4話 不運には底がない
一気に間合いを詰め、異形の左手が魔物を狙う。
一瞬気を緩めた魔物にそれを避ける余裕はなかったんだろう。
体の側面から掬いあげる様にしてなぎ払われ、右側の茂みの中へ吹っ飛んでいった。
「行くぞ!」
振り向いた雷翔は、木と一体化していたわたしの手を掴んだ。
「走れ!!」
と言いながら、雷翔はすでに走り出していた。勿論わたしの手を掴んで。
何も把握できていないわたしは、ぐんっと引っ張られた。
凄い力に一瞬腕だけ持っていかれたかと思った。なんとか千切れずにすんでいたらしい、と言ってもまだ引っ張られているけど!
千切れる千切れる!!
本気で腕だけ持っていかれそうで、とにかく全力で足を動かす。走ると言うより、引っ張られている腕を追いかけている様な状況だ。
急停止。
「ぶぎゃ!」
止まるなんてこれっぽっちも考えていないわたしに対応できるわけもなく、雷翔の背中に思いきりぶつかって踏まれた猫みたいな声を上げた。
は、鼻が……!
あまりの衝撃に鼻の感覚がない。今度は腕じゃなくて鼻の損失を疑ってしまう。今日が厄日である事は間違いない。失せ物注意の日なんだろうか。
「ら、雷翔、どうしたの?」
痛みで潤む目を上げる。雷翔はこっちに背を向けたままだった。
「下がれ」
固い声が返ってくる。
何があったの?
雷翔の視線を追って、ぎくりとする。
さっき遭遇したのと同じ姿の魔物がこっちを睨んでいた。
でも、流石に二度目の遭遇。大丈夫、意外に冷静だわたし。指示を受けなくてもどうすればいいくらいは分かりますね? はい、分かりますとも!
へばりつく木を探そうと身体ごと振り向いたわたし。は、そのまま硬直した。
いや。いやいや。これは想定外ですよ。
……どこから来たんですか、犬さん。
「ら、らいか……」
わたしの様子から背後の来客の存在に気が付いたらしい。
ちっと舌打ちした後の雷翔の反応は早かった。わたしの腕を掴んで茂みの方へ放り投げる。反転する視界に、魔物が跳躍するのが見えた。
「うわっ」
わたしが尻餅をつくだけですんだのは、投げた雷翔の力量だろう。
痛むお尻をこらえながら目を開けると、もみ合っている雷翔と魔物の姿が見えた。もう一匹の姿は見えない。急な斜面から落ちていったのかもしれない。
「くそっ! 放せこの……!!」
残った魔物は雷翔の左の腕に喰いついていた。雷翔はなんとか剥がそうとしているけど、牙はがっちり食い込んでいるらしく、どう見ても剥がれそうにない。
ど、どうしよう! 何か、何かない?
石でも投げようと辺りを見回したわたしの目に一本の木が映った。両手で抱えられるくらいの木。その枝の一本が折れかけていた。
あれだ!
這うようにして木に駆け寄り、ぶら下がっていた枝を力任せに引っ張る。ほとんど皮一枚で木にくっついていた枝はすぐにわたしの手に収まった。それほど太くも長くもないけれど、わたしには丁度いいサイズだ。
念を込める様にぎゅっと握り、争う現場に駆け寄る。
「雷翔を放して!」
魔物に言葉は通じないと思うけど、叫んでしまうのは本能的なものだ。微妙に震えた声に反応して枝を突きつけるわたしの姿にぎょっとしたのは、魔物じゃなくて雷翔の方だった。
「お、おい! 馬鹿、離れてろ!!」
「早く放して! 殴るわよ!!」
もう頭の中はぐちゃぐちゃだ。でも、とにかくあの魔物を引き剥がさないと。今の雷翔の武器は左腕だけなんだから。
覚悟を決めて振りかぶろうとした枝に、何かが飛びかかって来た。
「うわっ!」
突然の衝撃。枝を落とさなかったのが奇跡だ。っていうか、今のは何!?
持っている枝に目を向けたわたしは、そのまま心臓が止まるかと思った。枝の逆端を咥えている魔物の姿。
「うそっ……!」
どこから現れたの!?
「クソッ! てめえ、放せっ!!」
雷翔の声が聞こえるけれど、そっちを見る余裕なんてない。
魔物と一本の枝を取り合う。傍から見たら間抜けな光景だろうけど、こっちは必死だ。
枝のどの部分から鳴っているのか分からないけど、ミシミシという不穏な音が耳につく。掌には棘が刺さっているし、魔物の引っ張る力は半端じゃないし、この枝に愛着なんてこれっぽっちもない。
それでも放せないのは、この状況が終わったらどうなるのか分からないからだ。
「くぅっ……!」
全力を振りしぼって枝を引っ張る。けど、流石にもう無理……! 少しずつ掌の中で引っ張られていく枝が熱い。
「どけろっ!」
目の前に黒い影が飛び込んできて、思わず枝から手を放す。わたしと魔物の間に入って来た雷翔の右手が、魔物の顔に拳をめり込ませた。
「ギャン!」
思いきり殴られた魔物は悲鳴を上げたけれど、雷翔の右手じゃ相手を気絶させるほどの力は出なかったらしい。怒ったような目を雷翔に向け、跳びかかって来た。
とっさに身体をかばう雷翔の左腕に牙が襲う。
さっき噛まれていた腕……!
「雷翔!」
「来んな!」
思わず駆け寄ろうとしたわたしに雷翔が怒鳴る。鋭い声にびくっと立ち竦んでしまう。雷翔に怒鳴られたのは初めてだった。
躊躇したわたしに雷翔が真剣な目を向けてくる。
「先に逃げろ! 俺はいいから!!」
俺はいいって……何言ってるの?
「よくないよ!」
「いいんだよ! 早く行け! 邪魔だ!!」
「じゃ、邪魔って!」
未だぐずぐずしているわたしに雷翔が舌打ちする。
邪魔なのは分かる。分かってるけど。でも、こんな状況で雷翔を置いていくなんて。
わたしを促すのを諦めたのか、今度は魔物を振り払おうとする雷翔。手助けするにも、どうしたらいいか分からない。どうすればいいの? 分からないよ……!!
耳元を黒い風が通り過ぎた。それが何なのか理解するのに一拍かかる。
魔物だ。
それを理解すると次々にわたしの傍を黒い風が横切っていった。
彼らにとっての敵は、もう雷翔一人だったらしい。あっというまに五匹に増えた魔物が雷翔を取り囲む。
「うわっ!」
不意打ちを受けて、雷翔が悲鳴を上げる。その声でやっとわたしは我に返った。
「雷翔!」
思わず声を上げると雷翔がこっちを見た。
一瞬、目が合う。
「――行け!」
叫んだ雷翔に一匹が飛びついた。その勢いで魔物ごと雷翔の身体がぐらりと傾く。ほぼ垂直な、崖とも言える程の坂道に向かって。
嘘。
雷翔の姿が消える。その後を追うように、他の魔物も崖に飛び込んでいった。
うそ、うそ、うそ……!
「――……!!」
自分が何を叫んだのか分からなかった。
声も出なかったのかもしれない。頭の中は真っ白だった。
雷翔。わたしの大切な友達。たった一人の頼もしい味方。
彼が、いなくなった。