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九里谷中央高校戦―終盤 3

 さっそく墨井が動き、一塁走者に代走の三年生山越を送る。

 この場面で何としても避けたいのはダブルプレーであり、やや走力で見劣りする東雲に代えて俊足の山越の起用は当然の采配だった。試合も終盤にさしかかり、実郷学園はすでに総力戦の様相を呈している。

 大きくリードをとる山越を将野はしきりに気にしていた。3点差あるとはいえまず1点返そうということで、二番久枝には送りバントのサインが出されている。その久枝に対して集中しきれないのか、将野はストライクが入らない。

 結果、久枝も四球で歩くこととなる。ノーアウトで一塁二塁。願ってもないチャンスが実郷学園に転がりこんできた。

 九里谷中央はここで守備のタイムをとった。将野の立つマウンドに内野の野手陣が集まり、三塁側ベンチから監督の指示を携えた伝令もやってくる。

 全員が大きく手を横に広げ息を吸い、そして吐く。それから彼らはグローブで将野の恵まれた体に思い思いにタッチして、それぞれの守備位置へと再び散っていった。


 三番三津浜へのサインも再び送りバントだ。二人のランナーを得点圏に進められれば、四番のナツが次打者に控える実郷学園としては押せ押せの展開である。ただし、一塁が空いたその場合に今度も将野が勝負してくれるとはかぎらない。将野のプライドがどうであれ、ナツ相手なら敬遠という作戦がもっともリスクが小さい。

 初球を三津浜がバントし損ねた時点で墨井のサインはヒッティングに切り替わった。三津浜のバント技術への不安ももちろんだが、墨井の念頭にナツの敬遠をなるべく避けたい思いがあるのは間違いない。

 ツー・エンド・ワンからの四球目、内角への直球を三津浜は打ち返した。強い打球はダブルプレー狙いで二塁ベース寄りに守っていたショート正面へと飛ぶ。

 二塁走者山越のスタートは早く、それを確認した九里谷中央のショートは打球から一瞬目を切ってしまった。それが命取りとなった。グローブに収まりきらず大きく弾かれた打球はサード方向へと転がっていく。

 一拍遅れてやってきた揺れるような球場全体のどよめきが、この試合最大の山場がやってきたことを雄弁に物語っていた。

 すべての塁は埋まり、前の打席でホームランを放っているナツがくる。


「こりゃあ、えらいことになってきたな」


 投球練習を続けていた加藤が中断し、タケルに声をかけてきた。

 タケルもネクストバッターズサークルにたたずむナツの姿を見つめながら「ですね」と答える。


「なんか、心臓が飛び跳ねているような感じっす」


 そんなタケルの緊張などいざ知らず、いつものようにナツは打席へと向かう。この日いちばんの大歓声に迎えられながら。

 ノーアウト満塁で次打者がナツ。およそ最悪といっていいピンチにありながら、マウンドの将野隆宏はなぜか笑顔だった。

 そして頭を下げて詫びるショートに、「どうにかしてみせるさ」とばかりにその分厚い胸板をどんと叩いてみせた。

 将野は灼熱のマウンドに仁王立ちし、目をつむって呼吸を整える。それから全身を震わせるようにして「しょあああ!」と叫び声をあげた。

 その気迫に満ちた姿には、勝負から逃げる意思は微塵も感じとれない。

 対照的なのはナツだ。ルーティーンを行っているような淡々とした動きだけで判断すれば、もしかしたらこの球場で彼女だけが平熱でいるのかもしれない、とタケルは思う。けれども信じていた。彼女自身が口にした「あたしが打って勝つ」という言葉を。

 天高くに捧げられたバットは再びナツの体に引きつけられる。わずかなぶれもなく静止し、振られるその瞬間を待っていた。


 ランナーなどもはや眼中になし、敵はただ魚塚奈月のみ。そう語るように将野は両手を大きく振りかぶるワインドアップモーションをとる。

 そうして投じられた初球は外角低めへの糸を引くようなストレート。ナツも果敢に狙っていったが、明らかに振り遅れて打球は三塁側寄りのバックネットを直撃する。

 ナツの並外れたアジャスト能力は一打席目より二打席目、二打席目より三打席目というように試合が進む中でどんどん相手に対応し、球筋を見極めた投手を打ち損なうなどタケルですらほとんどお目にかかったことがなかった。

