8話 正体は絶対に秘密です!
人間の世界に足を踏み入れる魔族はその正体を隠している。なぜなら、そこは人間の領域だからだ。たとえ相手が誰であろうとも、領域を荒らす事は許される事じゃない。もし魔族の領域である黒煙の島に人間が入り込むことがあれば、島の皆は容赦なくその人間を排除するだろう。同じように魔族が人間の領域で正体がばれて殺されたとしても――それは本人の失態だ。
雷翔にも、おばば様にも、白亜様にも、同じような内容の話を聞かされましたとも!
つまり「ここで死んでもそれは本人の責任だし」って事ですよね!?
わかりました。ここは全身全霊全力で隠し通して見せます……!
「そんなに緊張しなくて大丈夫よ。悪い様にはしないから」
いえいえ、場合によっては最悪な事態になりますから。魔族だなんてばれたら一貫の終わりですしね!
真剣な表情のわたしに鈴さんが微笑む。あれ、なんだろ。なんか、憐れむような視線じゃないですか?
「ほんと、心配しなくていいのよ。酷い目にあったのは分かるけど」
ひ、酷い目? それってあれですか? 魔王候補なのに仲間のはずの魔族に血眼で追っかけられているって事ですか??
見通されている様な感じがして若干の恐怖を覚えていると、鈴さんが近付いてきて、ベッドの脇にしゃがみこんだ。
「誘拐されて逃げてきたんでしょ?」
……はい?
意味が分からず、鈴さんの言葉を頭の中で反芻する。ゆーかい、ゆーかい。
「誘拐……」
「って思ったんだけど。いいとこのお嬢様みたいだし」
違う? と言う様に首を傾げる鈴さん。
いや、そんなこと聞かれましても。
「あの……どうして」
「どうしてって、そりゃあんなに綺麗なドレスを着てたし」
いや、あれはあれしかなかったから着る羽目になっていただけで。
「肌も白くて綺麗だし」
それはたぶん太陽に当たる事がなかったからで。
「傷だらけだったけど、働いている手って感じはしなかったもの」
白亜様直々の美容法は十年以上やっていた家事仕事で荒れた手さえも綺麗に治してしまうのですね!
イコールお嬢様という答えをはじき出した理由を全て挙げた鈴さんは、にっこりと魅力的な笑顔を向けてきた。
「で、お嬢様のお名前は?」
「…………」
まずはお嬢様ではないと否定した方がいいんだろうか。いやいや、でも魔族だとばれるのはまずいし、とりあえずその話に乗っかっておいた方がいいのかな。
どう反応すべきか悩んでいたわたしを見かねたのか、ルークさんが助け船を出してくれた。
「鈴さ、ちいと早急すぎるでねぇか? 気持ちの整理をつける時間も必要だべ」
なあ? と向けられたのは、くらくらするくらい慈愛に満ちた笑顔だった。痛い。優しさが痛すぎる。
「ええと……」
「体中怪我だらけで、あの禁忌の山ん中を彷徨ってたんだべ? 怖かったべなぁ」
白くてしなやかな手がわたしの頭を撫でる。温かくて優しい手に、ぎゅっと胸が締め付けられる気がした。
こんなに繊細で優しい手つきじゃなかったけど、わたしの頭を撫でてくれるたった一人の事が頭に浮かんでしまう。涙を堪えるわたしに、ルークさんが優しい声で続けた。
「でもな、安心してけろ。うちのリーダーは優しい人だ。それに、おら達は困っている人の味方だべ。これでも」
「あっ」
ルークさんの言葉を誰かが遮る。反射的に声のした方――扉の方を見ると、男の人が二人。ま、また人間が増えた……。
悪化する状況に涙も引っ込む。精神的に追い詰められていくわたしに、片方の人がにこやかな顔で駆け寄って来た。
「良かった、目が覚めたんだな。気分は?」
わあ、爽やか!
少し伸びた濃い茶髪に、夏の空の様に澄んだ瞳。日に焼けた人の良さそうな顔に柔和な笑顔を湛えた、ずばり『好青年』っていう感じの人だ。白亜様とかルークさんみたいに超美形ってわけじゃないけど、なんとなく惹きつけられる魅力があって、老若男女問わず人気がありそう。魔族にはあまりいないタイプだからか、凄く新鮮に感じる。
「ええと、大丈夫です」
「そっか、よかった。あ、俺はウィナード。で、あっちがジェイクな」
ウィナードという男の人が扉の方に視線を向ける。
ジェイクさん……って。
ジェイ!? あのジェイですか!? クーファが冷血漢とか言っていた、鈴さんが帝王とか言っていた、あのジェイさんですか!!
