良い子はみんな天国へ~ダンピールからの手紙~
【二〇二六年七月二一日消印】
先生へ
暑さがひとしおに感じるころとなりましたが、いかがお過ごしでしょう。
私事で恐縮ですが、ここでの暮らしはいたく幸福です。いままで縁遠かった同胞たちと共に、日々、国のために尽くしています。
言葉が通じず不便に思うこともありますが、彼らも少しずつ日本語を覚えてくれていますし、遠からず意思疎通が可能となることでしょう。
ええ、わたしは彼らの日本語の先生なのです。彼らはみな日本の文化に興味津々です。いつか、先生の著作を手に取る「生徒」も出てくるかもしれません。
それでは、暑さ厳しい折柄、体調にはくれぐれもお気を付けください。
敬具
【二〇二五年七月二〇日日消印】
先輩へ
あなたとわたしの仲です。時候の挨拶は省かせてもらいます。
最後に会ってから、どのくらい時間が経ったでしょう。先輩の担当編集としてその尻を叩き、またあるときは尻拭いに奔走したのが遠い昔のように思えます。
もちろん、実際にはたった数か月前のことであることはわかっています。その数か月の間に、資料の山が崩れて頭をぶつけでもしてない限り、先輩の頭脳は健在でしょう。この手紙の意図にも察しがついているはずです。
そう、これは別れの手紙です。
もうじき、こうして手紙を交わすことはできなくなるでしょう。
どうしてこうなってしまったのでしょう。
思えば、その兆候に気づいたのは、あの日、先輩とチーズケーキを食べた日のことでした。
あの日のことを覚えていますか? 打ち合わせの最中、外で絶えず暴風が吹き荒れていた日のことを。
あの日、先輩との打ち合わせのため来阪したわたしは、新幹線が止まって足止めを食らってしまいました。
「泊まっていけば?」と先輩は何でもないことのように言いましたね。まるで、大学時代のように。
思えば、わたしと先輩の関係も奇妙なものです。腐れ縁とでも言いますか、大学で出会って、そして別れ、編集者と作家として再会することになろうとは数奇な巡り合わせと言うほかありません。
しかし、呆れたことに先輩は相変わらずの偏食でした。冷蔵庫にはろくな食材の貯蔵もなく、けっきょく、先輩がお土産に要求し、わたしが新大阪駅構内で購入したチーズケーキを一緒に分け合うことになりましたね。
甘党の先輩がお気に入りだという、ケーキ。大阪では古くから好まれているという老舗のチーズケーキ屋のケーキでした。
今でも覚えています。部屋の隅に立てかけられた折り畳み式のテーブルを広げ、座布団も座椅子もなく、床にじかに座って二人向き合い、まあるいケーキをナイフで切り分け、インスタントコーヒーと共に食したことを。
いわゆるスフレチーズケーキを食すのは、あのときが初めてでした。
それまで、わたしにとってのチーズケーキとは、今は亡き東欧人の祖母が作ってくれる伝統的なそれであり、特別好きでも嫌いでもありませんでした。
しかし、あの日食べたチーズケーキはまるで全くの別物でした。いったい、いかな魔法を使ったのでしょう。わたしが店頭で受け取ってから数時間が経つというのに、生地は多くの空気を含んだままで、ふわふわとした食感を維持していました。噛めば噛むほど、その弾むような食感が癖になり、一切れ、また一切れ、とわたしはケーキを口に運んでいました。
先輩はそれを少し呆れたように眺めながら、ケーキを切り分けてくれましたね。
それだけならば、ただ幸福な記憶でした。しかし、いま思えば、あのときにはもう別れの予兆が潜んでいたのです。
下戸のわたしたちは、ケーキとコーヒーですっかり満足して、素面のまま語らいの夜を過ごしました。
アルコールが入っていれば、きっとあのような深刻な話はしなかったでしょう。
政治や差別、戦争の話などは。
ああ、そうです。わたしが酒の一杯でも聞し召していれば、あの夜、自身のアイデンティティについて改めて問い直すこともなかったでしょう。ヴァンパイアの末裔、ダンピールとしての自分と向き合うことなどなかったはずです。
両親の故郷はダンピールが多く住まう国でした。数年前、大国に攻め入られ、今はその占領下に置かれていることはいまさら言うまでもないでしょう。強権的な指導者が「吸血鬼狩り」を大義名分に攻め込んだのです。結果、両親の故郷からは大量の難民が世界各国に散らばることとなりました。もちろん、日本にも。
