凍土に芽吹く
第4話
朝餉が終わると、千寿は庭の縁側に腰を下ろした。
昨日よりも、空気がやわらいでいる。
冬の陽が障子を透かし、淡い金色の光が畳の上に落ちていた。
すこし離れた場所に、重衡の姿があった。
彼は庭の端に立つ古い梅の木を見上げている。
凛とした背中。風に揺れる結んだ髪。
そこに佇むその姿は、まるで庭の一部であるかのように自然だった。
(また、ここにいる)
この数日のうちに、彼がここにいることが――
あたりまえのように思えている自分がいた。
けれど、それは「あたりまえ」ではなく、「受け入れてしまった」のだと千寿は思った。
「……白梅は、お好きですか?」
気づけば、声がこぼれていた。
自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。
重衡はすぐには振り返らなかった。
だが、その背にかすかな笑みの気配が走った。
「ええ。……静かで、強い花だと思います」
「強い、ですか?」
「寒さに逆らわず、ただ、そのときを待つように咲く。
誰に見られずとも、咲くべきときに、黙って咲いている。
……それが、強さのように思えて」
その言葉のひとつひとつが、雪解けのしずくのようだった。
冷たくもあたたかく、心の奥をすっと通り抜けてゆく。
千寿は、少しだけ笑った。
それが、何日ぶりの笑みだったか、自分でも思い出せなかった。
「わたしは……白梅を見ていると、くしゃみが出るんです」
「……それは、少し困った花ですね」
重衡の唇が、ほんのわずかに上がった。
それは、凍った水面に差しこむ一筋の陽光のような笑みだった。
その微笑を見たとたん、千寿の胸の奥がふっと緩んだ。
戦の将というよりも、雪の日に手紙を届けてくれる人のような――
どこか、やさしい空気があった。
(ああ、この人はきっと、何かを、なくした人だ)
そう思ったとき、不思議と、その「なくしたもの」が何だったのか、知りたくなった。
風が、ふたりのあいだをそっと通り抜ける。
白梅の枝が揺れ、ひとひら、花びらが舞った。
それはまるで、どちらかの心の奥に降りたように、そっと縁側に落ちた。
◇ ◇ ◇
その日の昼下がり。
千寿は、政子の命で、重衡の食の世話に向かうこととなった。
侍女たちは浮き足立ち、武士たちは目を細めて警戒した。
「姫様が直々に……本当に、よろしいのでございますか」
若い侍女が袖を握って言った。
彼女の声には、心配以上に、畏れがにじんでいた。
「政子さまのお考えです」
そう答える千寿の声には、確かに少しの震えがあった。
その震えは、自分でも完全には否定できないものだった。
膳を運ぶとき、控える武士たちの視線が、背に刺さった。
その膳の上に置かれた湯気の立つ粥と煮物が、やけに儚く見えた。
重衡は、座して待っていた。
その姿は威圧的ではなく、ただ、静かだった。
「お口に合うかは……わかりませんが」
千寿がそう告げて膳を置くと、重衡は深く頭を下げた。
「ありがたく、頂戴します」
その仕草は、どこまでも丁寧だった。
物音ひとつ立てず、箸を取り、粥を口に運ぶ。
まるで、食事という行為そのものに、敬意を払っているかのようだった。
(この人は……こんなにも静かに、物を食べるのだ)
千寿の胸に、不意に、こみ上げてくるものがあった。
重衡は、ひと口ごとに小さく息をつきながら、箸を置いた。
「……あたたかい食事は、それだけで、心がほどけてゆきます」
「……食事だけで、ほどけるものですか?」
千寿がそう返すと、重衡はわずかに首を傾げた。
「ほどけるふりを、しているだけかもしれません」
それは、笑っているのか、泣いているのかわからない声音だった。
(この人は、やはり、何かをなくした人だ)
そう思うと、千寿は膝の上で手を固く組んだ。
(わたしがその“ふり”の向こうを覗いていいのだろうか)
問いは、心の奥に沈んだまま答えを持たなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、政子は千寿を呼び寄せ、そっと問うた。
「食事は、どうだった?」
「はい。とても……静かに召し上がっておられました」
政子は、その答えに満足げにうなずいた。
「静かに食べる男は、まだ心が死んでいない。
千寿、その静けさをよく見ておくのよ」
「……なぜ、わたしにこの役目を?」
政子はしばし黙したあと、静かに言った。
「重衡という男は、国を焼いた者。だが――焼かれる側の痛みを知る者でもある。
その矛盾に、あの人はずっと苦しんでいる。
あなたには、それを、見ておいてほしいの」
千寿は黙ってうなずいた。
まだ確信は持てなかった。けれど、自分が何かの節目に立っていることだけは、感じていた。
そして今、凍てついた地の奥に、ほんのわずかな芽吹きが起こっているのを、千寿は確かに感じていた。