ウィナードさんの視線を追って――ぎくりとした。
氷の様に青くて冷たい目。そこにあるものを映しているだけの無感情なその目を、わたしは良く知っている。
――白亜様。
ざわりと血の気が引く音が聞こえた気がした。体温が一気に下がったような錯覚に陥る。
零れおちんばかりに目を見開いて硬直したわたしに、ウィナードさんが首を傾げた。壁に身体を預ける様にして立っているその人へと目を向ける。
「ジェイク、知り合いか?」
「……いいや」
彼はほんの少し肩をすくめ、わたしに目を向けた。ぎくっと身体が強張る。
「と、思う」
「思うって……ほんと、他人に興味なさすぎよ。ジェイ」
「こったらめんこい子、一回会ったら忘れねえべ」
鈴さんとルークさんが抗議をする中、ウィナードさんが申し訳なさそうな顔でわたしを見てきた。
「あいつ人の顔を全然覚えないんだよ。ごめんな?」
「い、いいえ! 初対面ですからお気になさらず!」
「え……そう?」
意外そうな顔をされました。
確かにわたしの反応は知り合いに対するそれだったかもしれないけど……。それはジェイクさんっていう人が白亜様に似ていたせいだ。それも目の感じだけ。実際、似ている箇所はほとんどない。
乱れのない白を基調とした服に一つの隙も見せない白亜様に比べて、ジェイクさんは上下とも黒い服で気だるげな雰囲気だ。耳が隠れるくらいまで伸びている白茶の髪はうねりながらあちこちに跳ねていて、細めの顔はどことなく青白く見える。あと……危険な匂いと言うか、艶っぽいと言うか。お姉さま方が放っておかなそうな感じ。鈴さんが帝王と言ったのも頷ける。
「初対面……のはずです」
下手な事をしゃべれない状況なので、語尾を弱めて曖昧に濁しながら答える。
だって、知り合いに似ていますとか言ったら、「誰?」とか「何処の人?」とか聞かれるに決まっているし。「相手は白亜っていう魔族です」なんて言う度胸はありませんよわたしには。
「はずって……」
わたしの答えに納得がいかなかったのか、困惑した様子のウィナードさん。いや、そこはもう気にしないで聞き流して下さい。もう次に行きましょう次に。
内心ドキドキしながらウィナードさんを見ているわたしの隣で、ルークさんが突然はっと息を飲んだ。
「もしかして……忘れちまっただか?」
何を?
重要部分をすっとばした文章をつぶやいたルークさんは、ぐっとこちらへ身を寄せて来た。うわ、近い、近い! 顔の大きさとか色々比べられるからあんまり近寄らないで……!
「おめえさん、今までのこと忘れちまったでねぇか?」
……はい?
目をぱちぱちさせていると、鈴さんが吹き出した。
「忘れちゃったって、まさか記憶喪失ってこと?」
「そのまさかだべ」
「そんなわけないじゃないの。小説じゃあるまいし」
「ありえねぇ話でねぇ。随分怖ぇ思いをしたみてぇだし、あんなに高い熱も出てただ。頭ん中がごちゃごちゃになってもおかしかねぇべ」
「……ほんとに?」
笑っていた鈴さんも真剣な顔のルークさんに触発されたのか、まじまじとわたしの顔を見てきた。
なんか……とんでもない展開になってませんか? 記憶喪失って、そんな馬鹿な。わたしの記憶はばっちり健在ですよ? 魔族で魔王候補で現在絶賛逃亡中。正直忘れていたい記憶ではありますけどね……!
とは思うものの、口を出せないのもまた事実で。本当の事はしゃべれないし、嘘をつくにしても人間の設定は何も考えてないし、設定を考える為の知識もない。もっとこっちの事を勉強しておけばよかった……。
「キオクソーシツ?」
話を聞いていたクーファが、顔を上げてルークさんを見た。
「ルー、キオクソーシツッテ何ダ?」
「記憶喪失ってのは、記憶をなくしちまうことだべ。頭を打ったり、おっかねぇ思いをしたりして、記憶をなくしちまうっていう病気があるだよ」
「病気!?」
記憶喪失の説明を受けたクーファは大声を上げた。ルークさんの腕から飛び出して、わたしの顔にへばりつく。
「うわ!」
目の前がいっきに緑色。近すぎてクーファの顔が良く見えない。
「ジュージュ! 病気カ!」
「いや、ちょ」
「病気カ!? 医者、行クカ!?」
「いや、あの、クーファ」
「死ヌノカ!?」
記憶喪失じゃ死なないって。それ以前に記憶を喪失してないし!
クーファの頭の中では病気イコール死ぬ、らしい。興奮しきったクーファは、もうわたしが死ぬ事を前提に「死ヌナ」を連呼してきた。説明しようにも聞く耳を持つ気配すらない。
例の頭が痛くなる様な声が耳から大音量でガンガン入ってくる。体全体で顔に抱きついてるから呼吸もままならないし……!
本日二度目で意識が飛んでいくのを止めてくれたのはウィナードさんだった。
「落ち着けクーファ。記憶喪失は死ぬような病気じゃない」
冷静な声が聞こえたらしく、クーファの動きがぴたりと止まった。すかさずわたしから引き剥がすウィナードさん。ナイスです! ああ、やっと息が出来る様になった。
大人しくなったクーファは、大きな目をウィナードさんに向けた。
「ソウナノカ?」
「ああ。ただ記憶が一部抜け落ちているってだけだ。何かのきっかけで記憶が戻る場合もあるらしいし、生活することには問題ない」
「ソウカ! 死ナナイカ!」
クーファはすっかり安心しきった顔で、ウィナードさんから離れるとわたしの膝の上に座った。そんな小さなドラゴンをウィナードさんは、しょうがないな、と親が子を見る様な笑顔を浮かべて見下ろしている。
「ごめんな。起きたばっかで騒がしくして。でも、もうちょっと付き合ってもらえるか?」
ウィナードさんの言葉に、ああ、これからだ、と思う。
これから、わたしは「ジュジュ」にならないといけない。正直どうすればいいか分からないし、どうするのが一番いいかはわからないけれど、黙り続けているわけにもいかない。ここがどこなのか、彼らがどんな人なのか、わたしも知りたい事がある。
覚悟を決めて、ゆっくりと頷いた。