数年前の選挙では、難民であるダンピールへの事実に基づかない差別を煽った政党が大きく勢力を伸ばしました。それに追従するようにして、各党もダンピールへの排他感情を煽って集票しようとする流れが形成されていました。元来、日本はダンピールが少ない国だけに誤解が多く、伝統的な「吸血鬼」像をダンピールに重ねてしまいがちなのは半ば致し方ないことなのでしょう。
「それを脅威に思わないのか」と先輩は問いましたね。
わたしは見た目も名前も外国人そのものであり、ダンピールであることも周囲に知られていていました。
しかし、難民たちとは違い、両親の代から日本で暮らしているだけあって、完全に社会に溶け込んでいました。
ダンピールへの差別を煽る政党の存在は認識していても、いまいちピンとこないというのが正直なところでした。それよりも、日々の編集業務や、分譲マンションのローン、妊娠している妻の容態の方がよりリアルな問題であり、悩みの種だったのです。
どのみち、あくまで永住権を持つダンピールでしかないわたしに日本での選挙権はないのですから。
一方で、先輩は「嘆かわしいじゃないか」と嘆息して見せましたね。あなたはアマチュア時代から一貫して、吸血鬼というクリーチャーに魅せられた作家でしたから。
しかし、吸血鬼という空想の産物と特定の人種――ダンピールとの混同が見られる昨今の情勢では、先輩の愛する吸血鬼を描くには慎重な配慮が必要になってきます。それが面倒でしょうがない、と先輩はよく不満を漏らしていましたね。
それは、世間から求められるものではなく、あくまであなた自身のこだわり、作家としての信条の問題でした。
欧米ならいざ知らず、日本のコンテンツにおける「吸血鬼」の取り扱いはオープンなものです。最近も吸血鬼を題材とするアニメでヒット作が生まれたくらいですし、先輩がそこまで慎重になる義務は必ずしもありませんでした。
「そうはいかないよ」と先輩はずり落ちた眼鏡を直しながら言いましたね。「身近にダンピールがいるというのに、その差別を助長するような人でなしに見えるかい、僕が」と。
大学時代から変わり者として、周囲から一線を引かれていたあなたですが、当時から妙に潔癖なところがあったものです。他の誰が決めたことではなく、自分自身のルールに従って生きる。そういう人でしたね、あなたは。
やがてどちらともなく欠伸を漏らすようになり、わたしたちは床に就くことになりました。山と積み上げられた資料をどかして大人一人分の寝床を作るのに、大変な労苦を伴ったものです。
先輩は申し訳程度に枕一つを投げ与え、自分はベッドがあるロフトに上っていきましたね。
あの夜、地震が起こっていたら、わたしはきっと本に埋もれていたことでしょう。それも古今東西の怪談だとか、拷問器具のカタログだとか解剖学だとか物騒な本に埋もれて、それこそ何かの拷問のような無惨な死を遂げていたに違いありません。
文句ならあの日に言うだけ言ったのでいまさら繰り返しません。泊めてもらった身でもあります。
しかし――寝る前にあんなことを話したせいかもしれません。あるいは、あの急造の寝床、本の山に囲まれた固いフローリングの寝床のせいかも。
あの夜、わたしは悪夢に苛まれたのです。
歴史上、幾度となく繰り返されてきた、ダンピール虐殺の夢を。
火炙り、生き埋め、磔、石打ち、ありとあらゆる手段で殺される同胞たち。
その中には兄の顔もありました。苦しみ、もがき、顔を歪ませ、意味のわからない言葉をもごもごと繰り返し、そしてこちらに呪詛の眼差しを向けてきたのです。
「お前のせいだ」とでも言うかのように。
あの夜見た悪夢はしばらくの間、棘となってわたしの心に残りました。兄の顔が、声が、折に触れて思い出されたのです。
いつか先輩が言ったように、わたしは兄に取り憑かれているのかもしれません。
とはいえ、夢は夢です。先輩のように悪夢と戯れるだけでは生計は立てられません。
東京の編集部で日々の業務をこなし、家に帰れば、洗濯や炊事を妻と分担でこなす。そんな極めて現実的で地に足着いた日々を過ごすにつれて、棘はゆっくりと心から抜けていきました。
それが喜ぶべきことなのか、そうでないのか、わたしにはわかりませんでした。
そして、まるで贖いのように改めて自身のルーツについて考えることになったのです。
ダンピール。それは東欧にルーツを持つ民族。
「ヴァンパイア」を祖とする神話を持ち、「ヴァンパイアの子供」を意味する「ダンピール」を名乗るようになったとされるが、当該の神話はすでに失われて久しい。現代においては「ヴァンパイア」と「ダンピール」という語のみが残っている。
「ヴァンパイア」がどのようなものだったかは、依然として謎であり、リビングデッドやグール、吸血鬼にまつわる民間伝承とも混同される。
