春の風の記憶
第6話
その夜、重衡は夢を見た。
炎だ。――燃え盛る、朱の海。
寺が焼ける音、経巻のはぜる音、僧の叫ぶ声。
夜のように黒い煙が空を覆い、塔が崩れ落ちる。
(……止められなかった)
誰かが泣いていた。
あの春の風のような声で。
「兄上、まだ……香の匂いが残ってるのに……」
幼き妹が、焼け落ちた庭にしゃがみ込み、焦げたよもぎを抱えていた。
指先は真っ黒で、けれどその目だけは透き通っていた。
――手を伸ばす。
だが、その姿は、熱の揺らめきに溶けて消えた。
景色が変わる。
今度は、板敷きの間。背後には鎌倉の風。
その前に立つ男。
烏帽子をかぶり、冷たい眼差しをもつ男。
源頼朝。
「平重衡。……おまえは、南都を焼いたな」
重衡は黙って頭を垂れる。
「許しを乞うつもりか」
「いいえ。ただ……果たすべきを果たすまでです」
頼朝の口元が、わずかに動く。
それは怒りでも憐憫でもない。
ただ、徹底した――「他人」としての目。
「生かす理由はない」
「承知しています」
重衡は、その言葉の意味をとうに知っていた。
すべてを失い、妹も、家も、誇りさえも――焼け落ちたあの夜とともに。
(……けれど)
夢の帳の中、ふと差し込んだ光。
微笑む少女の姿。
白い頬に、やさしい風が触れている。
千寿。
よもぎの香を抱えて、微笑むあの人。
その笑みに、夢のなかの炎が、ふっと和らいでいくようだった。
(……明日が、あるのなら)
――その名を呼ぼうとした瞬間、重衡は目を覚ました。
雨の静かな夜明けが、部屋を包んでいた。
軒の先から、ぽたり、ぽたりと水が落ちる音がする。
重衡は、静かに息をついた。
そして、ひとつだけ、誰にも聞かれぬほど小さな声で呟いた。
「……妹よ。わたしは、生きて、何を残せばいいのだろうな」
その声は、しとしとと降る雨の音に紛れ、静かに夜へと溶けていった。
障子の向こう、雨はまだ静かに降っていた。
重衡は床に起き上がると、灯の消えた部屋にしばし座り込み、両の掌を膝の上で組んだ。
その指先は、夢の中の火の熱をまだ覚えているように、かすかに震えていた。
「……妹よ……」
独り言のようなその呟きを、部屋の外にいた者がそっと聞きとめた。
千寿だった。
いつものように朝餉の膳を運ぶ途中で、ふと足を止めた。
戸の向こうから感じられた、あまりにも静かな悲しみ。
(……泣いてはいないのに)
けれどなぜか、心が濡れているように思えた。
「……失礼します」
声をかけて戸を開けると、重衡はゆっくりと顔を上げた。
「……ああ。すまない。騒がしかったか」
「いえ……。朝の膳を、お持ちしました」
千寿は盆を持ったまま、彼のそばに膝をつく。
その仕草は自然だった。
ただ、今日は、いつもよりすこしだけ視線が深かった。
「……夢を、見ていたのですね」
重衡はふと笑った。
苦く、それでいて、どこか許すような笑みだった。
「……誰でも、夢の中では生きていい者になれる」
「そんな……ことは、ありません」
千寿はそっと、盆の端に手を置いた。
迷いのように、その指先が少しだけ震えていた。
「あなたは、生きて……いい人です」
それは、決して慰めの言葉ではなかった。
ただ、真っ直ぐな、まるで春風のような声だった。
重衡は目を伏せる。
「……あなたに言われると、信じたくなります」
そうしてふたりの間に、また沈黙が落ちた――が、それはもう重苦しいものではなかった。
むしろ、そこに息づくのは、言葉のいらない「赦し」のようだった。
だが、そのやりとりを、障子の影から見つめる政子がいた。
廊の端、柱の陰に身を潜め、微動だにせずふたりの気配を読んでいた。
朝の雨が、ようやくやんだ。 雲間から差し込む淡い光が、障子に柔らかな模様を描いていた。
その静けさのなかで、誰にも見えない思いが、ゆっくりと動き始めていた。




