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ガール・ミーツ・ヤキュウ 1

 幼い頃からナツの身体能力は驚異的だった。少女に対する形容ではないだろうが、まさしく怪物そのものといっていい。人間離れしたその凄まじさを日比谷建はずっと間近で見続けてきた。

 ナツの才能は単純に力や速さといったことだけに留まらず、体の柔軟性や動体視力、未知なる競技の動きでもあっという間に習得してみせるセンス、要するにすべてがずば抜けて優秀だった。

 スポーツとなればタケルは何ひとつ、彼女に勝てた記憶がない。タケルだって体育の成績は上位だったのだが、相手が悪すぎる。ナツの存在は猫の集団の中に虎が混じっているようなものなのだ。


「タケル、それ何」


 親にねだり倒して買ってもらったばかりのグローブを持ち、入って間もない少年野球の練習へと向かう途中のタケルが、だぶだぶのユニフォームの襟首をナツにつかまれながらそう尋ねられたのは小学四年生に上がったばかりのときだ。この頃にはもうすでに二人の力関係はできあがっている。


「何って、グローブだよ。知らないの」


 ナッちゃん、と続けようとしたタケルは鼻をぎゅうっと摘まれてそのまま黙ってしまう。続けてナツはタケルの左手から、まだ馴染んでおらず固いグローブを無理やりもぎ取ろうとしながら「あたしにも貸して」と申し訳程度にお願いの言葉を添えた。


「わかったから、わかったから。あんまり乱暴にしないでよ」


 焦茶色の戦利品を自分の左手にはめたナツは、心配そうな表情で見守っているタケルを尻目に「ほー、ほー」と物珍しそうに眺め回していた。


「で、これ何に使うの?」


 いつもこうだ、とタケルは思う。並外れた能力とは裏腹に、彼女にはどこか常識的な要素が欠けているのだ。それとも天才と呼ばれるような人種はみなこういった風なのだろうか。

 自分の興味の範疇にないことに対して、ナツは無関心を通り越して無知だった。恐らく流行りの歌だってサビの部分すらわからないだろう。野球という有名なスポーツを知らなかったところで、タケルにとってはたいして驚くことでもない。

 ただし、いったん興味を示せば食らいついて離してくれないのもいつものことだ。


「野球ってスポーツに使うんだ。これがないと守れないってくらい大事な道具だよ」


「ヤキュウ……。何か、聞いたことがあるようなないような。卓球とは違うの?」


「──どこから説明すればいいんだろ。いろいろ違うんだけど、そうだな。卓球は体育館の中でやってたよね? 野球は外でやるんだ。それもすごく広い場所で」


 卓球はすでにナツのなかでブームを迎え、そして過ぎ去っていた。小学校では先生たちも含めて敵なしとなり、戦う相手がいなくなったナツは自然と卓球から離れるしかなかったのだ。


「広いところかー。面白そうだなー」


 ナツの目が輝きだす。野球に興味を抱いた確かな証拠だった。

 瞬く間に狭い世界での頂点まで駆け上がり、同じくらいの速さで興味を失っていく。そんなパターンをうんざりするほどタケルはそばで見てきた。直接的に速さを競う陸上や水泳における数々の種目をはじめ、球技に関しても卓球、サッカー、バレーボール。エトセトラ、エトセトラ。

 今度は少しでも長くナツが楽しめるように。

 そんな願いを込めて、タケルは彼女を野球に誘う。


「ナッちゃんも一緒に行こうよ」


 その言葉を待っていたかのように、本当に嬉しそうな顔をしてナツは笑った。


          ◇


 二人が住んでいたのは人口八千人程度の島だ。

 かつては製塩業で栄えていたのだが現在にその面影はなく、島民たちは漁業や農業などで細々と生活を営んでいる。

 日比谷家と魚塚家はそれなりに離れていたにもかかわらず、互いに一人っ子だった二人は幼なじみとしてたくさんの時間を一緒に過ごして育ってきた。都会の感覚ではありえない距離でも、田舎の感覚では普通にご近所さんなのだ。