その血を引くとされるダンピールは有史以来、迫害と放浪の歴史を辿り、それは現代に至ってもなお根強い問題として残っている。
両親の祖国はそれが原因で占領下に置かれ、ダンピールたちによる反政府活動はテロとして報道される。戦争中は、ダンピールに同情的な見方が優勢だったというのに。そうして「テロリスト」と認定されたダンピールがまた逃げ場を求めて世界各国へと逃れてくる。
そのように、知識としてはもちろん知っていました。ダンピールとは自身のルーツさえ失った流浪の民族であり、現代にあってなお苦難を受け続けている、と。
しかし、日本で生まれ育ったわたしには、そうした歴史もそれこそ御伽噺のように思えたのです。
いえ、いつからかそう思うようになったのでしょう。
思えば、わたしも最初からこの国の社会に適応していたわけではありませんでした。子供の頃は幾度も「吸血鬼」と蔑まれたものです。長じるにつれ、そうした声は消えていきましたが、それは自分の両親がこの国の永住権を持つ合法的な移民であり、社会に適応的な「良い吸血鬼」だったからに違いありません。「良い吸血鬼」であろうと努めたからに違いありません。
そう、兄とは違って。「悪い吸血鬼」だった兄の轍を踏むまいと、子供ながらに周囲の空気を読み、規律に適応していったのです。
いまも、悪気なく「良い吸血鬼」だと言われることがあります。
「吸血鬼」というのが差別用語だということを知らない、年配の人たちが主な発言者です。
彼らは悪い人間ではありません。そう思います。ただ、無知なだけで、わたしに対して悪感情を持っているわけではない。そんなことはわざわざ考えるまでもなくわかることでした。だから、特に気にせず流してきたのです。
けれど――
自身のアイデンティティについて考えるにつれ案じるようになったのが、妻とそのお腹の子供のことでした。
妻は日本人ですが、子供にはきっと自分の特徴も遺伝するはずでした。つまり、ダンピールの特徴が。
子供も自分と同じようにこの国に馴染めるだろうか。
そう不安に思いはじめたのです。
妻は「考えすぎ」だと笑いますが、不安は拭えませんでした。社会との軋轢で歪んでしまった兄のことが脳裏をよぎるのです。
業火に焼かれる兄、重しと拘束具をつけられて川に放り込まれる兄、すり鉢状の穴に落とされ徐々に土に埋もれていく兄。
ありとあらゆる悲惨の被害者となる兄の姿が、声が、棘となってこの心を刺すのです。
そして、ある日、わたしの恐れは現実となって現れました。
早朝のランニングに出かけようと家を出ると、ドアに落書きがされていることに気づいたのです。
真っ赤な十字架。
それは我々ダンピールへの差別を表明する際によく用いられるシンボルに違いありませんでした。
十字架のことは妻には告ませんでした。気づかれる前にこっそり消しておいたのです。クレンジングオイルを染み込ませたタオルを必死にこすりつけ、メラニンスポンジで一切の跡形がなくなるまで拭き取りました。
自分でも認めたくなかったのです。何もなかったことにしたかったのです。自分に向けられた悪意を。その徴を。
そうして忘却に努めながら日々をやり過ごし、そしてまた先輩との打ち合わせのため出張することになりました。
日帰りとはいえ、東京に残す妻が心配でなりませんでした。妊娠五ヶ月目となり、お腹の膨らみも目立ってきたころです。本人はぎりぎりまで教壇に立つつもりのようですが、家でじっとしていてほしいというのが本音でした。ドアの外側を見てほしくありませんでした。
そうは言っても、わたしの一存で物事は動きません。わたしはただ、くれぐれも気をつけるようにと曖昧な言葉をかけて、東京の家を後にしました。
新幹線から電車と、いつも通り公共交通機関を利用することになりましたが、その旅路は非常に居心地悪いものでした。
当然な話ですが、車両の中には常に他人が存在し、そのほとんどは日本人と思われる人たちでした。
わたしの見た目はひどく目を引いたでしょう。自意識過剰でしょうか、何か自分について囁きが交わされている気がしてなりませんでした。
ここは自分を知る者がいない土地だ。自分が「良い吸血鬼」であることなど誰も知らないのだ、と。
電車なら、東京でも通勤の足に使っています。毎朝、見も知らぬ他人と鮨詰めになっているのです。それが何をいまさらと思うでしょう。
しかし、そうした理性の声は心に届きませんでした。東京から離れるにつれ、根拠のない不安が募るばかりで、ようやく待ち合わせ場所の最寄り駅で降りたときには、大きな荷物を下ろしたような心持になりました。