 結論はひとつだった。つまり、今の将野はナツにとって最高のボールを投げてきている。そんな将野の輝きは明らかにただこの瞬間のためだけのものだ。もしかしたら未来をなげうった蝋燭の最後のひと燃えなのかもしれない。

 最後の夏に敗れ去り、悲しげに「これで野球とはサヨナラだ」と呟いた洲崎の姿を反射的に思い浮かべたタケルは、無意識のうちに右手でぎゅっと左の肩口の袖を握りしめた。

 敵とはいえ、あの剛腕将野が無残に崩れ落ちる場面を見たいわけではない。

 どんな形でかはわからないが、この怪物同士の対決に勝つのはきっとナツだ。そこには残酷なほどの光と影のコントラストが生まれ、いっとき交差した二人の野球人生は再び離れていくのだろう。


 二球目はナツの内角を鋭く抉るスライダーだ。今春の選抜において、直球が走っていないゲームではこちらを決め球としていたほどであり、ナツも一打席目では見事に崩されている。

 この打席でもナツは内角へのスライダーを捉えきれなかった。スイングしたバットの根元に当たり、右足のふくらはぎを打球が直撃する。

 しかし自打球の痛みなど彼女は意に介さない。一塁側ベンチからはスプレーを持った控えの選手が出てこようとしていたが、ナツ自身が手を振って追い返してしまった。


 何ごともなかったかのように、再びバットを突きあげてからナツが構え直す。球審のコールがかかるや、将野は跳ねるようなリズムで三球目を投げこんできた。キャッチャーのミットは外角、そこへわずかに沈むツーシームが絶妙な制球で収まった。

 ナツのバットも反応はしたものの、ボール球とみてスイングにはなっていない。というよりもそのコースではたとえナツであれ、手を出せば確実に打ち取られていただろう。

 ストライクとコールされても文句は言えないぎりぎりのところだったが、球審の右手は上がらなかった。これでカウントはワンボール・ツーストライク。

 ナツが追い込まれているのに変わりはないが、結果的にここで三振とならなかったことが二人の怪物の勝敗をわけた。


 四球目の前に将野はキャッチャーからのサインに一度首を横に振った。そして次のサインで大きく頷く。

 振りかぶった将野は胸を張り、右腕をしならせて渾身のボールをリリースする。左足にその巨躯の体重を乗せ、怪我を抱えているはずの右足を高く跳ね上げる躍動感あふれるフォームはタケルからみても「美しい」の一語に尽きた。

 恐ろしくスピンの利いたストレートは、もはや直球というよりは伸びる変化球と形容した方がより実感に近いかもしれない。そんな高校生レベルでは次元の違うボールが、約18.4メートルの距離をあっという間に飛び越えて真ん中高めのキャッチャーミットに吸いこまれようとする、その瞬間。

 本当にごく軽く、ナツがバットを振って将野の快速球にちょこんと合わせた。

 少なくともタケルの目にはそう映ったのだ。

 だが逆回転をかけられた打球はぐんぐんと伸びていき、誰もが呆気にとられたように見守るなかでバックスクリーンに飛びこんでいった。

 剛腕将野のプライドを完膚なきまでに打ち砕く満塁ホームランだ。


 7―6。これで四度、試合はひっくり返された。この結果を何となく予測していたタケルでさえ全身が総毛だったのだ、他の人たちは文字通り度肝を抜かれたことだろう。心臓発作を起こしている人がいないことを願う。

 山越、久枝、三津浜に続いてナツもゆっくりと、しかし平然とダイヤモンドを回る。

 次々と実郷学園の選手たちがホームへと還ってくる姿を眺めながら、タケルは自らの気持ちを引き締めた。

 ナツは約束を違えず打ってくれた。あとは、シーソーゲームをここで打ち止めにするだけだ。

 自分が、ではない。タケルは己の実力をよく知っている。実郷学園野球部の全員、そして甲子園出場を果たせなかった先輩たちの思いまでも含め、あくまでその代表の一人としてプレーをするのだ。

 ただ自分のためだけでなく、いろいろなものを背負ってグラウンドで戦う覚悟がタケルにはあった。

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