静かすぎる食卓と終わらない講義
帰宅すると、リビングにはテレビのニュース番組の音だけが虚しく響いていた。
キッチンに立つ瑞穂の耳に、風呂上がりで上機嫌な信一の声が飛んでくる。
「おい瑞穂、今日のニュース見たか? 大手銀行のシステム障害の件だよ。やれやれ、これだから今の若いエンジニアは困るんだ。表面上のUIばかり綺麗に整えて、肝心の根幹……いわゆるレガシーシステムへの理解がこれっぽっちも足りていない」
瑞穂は適当に相槌を打ちながら、買ってきた惣菜を皿に移した。
(今の私には、そんな話はどうでもいいの。剛は今頃、どこで何を食べているかしら。あのボロボロの靴で、夜道を歩いているんじゃないかしら……)
食卓についても、信一の独壇場は続いた。
「いいか、瑞穂。俺たちが現役だった頃のコードっていうのは、ある種の職人芸なんだ。特に金融機関のメインフレームに使われている古い言語は、今の人間には解読すら難しい。だからこそ、特定の古いポートを開けっ放しにしている場所がある。そこを叩けば、システム全体が沈黙する。……聞いてるのか?」
信一は箸を止め、瑞穂を問い詰めるような視線を向けた。いつもの、相手を生徒か部下のように扱う目だ。
「ええ、聞いてるわよ。その……『古いポート』っていうのが、弱点なのね?」
「弱点なんて単純なものじゃない。それは設計思想の遺産だよ。例えばだな、俺が最後に担当したプロジェクトでも、緊急時用のバックドアとして……」
そこから先は、信一の自己満足な知識の披露だった。瑞穂にとって、その言葉の一つ一つは呪文のように難解で、じれったい。
だが、今の瑞穂は以前のように聞き流すことはしなかった。
(……バックドア。剛が言っていた『もう一度戦う』ために、こういう情報が役に立つのかもしれない。剛なら、信一さんみたいに威張ったりせず、もっと分かりやすく、私の目を見て話してくれるはずなのに)
「信一さん、そのバックドアの話、もう少し詳しく教えて? 凄く興味があるわ」
瑞穂が珍しく身を乗り出したことに、信一は気を良くしたらしい。
「ほう、お前もようやく技術の深淵に興味が出てきたか。よし、それじゃあ基本のアーキテクチャから説明してやろう。まずだな……」
延々と続く信一の講釈。要点を絞らない、独りよがりの長話。
瑞穂は、冷めた焼き魚を口に運びながら、心の中で剛の温かな手のひらを思い出していた。
(ごめんなさい、信一さん。でも、あなたのその溢れる知識が、誰かの人生を救うことになるのよ。……私が、それを剛に届けてあげるから)
瑞穂の瞳には、献身的な妻の仮面を被った、危うい光が宿っていた。