 島内には二つの小学校があり、やや寂れた西端部にある日高小学校にタケルとナツは通っていた。そこの児童たちで構成されている少年野球のチームが日高パイレーツであり、四年生に進級したタケルもその一員となっていた。


「その子が噂のナッちゃんか! まさか、うちのチームに入ってくれるんか? 本当に本当か! 嘘だったらワシは泣くぞ! 泣くからな!」


 ナツを練習場所へ連れて行ったときの監督の喜びようは半端ではなかった。

 監督を務めている村上は特に野球経験があるわけではなく、野球好きが高じて少年たちの面倒を見ている近所の農家の人間に過ぎない。チームメイトは親しみ半分、からかい半分で「村上のおっさん」と陰で呼んでいる。

 今にも抱き締めんばかりの勢いの村上に対して、意外なほど人見知りをするナツはタケルの背に隠れるようにして身を縮めていた。この頃にはもうすでに彼女の身長はタケルより高い。


 村上が狂喜するのも無理はなかった。島の東部に位置する安平小学校にも安平ブラックスターズというチームがあり、両者のライバル意識は激しい。しかし戦績は圧倒的に安平が上で、このところは日高側の十六連敗中という残念な有様だった。


「よっしゃよっしゃ。これでもう安平の奴らにゃでかい顔をさせんぞお」


 そう言って村上はほくそ笑む。

 日高パイレーツには女子はいない。タケルとしてはその点でナツへの入団許可が出るかどうか心配していたのだが、どうやら取り越し苦労だったようだ。


「あの、監督。ナッちゃんはどこで見学してればいいですか」


 ナツはいつもの少し破れたジャージとTシャツというスタイルであり、普通に運動する分には問題なかった。しかし野球をするにはきちんとした準備がいる。

 そう考えて口にしたタケルだったが、村上は大きく手を左右に広げて笑い飛ばした。


「見学ぅ? おいおい日比谷、何言っとるか。グローブなら余っとる分がどこかにあるじゃろ。何ならワシのちょっといいグローブ使うか? 遠慮はいらん、ほれ」


 上機嫌な村上は手に持った自分のグローブを使うようしきりにナツに勧めてくる。タケルが後ろを向いてナツの意見を確認しようとすると、顔を小さく横に振り、タケルのグローブを静かに指差した。


「そっちがいい」


 言い出したら聞かないのはわかっている。無駄な抵抗をすることなくタケルは自分のグローブをナツに渡し、代わりに村上から受けとった。

 村上も現金なもので、使うのがタケルだとわかると「汚すんじゃないぞ」と手渡す際に一言付け加えてきた。

 さっきも自分の手にはめていたのに、今もナツはタケルのグローブを満足げに優しく触っている。


「今度、ナッちゃんの分を一緒に買いに行こう」


 手を伸ばしてタケルはナツの頭をぽん、と軽く叩いた。ナツも今度は頷いた。

 これから二人でキャッチボールをはじめようとした矢先、不意に聞こえよがしな大きな声がタケルの耳に届いてきた。


「おいおいマジかよ、女と野球かよ。冗談じゃねえ」


 声の主は六年生の洲崎だ。日高パイレーツの現エースであり、お山の大将といえる存在でもあった。

 タケルを見る洲崎の目が好意的でないのはタケル自身も感じていた。理由は明白で、タケルとナツの仲がいい、その一点に尽きることもわかっていた。

 ナツさえいなければきっと洲崎の運動能力なら小さな学校内のヒーローになれていただろう。しかしナツの存在は図らずも彼の地位をその他大勢の一人としてしまった。たかだか小学四年生の少女相手に、陸上のタイムでも水泳のタイムでも負けてしまう屈辱はいったいどれほどのものだっただろうか。


 タケルにはすでにそういった負の感情はない。気がつけばナツは自分よりはるか先を行っていた、たったそれだけのことだ。

 チームにナツが入ることで間違いなく摩擦は生まれる。そんな当たり前のことくらいタケルにだって予想できていた。それでも、タケルにとっての判断基準は「ナツのためかどうか」なのだ。彼女が野球に興味を持ったなら、それに協力する。これ以上ない単純な理屈だった。


