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終わらない春一番と冷めた嘘

 剛と約束した、三度目の待ち合わせ。

 場所は、最初に再会した駅から少し離れた、古い橋の上だった。


「ここを渡れば、新しい人生が始まる」


 剛のその言葉を信じて、瑞穂は小さなキャリーケースに最低限の荷物を詰め込み、家を飛び出してきた。信一には「パート仲間と旅行に行く」と嘘をついた。昨夜、信一がシステム異常の報告を受けて青い顔でパソコンに向かっていた姿が目に焼き付いている。


(ごめんなさい、信一さん。でも、私は私の人生を生きるわ)

 胸を締め付ける罪悪感を、剛への愛という言い訳で無理やり押しつぶす。


 約束の時間は18時。


 春一番の名残か、風はまだ強く、生温かい。花粉症のせいで、目元が熱く、視界が少し滲む。


 18時10分。剛はまだ来ない。

(日雇いの仕事が長引いているのかもしれないわ)


 18時30分。


 瑞穂はスマートフォンを取り出し、剛にメッセージを送った。『剛、今どこ? 私、橋の上で待ってるわ』


 既読はつかない。


 19時。辺りは完全に闇に包まれた。


 風は次第に冷たくなり、瑞穂の体の芯を冷やしていく。

(どうして? 何か事故にでも……)


 焦燥感が膨らみ、剛の番号に電話をかけた。


『おかけになった電話番号は、現在使われておりません……』


 無機質なアナウンスが、風の音に掻き消される。

 瑞穂の血の気が、一気に引いた。

 使われていない? さっきまで連絡がついていたのに?


 その時、バッグの中でスマートフォンが震えた。剛からの連絡か、と画面を見ると、それは信一からの着信だった。


「……もしもし」


『瑞穂! お前、今どこにいる!』

 信一の、聞いたこともないような怒号。


『銀行から連絡があった! 俺の個人口座の資産が、すべて海外の口座に送金されている! それだけじゃない、俺が持っていた昔のシステムのアクセス権を使って、何者かがサイバー攻撃を……お前、俺のデスクの設計図、見たな? あのヨレヨレの男に、何を話した!』


 信一の言葉が、すぐには理解できなかった。


 個人資産? 海外送金? サイバー攻撃?

(剛は……建築家で、投資に失敗して、日雇いで……)


 瑞穂の脳裏に、これまでの剛の言葉が蘇る。


『命の恩人の言葉だよ』

『再起のための道が完全に見えた』

『君という「幸運」をもう二度と離したくない』


 それらはすべて、信一の情報という「獲物」を引き出すための、簡潔で、要点を得た、完璧な演技だった。


 ヨレヨレのジャンパーも、荒れた手も、瑞穂の同情を誘うための小道具に過ぎなかったのだ。


「剛……」


 瑞穂の手から、スマートフォンが滑り落ちる。

 橋の下を流れる川の音が、やけに大きく聞こえた。


 もうすぐ春だね、と浮かれていた自分。重いコートを脱いで、新しい恋をしようと夢見た自分。


 その代償は、夫のすべてを奪い、自分自身を犯罪の共犯者へと貶めることだった。


 剛は、もういない。

 どこか遠い国で、信一から奪った金で、冷笑を浮かべているのだろう。

 

 瑞穂はその場に泣き崩れた。


 春一番の風は、もう温もりなど微塵も感じさせず、彼女の絶望を嘲笑うように、ただ冷たく吹き荒れていた。




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