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熊との遭遇

 雲が出ているため真夏ならではの強い日差しはないのだが、恐ろしく湿度が高い。

 甲子園へと出場できるたった一つの椅子を巡る争奪戦、県大会の開会式が行われたのはそんな天気の下でだった。

 滞りなく式を終え、実郷学園野球部は球場の外に集合している。初戦は三日後であり、この日は学校のグラウンドに帰ってまた練習しなければならない。試合のない大半の高校は同様に集まっていたため、人口密度のせいでただでさえ蒸し暑いのが余計にそう感じられた。

 さすがに噴きだす汗を我慢しきれず、タオルで拭っていたタケルのところへ主将の清水がやってきた。清水は落ち着かなさそうに周囲を見渡している。


「さっきからウオッカの姿が見えないんだけど、あいつから何か聞いてるか?」


「いえ、わからないです。トイレとかじゃないんですか?」


「弱ったなあ。何人か取材したいって連中が来てるんだわ。監督ならアポなしは断るんだろうけど、今日ついてきてるのが部長だからなあ。とりあえずウオッカを呼べって聞かねえんだよあの人」


「じゃあおれ、ちょっとそのへん捜してきます」


「お、頼めるか。すまんな」


 幅のある体格の清水がタケルに向かって拝むように手を合わせる。

 性格的にはどちらかといえば由良の方が主将にふさわしいとタケルは思っていたが、清水は清水で不思議な人望があった。下級生相手にも決して高圧的な態度はとらず、いつも困ったような顔で警戒感を抱かせずに相手と接する。そういう男だった。主将として指名した墨井としても、清水ならばチームを空中分解させることはないと判断したのだろう。

 ただし彼にはすこぶる勝負弱いという欠点があった。もし清水が選手宣誓を引き当てていたら、実郷学園の他の全部員が辞退を勧めていたに違いない。

 ほっとしている様子の清水に軽く頭を下げ、タケルは小走りで駆けだしていく。


 ひしめきあっている各校のユニフォームは様々だ。実郷学園のような漢字での校名表記は少数派で、大多数はローマ字のブロック体が胸に刺繍されている。残りはローマ字の筆記体がいくつか散見される程度だった。

 虎視眈々と甲子園出場を狙っているような学校は一目でそれとわかる。鍛え抜かれた空気を醸しだしているのだ。はたしてうちは、とタケルは思う。自分たち実郷学園も他校からそのように見られていればいいのだが。

 しばらく周囲を回ってみたものの、ナツの姿はなかなか見当たらない。いったんみんなのところへ戻るべきだろうか、と考えはじめた矢先に一人の選手とぶつかった。


「うおう」


「あ、すみません」


 当たった感触はまるで壁のようだった。痛かったのはむしろ跳ね返されたタケルの側なのだが、不注意は不注意だ。ここは素直に謝っておく。

 プロレスラーのごとき肉体を持った彼がぎろりとタケルを睨みつけた。


「気ぃつけろや……って、おまえ、実郷のモンか」


 タケルの目線はその選手のちょうど肩あたりだ。長袖の濃いネイビーのアンダーシャツを着用しており、少し視線を下げればユニフォームの左胸に校名が見える。

 流麗な漢字の縦書きで「九里谷中央」、そう記されていた。


「他の連中は? 魚塚はおらんのか」


 そう言って彼が体ごとぐるりと辺りを見回した際に、背中の番号がタケルにもはっきりとわかった。背番号1、秋のドラフト会議でも一位指名間違いなしと噂されている剛腕投手の将野隆宏本人だ。

 将野の存在感に萎縮しながら、何とかタケルは問われたことに返事をする。


「今ちょうどナツ……魚塚を捜しているところなんです」


 気圧されているせいか、部外者に対して普段ならやらないような呼び方のミスをしてしまった。

 途端に将野は甲高い声を上げる。


「ナツぅ? 何やおまえ、あいつと仲ええんか。どうなんや」


 ぐいっと顔を近づけてくる将野にタケルはたじろぎ、思わず後ずさってしまう。そんなタケルの反応にもおかまいなく、なおもぐいぐい押してきた。

 仕方なくタケルは正直に答えてしまう。


「はあ、まあ、幼なじみだったんで、ある程度は」


「おう、ならLINEのアドレスくらいはわかるやろ。メアドでもええわ」


 待ちきれないといった様子の将野に選抜準優勝投手の面影はなく、タケルには質の悪いナツのファンに絡まれているようにしか思えなくなった。

 周りの九里谷中央野球部の面々に目で助けを訴えてみる。しかし誰も彼も視線を逸らすばかりで、一向に助けてくれそうな気配はない。うち一人は「すまん」とでも言いたげに両手を合わせている。

