明日、きみに伝えたいことがある。
一ヶ月前に報道されたニュースは、日本国民に大きな衝撃を与えた。
たとえそれが大昔の偉人が残した予言だったとしても、最新の研究で判明した事だとしても、最新の技術で感知した事だとしても。俺達は、それを受け入れる以外に何をすればよかったんだろう。
日本が消滅すると言われて。
◆
一月の半ば。冬休み明けに公開された情報によって、その日はどこもかしこも大変だったように思える。
落ち着きを失くした日本では、国外へ避難しようとする人が後を絶たなかった。残されたひと月の間も毎日、それこそが日常とでもいうように人で溢れかえった出国口が報道されていて、家族分のチケットを取れなかったのか母子を見送る夫の姿もまるで感動映画のようだった。
要人の半数は既にプライベートジェットなどで日本を離れているらしく、それに対する非難の声も多く挙がった。そしてその事実こそが、この日本消滅を回避する方法が無い事を示唆していた。
「……今日の授業は無しかな」
見回すまでもなく空席の目立つ教室。その教壇に担任教員の姿は無い。
他のクラスでは連絡がつかなくなった教員もいると噂になっていた。学生でさえ親に従い、その本分を忘れて避難へと走っているのだ。誰が教員も止められるというのだろう。
しんと静まり返った教室で席を立つと椅子の音がよく響いた。通学鞄を持って廊下へ出ればまるで異空間のように感じられる。毎日、飽きもせずに通った学び舎。
「――いてっ!?」
ぼうっと窓の外を眺めていた俺は後頭部に与えられた衝撃に声を上げた。振り返ってみるとそこには意地の悪そうな笑みを浮かべた女子生徒が立っている。俺は彼女を知っていた。
「なにすんだよ」
「辛気臭い顔してたから」
「嘘つけ。後ろから見えるわけねーだろ」
「エスパーみちるには見えるのですよ、タ・ケ・オ・ミ・くん」
人差し指を立てて左右に小さく振るそいつは相崎みちる。クラスメイトだ。
癖のある髪の毛を揺らしながら、みちるは俺の隣に立ってじろじろと人の顔を舐めるように視線を這わせる。丸みを帯びた目とそれを縁取る短い睫が見えるほど近い距離だ。
「タケオミは海外行かないの?」
「国際線は早くても三ヶ月待ちだしな」
「ふぅん……」
そう言ってみちるは唇を尖らせる。短い沈黙に口を開いたのはみちるだった。
「さっき職員室で聞いてきたけど、もう学校は休校するって」
「まあ、そうだろうな」
俺は人気の無い周囲に視線を向けた。まるで俺達の方が学校へ忍び込んだかのように、悪い事をしているかのように思えてしまうのは俺の性格だろうか。
「あたしとタケオミだけだね」
「……なにが?」
「クラスのみんな、空港に行ったんだよ。家族と。今から行っても……間に合わないって分かってるのにね」
ふと翳ったみちるの表情を、俺は一生忘れる事はないだろう。
◆
みちるの家族も例に漏れず空港へと向かったらしい。俺の家族もそうだ。
俺もみちるも、間に合わないと思ったから日本に残った。諦めたわけでも、絶望したわけでもない。ただ、本当に日本が消えてしまうというのなら、最期の瞬間まで逃げているのは嫌だと思ったからだ。限られた時間ならば有効に、満足に使いたい。それは悟りにも似た感覚だろう。
「大体さ、巨大隕石ってどうよ? 計算では日本に落ちるとか言ってるけどさ、計算だって完璧じゃないんだし、北太平洋に落ちるかもしんないじゃん?」
「落ちたとしても大津波は避けられないだろうな。映画みたいにでかいやつ」
「あー、そっかー」
みちるは秘密基地を作った。正味、高校生にもなって恥ずかしげも無く秘密基地とか叫びだすような勇気は俺には無いし、それを日本防衛前線とか胸を張って命名するみちるにどこが前線なんだとツッコミを入れたが気分だとかなんとか。しかもその秘密基地から俺が逃れる術は無い。何故なら、そこが俺の家だから。
問題は食料だった。電気や水道はさすがに日本が消えるとはいえ避難できない人がいるのだから止まる心配はしなくて大丈夫だろう。おそらくだが。
