壁のどこを触っても何も感じなかった。
思い返せばにおいを嗅いだ記憶もない。視覚と聴覚のほかは、外からの刺激を感じない体なのかもしれない。
だとしても、受け止めきれなかった。
彼ら……ミラージュの話。あの街の――そして僕自身の真実。
すべてが幻想、幻の存在。僕の人生や思い出も、……そして、母さんの存在でさえも……。
乾ききった涙の筋に、流れるものが上塗りされた。搾り出したように微かな流れが顔を伝っていった。
――うそだ……。
美しくきらめいていたあの思い出が、母さんとの日々が、
みんな、幻だなんて――
次回はファンタジーテイスト(のつもり)の回を3つ投稿いたします。
読んでくださり、ありがとうございました。