終わりの世界
「ーー…誓いますか?」
「…はい、誓います」
「では指輪の交換を」
胸がいっぱいで、差し出す指も、支えられる手も微かに震えていた。
「このふたりを伴侶と認め、新たな夫婦の誕生をここに宣言しますーー誓いのキスを。」
一生に一度の日。
ふわりとベールを上げられ、あまく細まる瞳に見つめられれば我慢していた涙が零れた。
彼が笑い、愛してるよ、と。
わたしに近づくーー
「……ッ、!?……仁那……ッ!!」
ことはなかった。
目が眩むほどの閃光と何かに阻まれるように弾き飛ばされた彼が、手を伸ばす姿が最後。
悲鳴のなかでわたしの名前を叫ぶ彼の声。
それを掴もうとして、
わたしの世界が、終わりを告げた。
「聖女さま…っ」
次に目覚めたのは、嫌味なほど白い天井の下だった。
見たことのない外国人に覗き込まれていて、劈くような悲鳴が自分の喉から出た。
「…っ、」
「驚かせてしまい申し訳ございません…私、聖カリメラ正教会のグラスと申します。
ここはアーシア王国王都にある教会本部の一室です。…先日新たな魔王の誕生が確認され、すでに小規模な衝突が世界各地で起こっております。
…それらを討ち払うお力をお借りしたく、此度聖女さまを召喚する儀式を行い、異世界からあなたさまをお招きさせていただいたのです」
「ーー」
「混乱されるのも無理はありません…ですがどうか王国、世界を救うためお力をお貸しください…っ」
何を、言ってんの?
何を言われてるのか、わたしは何も、わからなかった。
ひとことも話さず怯えるわたしを見てグラスと名乗った男は困ったように眉を下げ、今日はゆっくりお休みください、と部屋を出て行った。
「…ッ、…な、つ、…っ…奈津…ッ」
わたしはウエディングドレスのままで、薬指には指輪があった。
呼べなかった彼の名前をくり返しながら、声を押し殺して泣いた。
そのあいだ、誰かが部屋に来て何かを置いていったけど、わたしはずっと泣き続けていた。
ただ、奈津が恋しくて。
今思えば不安と恐怖のせいもあったけど、わたしは奈津が恋しかったんだ。
ひとしきり泣いたあとよろよろと立ち上がり、窓のほうへ向かう。
明かり取りの窓は開かない。
そして知らない景色があるのを見てまた、泣いた。
これ以上ないというほど泣いて。それこそ枯れるほど泣いてーー。
それが少しわたしの思考を、冷静にさせた。
聖女、魔物、異世界。
こんなことがほんとうに起こるなんて。自分の身に降りかかるなんて思わなかった。
あり得ない。信じられない。信じたくない。
否定の言葉ばかり浮かぶ。
ーーでも、
部屋に置いてある教本。
見たことない記号のような文字がなぜか理解できてしまうから。だからさっきの男の言葉も通じたんだとわかったから。
外国語なんて苦手なのに、…海外に行ったときは奈津任せだったわたしが、こんなことできるわけないから。
ドレスを握りしめて立ち尽くす。
…奈津、……奈津、わたし、どうしたらいい?
もう会えないなんてやだよ。会いたい。帰りたい。
そのために、どうすればいい?どうやって方法を見つければいい…?
