春一番が運んだ、変わらない場所
数日後、春一番の吹き荒れた街に、ようやく静かな朝が訪れた。
テレビのニュースでは、大規模なサイバー攻撃を企てた詐欺グループの摘発を報じていた。画面に一瞬映し出された男の横顔は、ヨレヨレのジャンパーを脱ぎ捨て、高価そうなスーツに身を包んでいたが、警察官に押さえつけられたその姿には、かつての「剛」の面影はどこにもなかった。
リビングのソファで、瑞穂は小さくなってそのニュースを見つめていた。
信一が凍結させた資金は無事に戻り、瑞穂が漏らした情報も、信一が仕掛けた「罠」のおかげで最悪の事態は免れた。しかし、瑞穂の胸に空いた穴は、そう簡単には塞がらない。
キッチンから、信一が淹れたコーヒーの香りが漂ってきた。
「……おい、瑞穂。ニュースはもういい」
信一がトレイを置いて、瑞穂の向かいに座った。その動作は以前よりも少しだけ機敏で、どこか自信に満ちている。
「今回の件だがな、お前の軽率な行動が招いた結果だ。そこについては、俺は一歩も引くつもりはない。いいか、そもそも情報のセキュリティというのはだな、外側の壁を厚くするだけでは不十分なんだ。一番の脆弱性は、いつだって内部……つまり人間の心にあるんだよ。俺が現役の頃、1990年代のシステム構築においてだな……」
始まった。
いつもの、要点を得ない、果てしなく続く信一の長話だ。
以前の瑞穂なら、ため息をついて席を立っていただろう。だが、今の瑞穂はその言葉を一つも漏らさぬように、じっと信一の目を見ていた。
彼の話は長い。理屈っぽくて、専門用語ばかりで、退屈だ。
けれど、その冗長な言葉の裏には、彼が人生をかけて守ってきた誠実さと、不器用なまでの自負が詰まっている。瑞穂を騙した「剛」の、要点だけを突いた甘い毒薬のような言葉とは、正反対の重みがあった。
「……だからだな、お前も今後はもう少し論理的に物事を考える習慣をつけるべきなんだ。分かっているのか?」
一時間近く話し続けた信一が、ようやくコーヒーを一口啜った。
「ええ、分かったわ、信一さん。……本当に、ごめんなさい。そして、ありがとう」
瑞穂が深く頭を下げると、信一は少し照れくさそうに視線を泳がせ、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ふん。謝るくらいなら、今日の夕飯は少し手の込んだものを作れ。あの、なんだ、お前がよく作る……金平牛蒡だ。あれは歯応えがあって、脳の活性化にいい。牛蒡の食物繊維というのはだな、実は……」
「……いいか瑞穂。牛蒡の不溶性食物繊維というのはだな、腸内環境を整えるだけじゃない。咀嚼による脳への刺激こそが、現代人の認知機能を……」
瑞穂はふっと口元を緩め、キッチンへ向かった。
背後からは、まだ信一の「講義」が続いている。瑞穂はまな板の上に牛蒡を置き、包丁を握った。
トントン、トントン。
規則正しい乾いた音が、静かなリビングに響く。それは、信一の理屈っぽくも誠実な声に寄り添う、穏やかなBGMのようだった。
(私、馬鹿だったわ。こんなに幸せだったのに。自分の居場所がこんなにも安らかで温かいことに、今頃気付いたなんて……)
トントン、トントン。
(信一さんで大正解よ。ここは、私の一生の中で一番多くの時間を分かち合う、かけがえのない、変わらない場所だわ)
「おい、聞いているのか? つまりだな、この成分が……」
「ええ、聞いてるわ。食物繊維、大事よね」
瑞穂は晴れやかな気持ちで、力強く包丁を動かし続けた。
窓の外では、雪解けの水が川になって流れていくような、穏やかな日差しが降り注いでいた。
もうすぐ、本当の春が来る。




