雨音の帳
第5話
その日は、朝からしとしとと雨が降っていた。
梅の木の枝からこぼれる細い滴が、石畳の上に淡い輪を広げている。
風はなく、空気はまるで絹の帳のようにやわらかく、重たく垂れていた。
千寿は、ひとりで縁側に座っていた。
柱に背を預け、膝を抱えて、ただ雨音を聞いていた。
ぽつり、ぽつり。
まるで誰かの記憶が、遠い昔を語るように。
静かに、絶えることなく、空から落ちてくる。
ふと、足音がした。
見ると、重衡が軒下の柱のそばに立っていた。
濡れるのを避けて、わずかに頭を傾けながら、空を見上げている。
「……雨の日も、お好きですか」
問いかけると、重衡はそのままの姿勢で、わずかに目を細めた。
「好き、というより……こうして雨を聞いていると、少しだけ、生きていることを思い出すのです」
「……思い出す?」
「戦の最中は、音がありすぎて、自分の鼓動さえ見失う。
けれど、こうして雨の音に身を浸していると、静かなものが、どこかから戻ってくる気がして」
その声には、懐かしさにも似た響きがあった。
誰かに語るというよりも、自分に向けて語るような、そんな響き。
千寿は少し黙り、そして問いかけた。
「……戦は、お嫌いでしたか」
雨音が、ふたりのあいだを通り抜けた。
「……嫌い、というのとは、少し違います」
「わたしにできることが、それしかなかった。ただ、それだけのことです」
その横顔には、痛みも怒りも浮かんでいなかった。
あるのは、ただ、長く時間を歩いた者にだけ宿る深い静けさ。
「……あのとき、火に包まれた都を、最後に振り返ったとき――」
重衡はふと目を伏せる。
「焼け落ちる寺の屋根が、海に沈むように見えました。何もかもが、音もなく、沈んでいく……」
千寿は、はっと息を呑んだ。
そのとき初めて、目の前の男が背負っている時間の深さを、ほんのわずかに垣間見た気がした。
「でも……私は、思っていたのとは違いました」
「……何がですか」
「平重衡という人が……こんなふうに、雨の音を聞く人だとは思いませんでした」
重衡は、ふっと笑った。
小さな、小さな笑み。どこか無防備な、少年のような笑みだった。
「……きっと、わたしのことを、鬼のような武者と思っていたのでしょう」
「思っていました」
「素直ですね」
「はい。でも、今はもう……違います」
重衡は、それに何も答えなかった。
けれどその沈黙は、どこかやさしいものだった。
冷えた空気の中に、微かなぬくもりが、確かに生まれていた。
軒の端から落ちる水滴が、土に吸い込まれていく。
まるで、ふたりの心のどこかにも、知らぬうちに染み入り、根を張ってゆくようだった。
◇ ◇ ◇
その夜、千寿は廊下を歩いていた。
ふと襖の陰から声がかかった。
「……あの人と、何を話したの?」
政子だった。
その目には、微笑のような影が浮かんでいた。
「ただ……雨の音を聞いていたのです」
「そう。それは、いいこと」
政子はゆっくりと歩み寄り、千寿の目をまっすぐに見つめた。
「重衡は、敵であると同時に、“語られざる記憶”でもある。
誰もその中を覗こうとはしない。だけど――あなたには、それができる」
「……わたしに?」
「ええ。
心というのは、戦では壊せない。でも、言葉では壊れることがあるのよ。
逆に言えば、言葉でほどけるものもある」
政子の声は、柔らかく、それでいて底知れぬ深さを帯びていた。
(……この人は、何を見ているのだろう)
千寿は思った。
政子の狙いがどこにあるのかは、まだ読み取れなかった。
けれど、その視線がただの優しさではないことだけは、確かにわかっていた。
けれど、それでもいいと思えた。
雨音の下で、ふと感じた重衡の静けさ。
それが偽りでないことだけは、千寿にははっきりとわかったからだ。
障子の向こう、雨はまだ静かに降っていた。




