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月下に立つ影

第7話

 夜は、昼よりも静かだった。


 虫の音も、鳥の声も、遠く消えて、ただ月の光だけが障子を淡く照らしている。


 ふたりは、縁側に並んで腰を下ろしていた。

 並んでいても、互いに触れぬよう、ほんの少し、間をあけて。


「月が……少し、痩せましたね」


 千寿がぽつりと呟いた。

 重衡はその声に目を向け、すこしだけ笑った。


「ええ。……満ちるものは、必ず欠けていきます」


「……」


「けれど、欠けてもまた、満ちる。……そういうものだと、教えられたことがあります」


 その言葉が、なぜか少しだけ遠く感じられた。

 千寿は、夜風に髪をなびかせながら、そっと目を伏せた。

 言葉にできない思いが、胸の中でゆっくりと渦を巻いている。


「……重衡さま」


「はい」


「わたくし、時々思うのです。……この静かな時間が、あとどれくらい続くのかって」


 重衡の肩がごくわずかに動いた。

 何かを隠すように、笑みの形だけを浮かべる。


「わたしも、思います。……こうして並んで、月を眺められるのは……きっと、贅沢なことですね」


 沈黙。


 その奥にあるのは、“終わり”という言葉だ。


 まだ誰もそれを口にはしていない。けれど、それは確かに、この夜の下に息を潜めていた。


「わたしは、あなたが生きているということが……嬉しいのです」


 声に出した瞬間、胸の奥が少し痛んだ。


 でも、それは確かに自分の本心だった。


 重衡は、目を伏せて、少しだけ首を傾けた。

 その姿は、まるで何かの答えを、遠い場所から探しているようだった。


「あなたにそう言われると……、わたしは、生きていたいと思ってしまいます」


「……」


「本当は、もう命を使い果たしたはずの人間なのに」


 千寿は自分の膝の上にそっと手を置いた。

 重衡の手に触れたかった。

 けれど、触れてしまえば、いまあるこの距離が崩れてしまう気がして――

 ただ、静かにそこに手を置いた。


 願うように、祈るように。


 月が、少しだけ雲に隠れた。


 夜風がふたりの間を、そっと通り過ぎていった。



 その翌日、館の奥へと北条政子が現れた。

 背後には、鎌倉殿直属の武士たちが控え、あたりの空気が一瞬で張りつめる。

 千寿の胸が、きゅっと締めつけられる。


「千寿」


 政子は、無駄のない声で言った。


「あなた、心を移してはなりません。……あの男は敵の大将です」


 千寿は目を伏せる。

 返す言葉は、胸の中にあって、けれど声にはならなかった。


「彼が何者であれ――」


「違います」


 政子の声が鋭く遮った。


「彼は“誰であれ”ではない。平重衡です。……南都を焼き、千の命を塵に帰した者です」


 政子の声は凍るように冷たく、それは正義ではなく、まつりごとの言葉だった。


「あなたに情があるのなら、それが何よりの弱みとなる。

 敵将が情にほだされ、もう一度立ち上がるのを見たくはないでしょう?」


 その夜。重衡は、庭の片隅で膝を抱えていた。

 縛めこそないが、彼の自由は奪われ、見張りの武士たちの目が常に届く場所にあった。

 風が吹いても、花が咲いても、もう自分の手では何も掴めない。


 けれど、不思議なことに、胸の奥に灯があった。


 千寿の言葉が、まだそこに残っていた。


 生きていてほしいと、彼女は言った。


(わたしが生きている意味を……、誰かが探してくれるなどとは)


 武士として、名誉も家も焼き尽くされた。


 けれど、ただ一つ、「もう一度、人として在ってもよい」と思わせてくれる声が、ここにあった。


 翌朝、千寿が縁側に立つと、重衡は庭の梅の木の前にいた。

 背筋を伸ばし、まるで戦場を前にした将のような静かな眼差しで、東の空を見ていた。

 そこには、かつての武将の気配がわずかに戻っていた。


 それは剣ではなく、言葉でもなく、ただ――

 「誇り」という名の、最後の鎧だった。



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