 こんな猛獣を放し飼いにしないでくれよ、とタケルは舌打ちしたい気持ちになりながらも、とにかく話をさっさと切りあげようと将野へ短く返答する。


「いや、あいつ持ってないんですよ」


「何をや」


「だからスマホどころかガラケーも」


 それは本当だった。仮に持っていたとしても教えるつもりはさらさらないが。

 そもそもナツには思春期らしいコミュニケーションへの欲求というものが欠落しているのではないか、とさえタケルは案じているのだ。携帯電話などに興味を示すはずもない。

 しかし事実を告げれば相手が納得するかといえば、それもまた違う。


「今時の女の子がそんなわけあるかい。嘘ついとったら為にならんぞコラ」


「嘘じゃありませんよ。そもそも自分から三本もホームランかっ飛ばした女の子に、いったい何て連絡するつもりなんですか」


 面倒くさくなってきたタケルは精いっぱいの皮肉を込めて訊ねたつもりだった。

 予想外なことに、むしろ将野は嬉しそうな顔をしながら質問に答える。


「アホ、そういう子やからええんやないか。相手が強ければ強いほど燃えるのが少年漫画の王道や。高校球児が燃えるんは夏と相場が決まっとるしな、再会するんも夏やと決めとったんや。あれから長かったわあ」


 こいつはマジでやばい、とタケルは戦慄した。ナツとは異なった方向に頭のネジが何本か飛んでいる。

 相手にしていられないとばかりにくるりと背を向けた。だがタケルの肩はがっしりとした将野の左手につかまれる。


「おいおい、失礼なやっちゃな。まだ話の途中やろ」


 暴れてでも振りほどこうとタケルが腹をくくったとき、どこからか聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。


「おい熊」


 続いて、ばちぃんと強烈な音がした。と同時に将野の巨体が膝からよろめく。


「なにタケルに絡んでるんだ。さっさと山に帰れ」


 ローキックを放った後の姿勢を片足で保ったまま、すぐそばにナツが怒りの表情を浮かべて立っていた。

 そしてきつい視線をタケルへと向ける。


「だいぶ捜した。勝手にいなくならないでよ」


「そりゃこっちのセリフだ。迷子だったのか」


 ついあきれた口調になってしまうのを意識しながらも、強ばっていた体の力が程よく抜けていくのをタケルは実感する。

 とりあえずナツを連れてこの場から早く逃れたかったのだが、傍らの野獣は何ごともなかったかのように立ち上がって笑みを浮かべていた。


「うほっ、効くわぁ」


「タフだな」


 ナツはナツでもう一度ファイティングポーズを取り直す。


「その気ぃ強いところがまたええね」


 うんうん、と気持ちが悪いほどの笑顔で将野は頷いている。


「ところで魚塚、LINEかメールのアドレスを教えてくれへん? ガラケーもスマホも持っとらんとかあるわけないもんな」


「は? 何のこと?」


 意味がわかっていないナツが説明を求めるようにタケルを見てくる。

 タケルは肩を竦めて言った。


「この人、思いこみが激しすぎて本当のことを言っても全然信じないんだよ」


「え、何? 自分それほんまの話なん?」


 まだ訝しげな将野に対して、さすがにタケルも苛立ちを隠せない。自然と返事も無愛想なものになってしまう。


「だからそう言ったでしょうが」


「それはまた……希少価値やな。こらますます胸きゅんや」


 この人にはもう何を言っても無駄だ、とタケルは心の中で匙を投げた。

 気がつけば周囲が少々ざわつきだしていた。考えてみれば将野隆宏と魚塚奈月、今大会の注目の的である二人の組み合わせなのだ。目立つなというのは無理な注文だろう。


「やれやれ、どこへ行ってもスターは辛いわ」


 嘆いてみせる調子とは裏腹に、まんざらでもなさそうな将野はこういう状況には慣れた様子だった。彼と自分とでは立っているステージが異なるのを、タケルとしても自覚せざるをえなかった。

 人格には多少、いや多大な難ありだが、この男はその右腕で頂点まであと一歩と迫ったのだ。今年の高校野球におけるスターには違いない。


「次に会えるんは準々の七月十七日やな。十日遅れの七夕みたいなもんですわ。楽しみで待ちきれんわあ」


「雨が降ったら別の日だから」


 つれない調子でナツが答えるも、将野にはまったく通じない。


「あいにく、おれは晴れ男やからね」


 まったく似合っていないウインクをしながら将野はぬけぬけと言い放つ。


「しょうもないところに負けんと、ちゃんと勝ち上がってきぃや。今度は全打席三振に取ったる」


「へえ。できるの?」


 あくまで無表情に煽るナツの言葉に、不敵な笑みを浮かべた将野もさわやかさからはかけ離れた挑発で応じた。


「悔しさで可愛い顔を歪めて泣いてるのを見たい。そういうのも好きなんや、おれ」

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