【9】雄大な愛
リオネルとエレノアの距離が縮まります。
「それでは早速やってみましょう。エレノア様、ヴァイオリンを構えてみて下さい」
ヴァイオリンが安定するように顎と肩で挟むように支えて構える。
「少し肩が力みがちですね。もう少しリラックスして、弓は優しく摘むように持ってみて下さい。ネックを握り込むと肩の動きが制限されてしまうので、手首は柔らかくするイメージで」
言われた通りにヴァイオリンを構えて弾くと、習いたてのときより雑音のない綺麗な音が出るようになった。
「さすがエレノア様は飲み込みがお早い。これなら簡単な曲はすぐに弾けるようになりますよ」
筋が良いと褒められ、私は嬉しくて微笑んだ。
褒められるともっと頑張ろうとやる気が出る。
リオネル様から指導してもらいながら、初心者向けの簡単な曲を弾いてみた。
「素晴らしい。音の乱れもなく、正しい旋律を弾けていますよ。エレノア様のヴァイオリンは耳にとても心地良い。才能がおありです」
リオネル様に称賛され、照れて顔が赤くなってしまった。
それに先ほどからリオネル様は、私がちゃんと正しい姿勢を取れているか、弦をきちんと押さえられているかを確認するために、やや近距離に顔を近付ける。
リオネル様は真剣な面持ちで私にヴァイオリンを教えてくれるが、今まで人生でこんなにも男性に、しかも彫刻のように整った顔の男性に近付かれたことのない私は、心臓が早鐘のように脈打っている。
表情に出さないように気を付けてはいるが、緊張と震えで上手く弾けなくなってきた。
「エレノア様、どうされました?何だかお顔が赤いようですが、もしやご体調が優れませんか」
初夏とはいえ、日陰に入れば吹く風が少し肌寒く感じる季節だ。
私の顔が赤くなっているのを体調不良と勘違いしたリオネル様は、慌てた様子で私をベンチに座らせると、着ていたジャケットを脱いで羽織らせてくれた。
甘く上品なアンバーグリスの香りがふわっと漂い、ジャケットに残ったリオネル様の体温も相まって、私は途端に目眩がしてきた。
(私ったら、どうしたのかしら…何だか、変だわ)
自分でも訳が分からない感情に戸惑っていると、リオネル様が「少し失礼します」と断りを入れて、私の額に手を当てて熱を測る。
もはや破裂するのではないかというくらい心臓は痛く、激しく鳴り続けている。
「熱はないようですが、吐き気などはありませんか?念の為、医師に診察してもらいましょう」
使用人を呼んできますと、立ち上がりかけたリオネル様の手を私は慌てて掴んだ。
(大丈夫です、少し休めば治りますから)
そう口で形作って必死に伝えた。
しかし、私は自分からリオネル様に直接触れてしまったことに気付いて、ますます顔を赤くして俯いた。
どうかリオネル様に悟られませんようにと、ぎゅっと強く目を瞑る。
(気持ち悪いって思われたらどうしよう…)
脳裏にユリルやお父様に言われてきた言葉が次々とよぎる。
『不細工な顔のくせに』
『身の程知らずの卑しい娘』
『伯爵家の汚点が』
希愛に綺麗にお化粧してもらい、ルルリア様と共に礼儀作法を学び、リオネル様に音楽を教わる。
それだけで、自分が貴族の令嬢として一人前になったなど、思い上がったのかもしれない。
私は調子に乗ってしまったのだ。
(この気持ちを知られたら、もうここにはいられない…)
恥ずかしさと自分への怒りに、目に涙が盛り上がる。
涙が零れる前に早く逃げ出そうと、リオネル様から手を離して立ち上がり、外へ走りかけた。
「お待ち下さい!」
今度はリオネル様が私の手を掴んで止めた。
私は顔を見られたくなくて俯いたまま、震えながら首を横に振った。
(離して…きっと醜い顔をしているわ……)
リオネル様はしばらく無言のまま、私の手を掴んでいた。
二人の間を温い風が吹き抜けていく。
リオネル様は私の手を離そうとはせず、私も動けないまま立ち尽くしている。
どのくらい時が経っただろう。
「…エレノア様」
リオネル様が絞り出すように私の名前を呼んだ。
何を言われるのか怖くて、私は返事が出来ない。
リオネル様は優しい方だから、きっと私を傷付けないよう言葉を選んでいるに違いない。
それが申し訳なくて、自分が情けなくて、つい涙が零れ落ちてしまった。
――次の瞬間、私はリオネル様の胸に抱き締められるように、その両腕に包まれていた。
一体何が起こったのか分からなかった。
先ほどふわりと香ったアンバーグリスが、今度ははっきりと強く私の鼻をくすぐる。
あまりの甘美な香りに私の頭はクラクラとしてしまった。
「申し訳ありません。どうか、泣かないで下さい」
リオネル様はゆっくり深呼吸する。
抱き締められた胸から鼓動が伝わって、私の体温は上がっていった。
「私は、初めてこんな感情を抱きました。友愛とも親愛とも違う、初めて人をこんなにも深く愛おしいと。あなたはいつも穏やかに、花のような笑顔で私の隣にいてくれる。それがとても嬉しくて、あまりに幸福で、あなたを、誰にも渡したくないと思ってしまった」
リオネル様は私の頭に手を置いて優しく抱き締めたまま、囁くように言葉を紡いでいく。
(これは夢かしら…?何が起こって……)
私といる時間が幸福だったと、リオネル様は言った。
その言葉が私の凍った心に静かに響いて、春の陽だまりのように暖かく溶かしてくれる。
もはや涙は止まることを知らず、ポロポロと溢れ続けた。
(泣かないで?無理だわ…だってこんなにも幸福で…)
私はゆっくり顔を上げ、リオネル様の深い海のような瞳を見つめる。
リオネル様も今にも泣きそうな潤んだ瞳で、私たちはそのまましばし見つめ合った。
「私も、あなたを、愛して、おりま、す」
声が掠れて小さく、言葉もつっかえてしまったが、リオネル様はちゃんと聞き取ってくれた。
きっと今の私は涙のせいで、お化粧がひどい有様になっているだろう。
それでも私はもう俯くことはなかった。
リオネル様の背に腕を回して、甘い香りに包まれる。
陽光に照らされた純白のカサブランカが、まるで祝福するかのように、柔らかな風に揺られていた。
***
「お兄様!どちらに行ってらしたの?とっても探しましたのよ。エルトンがお兄様にお話があるのですって」
屋敷に戻るとルルリア様が希愛と共に私たちを出迎えた。
予定より外で長居してしまったので、ルルリア様たちは心配していたらしい。
「すまない、ルルリア。エレノア様にヴァイオリンをお教えしていたら、つい熱中してしまってね。すぐに行くよ。それではエレノア様、ごゆっくりお休み下さい」
リオネル様は振り返って私に優しく微笑むと、奥に控える家令のエルトンの元へ向かって行った。
その後ろ姿を見送りながら、まだほんのり赤く、熱を帯びている頬を両手で押さえる。
「お兄様ったら随分とご機嫌でいらしてるわ。エレノア様、何かご存知?」
不思議そうな顔をするルルリア様に聞かれたが、先ほどの出来事を正直に話せるはずもなく、私は首を傾げて知らない振りをする。
「エレノア様、ルルリア様。さぁ、お部屋に戻りましょう」
希愛がコホンと咳払いをして、私とルルリア様の間に入る。
察しの良い希愛に助けられ、私たちはしばしのティータイムのために部屋へ向かった。
読んで頂き、ありがとうございます!
苦しみながら書いた部分です。




