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夕暮れの喫茶店、蜜の味のする罠

 駅前の古びた喫茶店。琥珀色の照明の下で、剛は運ばれてきたブレンドコーヒーを一口啜り、小さく息を吐いた。


「……ごめん。こんな情けない話、瑞穂にしかできないよ」

 剛は伏せていた目をゆっくりと上げ、瑞穂の瞳をじっと見つめた。その視線は昔と同じように真っ直ぐで、迷いがない。要点だけを、心に直接届くような低い声で紡ぐ。


「家も、家族も、建築家としてのプライドも、投資の失敗ですべて失った。今は、日雇いの現場を転々とする毎日だ。……でも、今日こうして君に会えた。それだけで、俺の人生まだ捨てたもんじゃないって思えたんだ」



 瑞穂の胸が、ズキンと疼いた。


 目の前の剛は、ヨレヨレのジャンパーを着て、手は少し荒れている。かつての輝きを失った彼の姿に、瑞穂は抑えきれない同情と、自分だけが彼を理解できるという甘美な高揚感を抱いた。


「そんな……。剛、あなたは悪くないわ。一生懸命やった結果でしょう?」

 

瑞穂は身を乗り出し、夫の信一には決して見せないような熱い眼差しを向けた。


「ねえ、剛。私の夫は元システムエンジニアなの。今はもう隠居の身だけど、現役の頃は大きな金融機関のシステムをいくつも作っていたんですって。……時々、お酒が入ると自慢げに話すのよ。『今の銀行システムは、俺たちが昔作った古い土台の上に無理やり新しいプログラムを継ぎ接ぎしているから、特定の操作を繰り返すと致命的な隙ができるんだ』って。私には難しくてよく分からないけれど」



 剛の瞳の奥で、一瞬だけ、鋭い光が走った。しかし、彼はすぐにそれを慈しむような微笑みに変えた。

「……そうか。信一さんという方は、すごい技術を持った人なんだね」


「そんなことないわ、ただの偏屈な老人よ。でも、もし何かあなたを助けられるような情報があればと思って。剛、あなたはもっと上の世界に戻るべき人だわ」


「ありがとう、瑞穂。君の優しさだけで、俺はまた戦える気がするよ」

 剛は、瑞穂が差し出した手を優しく握りしめた。その温もりに、瑞穂は顔を赤らめる。

 


一時間後。

「じゃあ、また連絡するよ。今日は本当にありがとう」

 夕闇に紛れるように、背中を丸めて去っていく剛の姿を、瑞穂はいつまでも名残惜しそうに見送っていた。



――角を曲がり、瑞穂の視界から完全に消えた瞬間。


 剛の背筋が、まるで別人のようにピンと伸びた。

 表情から一切の温もりが消え、能面のような冷酷さが宿る。彼はポケットからスマートフォンを取り出すと、手慣れた動作でメッセージを送った。

『ターゲットの妻から、旧世代サーバーの脆弱性の手掛かりを得た。信一の口からさらに具体的な「裏口」を吐かせる。準備を進めろ』


 道端に停められていた、艶やかな漆黒の高級セダン。剛は使い古したジャンパーを脱ぎ捨てて後部座席に乗り込むと、冷笑を浮かべて夜の街へと車を走らせた。




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