「………………知ること、」
わたしが出した答えはそれだった。
この世界について。聖女について。
生活様式もルールも何もわからない。法律も。
そもそも自分の知ってる常識が通用するのかもわからない。
わからないままでは何もできない。招かれたって言っても、きっとここでは異物。
敵も味方も、命の保障すらあるかわからない。
わたしはここで何をされるのか。何をしなきゃいけないのか。
逃げれなくても生き延びるために、知識をつけること。
どんなことをしても元の世界に、帰るために。
涙をぬぐい、震える呼吸が治まるのを待って。
それから部屋の本棚を見上げた。
白い天井まで片面の壁を埋めるようにずらりと並べてある。
うんざりするけど時間の許す限り読んでやろうと決めて、何冊か手に取りベッドに座る。
ドレスはもうしわくちゃで、また涙が滲みそうになるけど堪えてくちびるを噛みしめた。
もう泣かない。そんなひまがあったら少しでもできることを考えないと。
ーーそうしていないと、暗闇に沈んでしまいそうになるから。
この世界の大陸は五つに分けられてそれぞれに神がいる。建国五百年のこの国は女神信仰。教会は唯一女神と会話できるため王家より権威がある。
そして"聖女"は、必ず異界から選ばれる。
今まで何度も現れたと書いてある。
女神の思し召し。奇跡。
ーー現れたんじゃなく、拐ったくせに。
いつの時代もどんな世界も歴史なんて、都合よく改竄されるんだ。
今までいったい何人のひとが、こんな恐怖をあじわったんだろう。
みんなしあわせに暮らしましたなんて、嘘でくくる物語。
その陰にいったいどれだけの理不尽があったのか。
わたしは気が狂ったようにページを捲り続けた。
ひとが出入りする。
わたしが返した言葉なんてこれくらいだった。
『自分でやります』
『ありません』
そして、
『教育を受けさせてください』
水とパン。野菜と肉のようなモノが入ったスープ。果物。
毎回おなじメニューでも飽きずにありがたくいただいた。食べれるだけマシ。いつそうじゃなくなるかわからないし、空腹でいることだけは避けたかった。思考が鈍るし体力だって保たなくなるのは困るから。
『聖女さまに教育など必要ございません』
ばかにしやがって。
そう恭しく言われたときわたしはここに来て初めて笑った。
脱いだドレスを抱きしめ、ベールを裂きリボンにして髪を結ぶ。
「……なつ、……」
今どうしてる?こんなことになってごめんね。怪我してない?傷つけてごめんね。
わたしがんばるから、待っててくれる?浦島太郎みたいにどっちかが年をとってても、待っててくれる?
…………待っていられなかったとしても、おかえりって、言ってくれる?会ってくれる?
わがままでごめんね。ごめんね、奈津。
だいすきだよ。あいしてる。会いたいよ。
奈津、奈津、こんなことになって、ごめんね。
がんばるから、だからーー。
「帰る方法なんて、ある訳ねェよ」
どれくらい時間が経っただろう。
軟禁状態のまま。
初めて連れ出された先の場所で偉そうな奴らに尊い使命とやらをきかされてから。
戦場に連れ出されてから。最前線に放り出されてから。真価を発揮するにはそれしかないと引き摺り出されてから。夥しい量の血をぶち撒けられてから。
そうできなければこうなるんだと大勢が死ぬのを見せつけられてから。
ーー何も、見つけることのできないまま。
役目を果たせば帰れるからと、詐欺師たちの嘘に縋るしかできなくなってから。
「……ふ、」
いったいどれだけ時間が経った?
嘘つきしかいないこの世界で真実を話してくれたのは今目の前でわたしを殺そうとしている魔族だけだなんて、
狂った世界で。
「……何笑ってやがる」
「笑うしかなくない?皮肉すぎるでしょ」
コイツが現れた途端みんな逃げ出した。偉大な聖女サマを囮にして。
「戻れるとでも思ってるのか」コイツはそう言った。
結界を張る前に吹き飛ばされて、誰かの血が流れてる地面に横たわるわたしを見下ろしながら。
きっと今までの聖女たちもコイツに殺されたんだ。上手くいったことなんてなかったんだ。
だから何度も何度も何度もくり返す。ほんと、最悪。
聖女は礎となり国に平和をもたらした。
光となり、希望となって。
違うだろ。拉致られて人殺しの訓練をさせられて人殺しをさせられて絶望して殺されたが正解だろーが。
笑える。
その真実を知ってるのが魔族だけなんて最悪すぎるって。
「なんか知ってるみたいだから言うけどさ、あんま怒んないでよ。たくさん仲間を殺された恨みとか悪いと思うけどさ、戦争ってそういうものでしょ?無縁だったから知らなかったけどね。知りたくなかったけど」
「笑顔の聖女なんていなかったぞ」
「だろうね。わたしも笑ったのなんて久しぶりだよ。ねえ、わたしはさ、帰りたいから帰るために何でもやるって決めてたんだよね。……どうしようもないときってさ、笑っちゃうんだよ、人間って」
痛いな。濡れてるのは血かな。涙じゃないと思う。
最後に泣いたのはいつだっけ。たぶんずっと昔だ。
会いたいな。会いたかったな。帰りたい。帰りたかった。なつ、なつ。ごめんね、なつ。
「人間は、俺たちでも思いつかないようなことをする」
「わかる。いちばん恐いのは人間だよ」
「……そうか」
放置されてこのまま死ぬか、トドメを刺されて殺されるか、どっちかな。早くしてほしいな、痛いから。
近づいてくるから、こっちかな。
こんなことになって。
こんな人間になって。
なつ、ごめんね。
「…………お前、魔族になれるって言ったら、どうする?」
ばいばい、奈津。
END.