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春、遠くにありて

第8話

 桜の蕾はまだ固く閉じていたけれど、春の気配はそっと二人の周りを包んでいた。


 千寿の手がそっと、重衡の指先に触れる。

 その温もりは、言葉を超え、時を止めたように静かに胸に染み入る。


 重衡の瞳は澄み渡り、深く揺れていた。


「千寿……お前の笑みは、春の陽だ。凍てついた心に差す、唯一の光だ」


 その言葉に千寿の頬がほんのり染まった。


「重衡さま……」


 優しい声が、風に溶けていく。

 だが、その静かな幸福の裏側に、重衡の胸には、やさしい哀しみが宿っていた。


「この時が永遠であればと、願わずにはいられぬ」


 その想いは、月明かりに溶けて、どこまでも透き通っていた。

 千寿はそっと重衡の手を握り返す。


「わたしも……重衡さまのそばにいられる今を、慈しみたい」


 その言葉は、静かな湖面に差し込む柔らかな光のように、ふたりの心を包み込んだ。


 夜風がそっと吹き、桜の蕾を揺らす。


 重衡の吐息が、そっと千寿の頬を撫でた。


「お前を置いていかねばならぬ切なさを思うと、胸が締めつけられる」


 けれど、その悲しみさえも、愛しさに染まってゆく。


「だからこそ、お前を想い続ける」


 重衡の声は、まるで小さな祈りのように静かだった。


「いつか訪れる別れを恐れても、わたしはお前を愛し続ける」


 千寿は微笑み、涙をこらえながら答えた。


「わたしも、永遠に」


 ふたりの想いは静かに交わり、夜空の星がきらめくように美しく輝いた。

 恋の切なさは、最も純粋な光となって、ふたりの心を照らしていた。


 その朝、千寿は庭にひとり立ち、東の空を見つめていた。

 足元に、つい昨日までは見なかった梅の花が一輪だけ、そっと咲いていた。


 侍女がそっと告げる。


「……重衡さま、京へ送られることが決まったそうです」


 その言葉を聞いた瞬間、時間が一度、止まった気がした。

 だが千寿は目を閉じて、深く息を吸う。

 ――わかっていた。

 最初から、これは永遠にはならないものだった。

 それでも、心のどこかで願っていた。せめて、もう少しだけ共にと。

 

「重衡さま」


 呼びかけに、彼は静かに振り向いた。

 その目は、どこまでも穏やかだった。


「春が来ますね」


 千寿の言葉に、重衡はふっと微笑んだ。


「あなたがそう言ってくれるのなら……春は、きっと来るのでしょう」


 ふたりは、もう互いに触れることなく、ただ視線だけを交わした。

 千寿は、その瞳の奥に見えたものを、忘れまいと心に刻んだ。

 それは後悔でも怨嗟でもなく、ひとりの男が最後まで守った矜持――

 そして、愛する者への穏やかな想いだった。

その背を見つめながら、千寿はそっと胸に手を当てた。


「あなたの生を、わたくしが覚えている限り……それは消えません」


 春の風が吹き抜け、桜の蕾がほんのわずかにふるえた。


 彼の心に咲いた“春”は、たしかに千寿の胸に生き続けた。


 静かで、短く、けれど確かに在った愛の記憶として。






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