「なあ、おまえらどう思うよ」


 洲崎はさらに声を張りあげ、チームメイトたちを自分に同調させようとしていた。

 慌てた村上は洲崎をなだめにかかる。


「おいおい、女の子とはいってもこのあたりじゃ無敵のナッちゃんだぞ。うちにとっては有望なニューフェイスじゃろうが」


 村上の発言を聞いたタケルは「この人は本当に何もわかっていないのだ」と軽い失望を覚えた。そんな言い方では逆効果ではないか。

 他の選手たちはみんな手を止めて事態の成り行きを見守っている。

 案の定、洲崎は村上の言うことなど聞く気はさらさらなさそうだった。


「ははん。でも野球ってけっこう危ないスポーツですからね。練習中や試合中に怪我されたっておれは知りませんよ」


 リズミカルにボールをグローブへと繰り返し投げつけながら、大股で洲崎はタケルたち三人がいるところまで歩いてきた。


「何だかんだいっても女だもんな。ひどい傷がずっと残ったりすんのは嫌だろ? 見ろよ、これ。こいつが刺さったら痛いぞお」


 そう口にしながら、洲崎はスパイクの裏についている鉄製の歯を見せる。

 洲崎なりの脅しではあるのだろう。しかし間違ってはいないな、とタケルも思う。実際、ナツの体のどこであれ、死ぬまで消えない傷が残ってしまったらと考えると顔のあたりが熱くなってきた。

 腕組みをした洲崎が勝ち誇ったように言った。


「わかったらさっさと帰れって。ちょっと運動神経がいいからって野球までできるだなんて思うなよ。なあ日比谷、おまえからもそう伝えてやれや」


 村上は洲崎とタケルとナツの顔を順繰りにおろおろ眺めているだけでまったく役に立ちそうもない。

 洲崎に何とかナツの存在を受け入れてもらうにはどうするべきか、そうタケルが思案していると後ろでナツが何ごとかを呟いた。


「────」


 よくは聞きとれなかったタケルが「ナッちゃん、もういっぺん」と耳を突きだすと、今度は叫ぶようにして言い直す。


「だから、ごちゃごちゃうるさいってば!」


 耳元で大声を出されたタケルもびっくりしたが、村上と洲崎はそれ以上に驚いた表情をしていた。

 正面切って下級生に反抗されたせいか、特に洲崎の顔はみるみる紅潮していく。


「おい、魚塚。ほんの少しおれより走るのが速かったからっていつまでも調子に乗ってんじゃねえぞ」


「? あんた誰? あたしのこと知ってるの?」


 燃えさかる洲崎の屈辱の炎に、ナツはさらなる油を注ぐ。タケルとしても、まさか洲崎が彼女の記憶の片隅にすら存在していないとは思ってもみなかった。

 怒りに震える洲崎が力任せにボールを地面へと叩きつける。

 一触即発の雰囲気をさすがにまずいと感じたか、村上が二人をとりなすように間に入ってきた。


「よ、よし。じゃあこうしよう。洲崎とナッちゃんで一打席勝負してもらって、勝った方の言い分を聞く。これで恨みっこなしじゃ」


 村上が慌てて出してきた解決案は圧倒的にナツにとって不利なものだった。彼女はそもそも野球のルールさえ知らないのだ。


「監督、それはちょっと──」


 抗議しようとするタケルの腕をナツがぎゅっとつかむ。

 そして首をふるふると横に振って、言った。


「いいよ、タケル。たぶん大丈夫」


「とことんなめやがって……」


 洲崎の感情はすでに怒りの頂点に達しているようだった。


「いいぜ、勝負してやるよ。ピッチャーでもバッターでも好きな方を選べや」


「ぴっちゃー? ばったー?」


 顔を小さく傾げ、異国の呪文のようにして繰り返すナツを見て、タケルも自分にできることをやろうと腹をくくる。

 意を決してタケルは切りだした。


「洲崎くん、ひとつだけお願いを聞いてもらってもいいですか」

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