あの日も、二人でスフレチーズケーキを食べましたね。カフェが並列されているチーズケーキ専門店の窓際の席で、あなたは待っていました。
現代のチーズケーキのルーツは東欧にあるらしい。そんなことを話しましたね。そこからアメリカを経由して日本にチーズケーキがもたらされたのだと。チーズケーキは長い旅路の果てに、この極東でスフレチーズケーキという形に派生したのだと。
この国は何でも取り入れて作り変えてしまう、と先輩は言いました。ハロウィンにクリスマス、古くは仏教の文化もそうだと。それらの文化が元々どのようなルーツを持つのかまで考える人間は多くない。みんなふわふわしてるのさ、と「融通無碍でご都合主義的な国民性」に愛憎を伴った皮肉を呈したものです。
近代以前、この国にダンピールはいなかった。故にこの国にダンピールへの迫害や差別が存在したことはない、と一部の者は言います。しかし、残念ながら、それは事実ではありません。近代化によって、ダンピールへの偏見もまたこの国に取り込まれたのです。散発的ではあるものの、「吸血鬼狩り」と称する殺傷事件は近代以降幾度もあったのです。
「大阪は元々、東京よりもダンピールの人口が多い」と先輩は言いましたね。「彼らが近縁の移民を呼び寄せ、ダンピールの人口はさらに増えた。そのことを快く思わない者も少なくない。東京よりも、ダンピール差別を掲げる政党の勢力も強い」と。
「吸血鬼」とは、現代においては、その支援に国税が用いられることを揶揄する言葉でもありました。「自警」と称し、アニメのヴァンパイアハンターの格好でダンピールをつけ回すインフルエンサーもいます。少なからぬ国民の不満がダンピールに向けられていることは、否定しようのない事実でした。
「あまり一人で出歩かない方がいいかもしれないよ」と先輩は忠告しましたね。いつまた「吸血鬼狩り」が起こってもおかしくない、と。
「君にいなくなられると、僕も困るのだけれどね」
珍しく真面目なトーンで先輩は言いました。わたしたちは大学からの腐れ縁。出会ったときからずっと、わたしはエキセントリックな先輩の尻拭いに奔走してきました。
先輩の面倒を見られるのは、きっとわたしくらいのものでしょう。そう思ったわたしは「そうですね」と応じ、笑んで見せました。「確かに先輩には自分がいないとダメですね」と。
いまにして思えば、先輩の忠告はまったくもって妥当なものでした。
しかし、あのときのわたしはそれを認めたくなかったのです。恐怖から目を背けようとしたのでした。
その代償でしょうか、妻が勤務先の学校の階段で転倒し、流産したのは。
病室に駆けつけたとき、妻は茫然とした表情で病室の天井を眺めていました。診断によれば、打撲や捻挫の症状が見られるものの歩行が困難なほどではない、とのことでした。
胎児は妻のお腹の中で、鼓動を止めたようでした。その子を取り除くため手術が必要であり、妻は病院に泊まることになる、とのことでした。
そんなことを、わたしも半ば呆然としたまま聞いていました。
「何か必要なものがあれば家から持ってくる」わたしは言いました。しかし、妻はなにも欲しませんでした。着替えさえあればいい、と。気晴らしになるようなもの――たとえば本やタブレットを持ってこようかと提案しても、首を振るばかりでした。
わたしたちの子は死んだ。
その事実を受け入れるのに、わたしたちは時間を要しました。
「誰かに押された気がする」
妻がそう認めたのは、事故から数週間後のことでした。家で療養することになった彼女がある日、不意に漏らしたのです。
妻もわたしと同じでした。
自身が悪意の対象となったことを認めたくなかったのです。それはずっと昔からそうだったのだと、彼女は涙ながらに告白しました。ダンピールの妻として向けられる偏見の目を、ずっとないものとしてきたのだと。そのような悪意が存在することを信じたくなかった、と。
ダンピール排除の機運が高まり、生徒たちの間でもそうした差別的発言が交わされていることに気づきながらも、受け流してきたのだと。たとえ、ダンピールへの差別があったとしても、自分とは関係がないと思いたかったのだと。
けっきょく、この事件に関して誰が責任を問われるでもなくうやむやとなりました。わたし自ら学校に乗り込んでも渋い顔で追い払われ、警察に訴えても曖昧な返事ではぐらかされるだけでした。きっと、彼らにとってわたしは「厄介な余所者」であり「悪い吸血鬼」だったのでしょう。