みちると二人で街を歩けど、どこの店も律儀にシャッターを下ろしており店内へ入る事も難しい。そんな中、近所のコンビニだけは営業していたので、強盗のようにガラスを割って食料を盗むという状況は回避できた。レジに立つ老齢の男性は独り身だからいいのだと、切なさを帯びた笑みでおつりを渡してくれる。
なんだかんだと言ったが、秘密基地が俺の家で良かった事もあった。
娯楽施設も閉まったこの状況下、兄弟のものだがゲーム機や漫画といった暇つぶしがあるのは都合が良い。普段は漫画を読まない俺も新しい娯楽に興じる。
そんな俺の隣でみちるはコンビニで買ってきたチップスを頬張りながら俺の数学用ノートにペンを走らせていた。チップスは三袋目に突入しており、その合間に炭酸飲料を飲むのも忘れていない。
「ねっ、これはどう? 全ての物は引力を持ってるから、それを活用して磁石みたいに反発する力を作り出すの!」
何をしているのかと思えば、どうやらみちるは作戦を立てていたようだ。作戦、と呼ぶにはお粗末すぎる落書きが書かれたノートを俺の眼前に広げている。正直、近すぎて何も見えない。
「そんなの出来たらみちるは天才なんだろうな」
「国の力を借りられたら何とかなると思うのよねえ」
本気のようにぶつぶつと呟いている。どうしてこんな呆れたことばかりを考えられるのか不思議で仕方なかった。けれど、言動の全てがマイナスの思考を連想させなかったことにとても感謝している。
みちるは明るい。周りの人を明るくする天才だ。
◆
「うわーっ、寒っ!」
「だから家の中にいればいーのに」
「だめよタケオミ! 隕石の観測をするんだから!」
春はまだ遠く二月。毛布に包まっても寒いことには変わりない。
今日が日本最後の日だと報道されていた。ニュースも国内放送から国外放送に切り替わったようで、まるで他人事のように記事を読み上げるキャスターには俺も苦笑してしまう。
名案だと叫んだみちるは、隕石の観測をすると言って屋根の上に出ようとした。さすがにみちる一人では危ないので俺も一緒に登ることになる。その手には最後の晩餐となる予定のインスタントカップ麺が二つ。
「ほら、タケオミ。寒いから早く入ってよ!」
「はいはい」
肩にかけた毛布の半分を空けて手招きするみちる。俺はその隣に座った。
空を見上げれば満天の星空とでも言おうか。近隣から漏れる光の無い本当の夜はとても静かで、冷たくも澄んだ空気が星の輝きを届けてくれる。こうして夜空を見上げる機会なんて、こんな事にならない限り無かったのかもしれない。
今夜、午後十一時。
明日になる前に、日本に巨大隕石が落ちる。
「……タケオミ、あたしね」
沈黙を経て、白い息を吐きながらみちるが口を開いた。俺は見上げていた夜空から視線を隣のみちるに向けるが、みちるは空になったカップ麺の容器を見つめている。
「……ずっと好きだったんだよ。知ってた?」
いつものみちるとは違う、弱々しい声。その頬や耳が赤く染まっているのは寒さだけではないのだろう。ちらちらと目だけで覗き込んでくるみちるに俺は小さく笑った。
「知ってた」
「えっ、嘘!?」
「お前わかりやすいし」
みちるはあわてた様子だったが、しばらくすると諦めたように深呼吸をする。
「……で、返事は?」
恨めしそうな、じとりとした目でみちるは俺を見てきた。
大体だ。秘密基地を俺の家に作った事も、人生最期の一ヶ月を俺と一緒に過ごすという事も、ただの友人にしては文字通り命を懸けすぎている。分からない方がおかしい。きっとみちるはそれを受け入れている俺の気持ちにも気付いていないんだろう。
「そうだな」
好きも嫌いも恋愛も駆け引きも、それはとてつもなく平凡な事だったろう。
だけど、今の俺達にはそれよりも必要な事があったと思う。
「――また、明日な」
続きのある命を信じるという事。
◆
その後、本当に日本が消滅したのかは分からない。
少なくともこれを書いている今はまだ、俺もみちるも生きている。
だけど、もし。
もし、滅んでしまっていたのなら。
そして、この拙い小説が誰かの目に触れる事があれば。
どうか一人の男の夢を叶えてくれないだろうか。
俺は将来、小説家になりたかったんだ。
一木武臣より。相崎みちるへ。
誤字脱字違和感ご意見などあればご指摘いただけると幸いです。