もちろん、職場や近所の人たちは親身になって、慰めと励ましの言葉をくれました。妻もわたしも、その言葉に少なからず支えられたものです。
しかし、一方では、選挙が近づくにつれ、世間では「ダンピール隔離」の声ばかり聞こえてきます。
たとえダンピールが普通の人間と変わらずとも、言葉も文化も違う者同士は共存できない。彼らの存在がまた新たにダンピールの移民を引き寄せ、社会に混乱をもたらす、と。
言葉を選ばず「吸血鬼排除」を謳う政治家もいるくらいです。
誰が始めたにせよ、それはおそらく、もう誰にも止められない流れだったのでしょう。
わたしにはもはや何も信用できませんでした。
自分に優しい声をかける者たちも、裏ではダンピール隔離を掲げる政党に票を投じているのかもしれない。たとえ、ダンピール隔離には賛同せずとも、他の政策を支持するならば、妥協して受け入れてしまうのではないか、と。わたしたちの人権はその程度の重みしかないのではないか、と。
わたしたちの家のドアに十字架を落書きしたり、新聞受けににんにくを投げ込んでいるのも、顔なじみの誰かかもしれない。
そのような疑念に苛まれるようになりました。そのせいでしょう、周囲との関係が徐々に不協和音を奏で始めたのです。
わたしは常に不機嫌で苛立っていました。その態度はきっと、妻の件に対する同情の段階が過ぎれば、ただ面倒で気難しいダンピールのそれでしかなくなってしまったのです。
そうして小さな諍いやすれ違いが続いた結果、わたしは孤立し、編集部の方針で、先輩の担当編集からも外れてしまいました。
自分はもう「良い吸血鬼」ではない。そういうことなのでしょう。兄と同じです。わたしはもうすっかり「悪い吸血鬼」になってしまったのです。
そうして選挙が終わり、「ダンピール隔離」を掲げる勢力がさらに拡大したのはご存じの通りです。程なくして、ダンピール居住区域指定法案が通りました。国内のダンピールを各地域に設けられた居住区、ゲットーに隔離するという人種隔離政策です。まるで悪い夢でも見ているようでした。
わたしは在日ダンピールの互助会とその支援者たちが主催する、法案反対デモに参加しました。二三区の真ん中で、反差別を訴え、時代錯誤的な人種隔離政策の見直しを求めて同胞や支援者たちと共に声を張り上げました。
けっきょく、それはとんだ徒労でした。少なくとも、わたしや同胞たちの助けになりませんでした。むしろ、そうした活動が社会的混乱の一例としてかえって反感を買う結果となったくらいです。
有志の日本人が集めた署名も無下にされ、国際的な非難も、この国の政治には何ら影響を与えませんでした。後戻りをするには、もう何もかも遅すぎたのでしょう。過ちを認めるには、多くの人間がかかわりすぎたのでしょう。
遠からず、わたしも職を追われ居住区に移ることになるはずです。そうすれば、こうして手紙を出すこともできなくなるでしょう。あるいは、検閲を通せば、可能なのでしょうか。何にしても、こうして自由に言葉を紡ぐことはできなくなります。この国はダンピールの徹底的な隔離を決定したのですから。
もしかしたら、これは報いなのかもしれない。そのように考えることもありました。自分が兄を見捨てたことへの報いなのではないかと。
もしかしたら先輩はとっくの昔に気づいていたのかもしれませんが、わたしはあなたに兄の面影を重ねていたのです。
自分が見捨てた兄、「悪い吸血鬼」として切り捨て、その迫害に加担した兄の。
無意識に感じていた罪悪感を埋め合わせるようにして、わたしはあなたとかかわりを持ち続けました。先輩の尻拭いに奔走することで、どこか許された気持ちになっていたのです。いまでは、そうわかります。
あのとき、兄を見捨てなければ、こんなことにはならなかったのではないか。不毛にも、そんなことを考えてしまうのです。実際には、兄一人を助けたところで、何が変わるということはないでしょう。兄弟揃って仲良くゲットーに送られるだけのことです。
それでも、そうして同胞たちを見捨ててきたツケがこの現状なのではないかとも思うのです。
あなたはどう思うでしょう。
わたしの考えは間違っているでしょうか?
いいえ、いまさらこんなことを問いかけても何にもなりませんね。
わたしはひどく疲れました。夜明けも近いことですし、そろそろ筆を置くとしましょう。
さようなら。
この国のことは好きでした。クリスマスやハロウィンのお祭り騒ぎも、あなたと食べたチーズケーキも。しかし、この国はわたしのことを愛しませんでした。わたしはきっと、そのことに気づくのが遅すぎたのです。ただ、それだけのことです。